蒸気と硝煙

かー

第1話

 ゴーン、ゴーン、ゴーン、ゴーン、ゴーン

 セレスの時計がきっちりと五度、その音を響かせた。

 潮の薫る風、鼓膜の振動と、腹底を圧迫するような重低音が心地よく、どこか遠い過去を想う。

 それらを夕日に重ねる。遠い日の私はいつも、慢心していた。そして、雪が降る日、すべてを———、

 私の感傷は角度を変え、丁度、私の視界をよぎった飛行船に向けられた。ラドルフ社の栄光を象徴する歯車が赤い日に照らされる。おそらく、あの中では貴族たちが絶品に舌鼓をうち、美酒に酔っているのだ。

 地上では遠い地から荷物を運ぶ蒸気船が港に停泊し、水夫が懸命に荷を下ろす。

 そして、私は自身の右腕を見た。長年の傭兵稼業で鍛えられた腕は、肘の先で、切り立った崖のようになくなり、袖は手すりに無造作に流れている。

 それを見るたび、私の心には必ず陰りが生まれた。自身の過去の何者かが耳打ちをするのだ。

「お前は逃げている」

 今も、得体の知れない何かが私の背後から甘く囁く。

 柵に背を任せ、汚染された黒煙が覆う不気味な色の空を眺めた。自然と、上半身を反らし、私は頭上の空を見つめた。そこまですると、私の体は更に柵の向こう側へと重心が移動していく。柵を支点にして紙一重の均衡を保っていた体は予想だにしない方法で崩された。

 空の遠方から黒い影がこちら向かってくることが分かった。初めは鳥と思われたが、直後、私の頭に大きな衝撃があった。脳が瞬断を起こすと、私の体はそのまま柵をこえ、時計塔から落下を始めた。あまりのことに私はそのまま空を眺めていた。

 意識を超えた原始的な恐怖が体を絡めとったが、それと同時に私が死んだ後のことを考えた。先の戦争で幾たびも死線をさまよったが、危機に瀕するときは常に同じだった。

 内臓が持ち上がる感覚に耐えながら、無様に四肢を悶えさせた。コツ、と物体の感触が伝わると私はそれを咄嗟に握る。

【登録者照合中……承認。危機状態のため緊急防御殻を展開。】

 ひどい合成音と噴出音、冷やりとした蒸気。

 突如、ライトグリーンがまぶしい幾何学模様が広がる。

 私は、目の前の事態に対して自身の力の干渉を及ぼすことができなかった。

 大きな衝撃。暗闇。

 意識を失うと、私が次に目覚めたとき、空は幾分か夜を伴っていた。

 私の体は絶痛絶苦に打ちのめされていたが、幸いにも骨折の気配はなかった。

 両の腕で上体を起こすと、その事実に血の気が引いた。信じがたい事であった。

 首がもぎ取れる回転で、私は右腕を確認した。

「なんだこれ!?」

 鈍い黄褐色と艶やかな黒の義手だ。

 緻密に再現された手の節や橈骨や尺骨を再現したらしい機構、各器官に通る管。手の甲と腕との接合部にはほのかに光るモノが埋め込まれていた。

 私はこの世のすべてが信じられない思いでいた。あるはずのない右手がある。しかし、その直前の記憶がない。私は時計塔から落ちた。

【承認。戦術モード第一段階に移行。】

 一つ一つの言葉をつぎはぎにしたような、ひどい機械仕掛けの声が謎の右腕からなる。数瞬、金属のこすれる音とともにすべての機構が変形し、黒光りする筒が現れた。十数個の穴を持つそれは、いわゆる銃身と呼べるものであった。

「うぁ!?」

 もはや高度な思考力を失った私は、目の前の状況に引きずられるように受け止めることしかできなかった。夢の中のような気もするが、右腕の質量は本物である。

 更に混乱の中にいた私は奇妙な義手をどうにか納められないか、ただひたすらに左手で叩き、ひいては乾いた土を殴りつけた。しかし、義手は歯牙にもかけず銃身を沈みかけの太陽の前に晒している。

 じきに私は家に帰ることを思いついた。家には工具がある。そうすれば外れるはずだ、そう踏んだ私は取り急ぎ立ち上がって公園から出て行こうとした。そこではたと気づいた。

 このまま家に帰るのはあまりにも目立っていた。いくら機械技術がここ半世紀で急成長を遂げているとはいえ、小競り合いが絶えないグイルドブルド公国とはいえ、未だ自身の四肢を機械改造して機関銃にしている人間も技術も世間にはない。

 幸いなことに今、この公園にいる人間はいなかった。または、倒れている男と関わるのを避けて出て行ったのかもしれない。

 私はベンチに座り、この右手のことを考えた。

 夕日は地平線の彼方へと身を沈ませて、残りは爪の先ほどしかなかった。

 それを見ていると、私は徐々に落ち着きを取り戻していた。

 そうだ。この右腕がなんだ。どうでもいいじゃないか。バレたところで誰にも不利益はない。上着で多少誤魔化せば、どうにかなる。

 私はそう開き直ると、公園の出口へと勇足で向かった。

【戦闘モード終了。通常モードに移行。】

 またもや前触れもなし合成音がなると、私の物々しい右腕は駆動音をたてて、最初の状態へと戻った。

 私は再び千錯万綜の迷路へと踏み入れるところであったが、目を覚まし、これ幸いと急いで家路についた。

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