第30話 想いは単純で
二階の女子トイレからシャワールームに移動した佑真と椿姫は出口の前に立っていた。
佑真たちの目と鼻の先、パイプ椅子の上に置かれた湯おけの中には、バスタオルと小タオル、シャンプーとリンスと、歯ブラシに歯磨き粉、洗口液と着替えも置かれていた。至れり尽くせりの用意周到さに感心しつつ、嫌なオーラを放つファンシーな置き手紙が添えられていた。
佑真は無言で手紙を手に取り、中身を読んだ。
『仲直りできたんだね。
がんばって。本番五分前♡
ぴーえす♡ 椅子の下にぬめりこれ一本、おいといたよ♡』
「………………」
とりあえず、椅子の下を除く。
片手で持てる大きさの縦長の黒い箱があった。
確認を終えた佑真は、すーっと短く息を吸った。
そして、偶然にも懐に入っていた白紙を取り出し、
『江崎センセイへ。
頑張って。本番五分前♡
P.S.ぬめりを提供します♡』
と透の直筆に似たものを書き上げた佑真は、紙を折り畳み、偶然にも持っていた黒いオモチャ袋を懐から取り出して縦長の黒い箱と一緒に入れた。
「な、なにやってるの?」
一人でなにかやっている状況に椿姫が困惑した表情で聞いてきた。
江崎が自分のカバンから目を放した隙に隣に置いておこう、と佑真はそう思い、椿姫に身も心もすっきりセットが入った湯おけごと手渡した。
「どうぞ」
「え、っと?」
「いってらっしゃい」
身も心もすっきりセットを渡されて動揺する椿姫を無視して、女性用シャワールームに押し込もうとする佑真。早くシャワールームに押し込みたい気持ちを急がせたが、当然、椿姫は戸惑って背中を押す力に抵抗してしまう。
「ちょ、ちょっと待って! 佑真君」
「待たない。いってくださいお願いします」
「敬語にならなくちゃダメなこと!?」
馬鹿力の佑真に叶うはずもなく、椿姫は押し切られてしまう。
「終わったら言ってくれ。んじゃ、またな――」
踵を返して立ち去ろうとする佑真の腕を咄嗟に掴んだ椿姫。気を利かせてさっさと立ち去ろうとしていた佑真だが、腕を掴まれてたことで足が止まってしまった。
「待って」
ぎゅっと椿姫は腕を強く握りしめて逃がさない意思を示す。
適当に振り払うつもりだった佑真だが、今回の件といい憔悴している椿姫の手を無理に振り払うこともできず、諦めて椿姫に向き直る。
「なんだ?」
平然を装いつつ、佑真は問う。
「一緒にいて……」
「……。はい?」
一瞬、理解できなかった佑真は首を傾げる。
「だから、一緒にいて」
切なげな表情を浮かべ、一人では不安そうな弱々しい椿姫の声音。散々罵って拒絶した半面で拒否するという選択に意向できず、佑真は困り果ててしまう。困惑しながらべつの導きができればと模索するも断念し、観念して深々と溜息をついた。
「あの、意味わかって言ってんのか?」
「……、うん」
頬を赤らめて小さく頷いた。
その椿姫の反応を見て、佑真は腹を括った。
今日は午前中授業ということで不良マガイの佑真たちを除いて大半の生徒が下校している。おかげで佑真は女子用シャワールームへ容易に入室できた。椿姫に付き添うような形で、個室に入ったのを見計らってパイプ椅子を持ち込んで要望どおり近くに座った。
「おーい。この状況おかしいのわかってんだよなぁ?」
ラノベを逆さまに開くくらい落ち着かない佑真。化粧臭いというか甘ったるい匂いが湿った空気に混じって充満する室内に置いて敏感な嗅覚を持つ佑真には地獄でしかなかった。
「ごめんね。一人はちょっと不安で」
身体を洗う椿姫が申しわけなさそうに言う。
「……。まあ、いいさ。椿姫には色々と辛い思いをさせちまったからな。謝罪代わりにはならないが俺なりの誠意だと思ってくれればいい」
「わたしが誘っといてなんだけど、女子用シャワー室に付き添うのが誠意なのはどうかと」
「ははっ、それもそうだな」
他愛ない発言がおかしくてお互いに笑った。それが笑いなのか疑問な薄ら笑いを浮かべる佑真は、読書では気は紛れないと悟ってラノベを閉じる。
「ホントに悪かったな、椿姫」
「佑真、君?」
「俺は何事も客観視できるように心がけていたつもりだったが、結局のところはなにも見ていなかった。たかがワンシーンに失望し、憶測で椿姫を罵った」
昔の灰色の思い出に浸る佑真。裏切られたという凄惨な過去が椿姫の醜く魅せた。いまだ等しく人間を見れない未熟さを痛感させられた。
もう後悔しないと、誓ったくせに。
いまだあの悲劇から立ち直れていない。あの日から前に進めていない。その確かな事実を突きつけられると佑真は嫌気が差した。
「ゴメンな」
過去にふけって出た後悔した佑真の謝罪の言葉。
椿姫はそれを黙って聞いていた。短いが重みのある言葉に彼女は唇を噛んだ。
「わたしのほうこそ、佑真君に悪いことをしたよ。秘密がバレるのが怖くて、保身のために情報を盗もうとしたんだから」
「けど思い留まったじゃねぇか」
「違うの。それも保身に走ったからだよ。あんなにも大好きな佑真君を意図も簡単に裏切るような行為ができた、そんな人間なんだってわかって恐ろしかった。優しいから謝れば許してくれるとか、少しだけならとか、そんな甘い考えがあった自分が醜かった。それに……あのときバッタリ会っちゃったときの佑真君の顔が今でも忘れられない」
一度高ぶる感情を飲み込む椿姫はシャワーを止めて口を開く。
「あのとき、佑真君の気持ちを壊しちゃった!」
椿姫の心からの悲痛な叫び。悔しさが滲み出ているようなそんな言葉だった。
やっぱそうか。二人して傷ついてたんだ。相手を、自分を。
佑真はそう思い、ただ天井を仰いだ。仲違いで起きてしまった事故としか言うようがなかった。こんなにも心から寄り添ってて、お互いそれを認識できていなかった。
気づく一歩手前で引いてしまったんだ、と。佑真は思った。
「べつにいいさ。つーか驚いたな。形だけとはいえ、付き合っていた奴がいたとはな」
「……ッ!」
「どんな間柄で、付き合っていた期間になにがあったかは知らない。その間で知られたくないような関係だったとしても。それが俺を残念がることだったとしても」
「そ、それは……」
「前に聞いた話を真に受けてるなら、あれは気にしなくていいからな」
「え?」
前に佑真は好みの女性を口にした。経験がある女はどうとかなんとか。もしそれが今回の事件のトリガーになっているという可能性が佑真の中にはあった。あのときの椿姫の言動が急におかしくなったのも発言した後だった。
本心も混じるが、軽率な発言で椿姫の心に迷いを作ってしまったことが原因なら佑真はその責任を取らないといけないと、そう思った。
「あーは言ったが、経験があるからといって椿姫の告白を蔑ろにするつもりはない。ゆっくりと納得のいく答えを出すつもりだから、安心していい」
「佑真君、わたし――」
「なにも言わなくていい。けど、もし今日のようなことがあったら迷わず俺たちを頼ってほしい。多分、秘密はあの畜生との関係じゃないだろうし、もっと大きななにかなんだろ?」
椿姫からの応答はない。だが、佑真はそれを肯定とみなした。
「だからさ。次も同じように秘密を盾にされても、聞かれるが怖くても俺は耳を傾けないし、椿姫を見る目を変えたりしない。椿姫が言葉にするまでは、ずっと待つから今日みたいに抱え込まなくていい。無理にとは言わないが信用してほしい」
言葉を終えた佑真は一息ついた。
椿姫は個室の中で壁に背中を合わせ、今にも泣きそうな表情を浮かべていた。どうしようもない感情が渦巻き、どうしていいかわからず、床に崩れ落ちた。
「椿姫? 大丈夫か?」
異変に気づいた佑真は扉に向けて呼びかける。
「ごめん……」
ようやく椿姫からの返答は拒否だった。
「信用できないか?」
「違う。違うのっ……佑真君のことは信用してるよ。ただ、たくさん迷惑かけちゃってることが申し訳なくて。このままでいいのかな、って……」
「べつにいいだろ、迷惑くらい。限度はあるが友達に遠慮すんなっての。もしかしなくても私がいなくなれば、とか考えてねぇだろうな? そっちのほうがもっと迷惑だからな」
「ごめん、なさい……でも、あんなことしてまでどんな顔していいのかわかんねくて」
弱々しく椿姫の言葉に、呆れて佑真は溜息を吐く。
「お互い様だっての。あぁあ、これじゃ埒が明かねぇな」
もどかしそうに頭をクシャクシャしながら佑真はパイプ椅子から立つ。
おそらく、椿姫はこれからもずっと今日のことを引きずっていくだろう。だが、佑真はそれを望んでいない。ここにはいない透もそれを望んでいない。望まないから佑真の背中を蹴ったのだから。なら佑真はやらなければならない。後腐れがなくなるように。
「お互いに反省会はここまでにして仲直りようぜ?」
「それって」
「そのままの意味さ。お互いに非がある。それは自分自身で自覚してる。反省もしてる。だったらこれで終わり。おまえはもう、俺にとって大切な友達なんだ。ずっと引きずるような関係にはなりたくない。だから、その……ああ、ここでスッキリしよう」
「えっ、やだっ。ここで言うって、佑真君エッチだよぅ……」
「ちげぇわい。なんでこうも意味深に聞こえるってだけで脳内ピンクになるんだ」
小さく笑う椿姫に、佑真は呆れて溜息を吐く。だが、その椿姫の言った冗談は本人も元通りの関係を望んでいる意思表示に違いない。心配していた佑真の杞憂だった。
なら関係の修復に複雑さはいらない。単純かつ素直な言葉を届けるだけだ。
「冗談言えるくらいには平気そうだな。だから、これはケジメだ」
「佑真君?」
その言葉を不思議に思った椿姫は個室から顔を出すと、視界に衝撃的な光景が飛び込んできた。彼女の見えないところで深々と頭を下げ、
「すまなかった」
謝罪の言葉を口にする佑真の姿だった。
「佑真君!?」
頭を下げる佑真に驚き、椿姫は慌てて個室を飛び出して駆け寄った。
「傷つけて、すまなかった」
「ちょっとやめて、佑真君! そんな、わたしこそ――」
そこまで言って椿姫は口を閉じた。
違った。ここで言う言葉は佑真を宥める言葉ではないと悟った。これは佑真なりのケジメのつけかたなのだ。それを止めるということは佑真の否定する。そして椿姫もまた佑真と同じ場所にいる。なら椿姫がこれからすることも必然的に決まっていた。
しっかりと佑真に向かい合って彼と同じように頭を下げて、
「わたしも、傷つけてごめんなさい」
謝罪をした。お互いに、傷つけた相手に。
気が済むまで頭を下げ続けた。
時間はそれほど経っていない。最初に上げたのは佑真だった。
「よし、これでこの話題は終わりだ。悔いない謝らない反省しない。平常運転でいこう――ってヤベッ、眼鏡が曇っちまったな。やはり湿気は苦手だな」
面倒くさそうに曇った眼鏡のレンズを拭う佑真。
「あ、ごめんね。長いこと居させちゃって」
「いいよ。つか、早く透と合流しねぇとな」
「そうだね。透君にもたくさん迷惑かけちゃったね」
「透には世話になったからな。なにか返さないとな。まあ、一緒に戻ったって事実をしっかり見せてやるのがあいつにはいいんだろうけどな」
「安心させたいよね」
「そうだな。んじゃ、さっさと安心させるために身体拭いて着替えない、と――」
拭き終わった眼鏡をかけて、そこで佑真は失敗を犯したことに気づいた。謝ることしか考えておらず、椿姫が個室から出てくることを想定していなかった。そして、それに疑問を抱かずに平然と会話していた。
視界に映る椿姫は一糸纏わぬ姿で目と鼻の先におり、とうの本人は年頃の男子の目の前でタオルも巻かずにイヴスタイルであることに気づいていない。
全身を濡らしたままで、素肌に残る雫が椿姫の身体を伝う。
水も滴る良い女。ラッキースケベもいいところだが、まずこの異様な光景を地獄と見なすか教育機関の崩壊と見なすか。まあ、それはどうでもいい。今必要なのは健全な男子の目の前にいるイヴに状況を理解してもらうことからだ。のだが。
なーんで個室から出てきちゃったんだろう。
と佑真は全裸の椿姫を目の前にして動じず冷静にそう思った。呆れながら遠回りの気遣いを要らないと思いながら単純な言葉を佑真は、
「……、椿姫よ。気安くありのままを男に見せるもんじゃないぞ」
冷静に口にした。
「え?」
椿姫は素っ頓狂な声を上げて、自分の姿を確認する。隠さなければいけないところは隠されておらず、目の前には少し困り顔で愛しの佑真が間近で直視している。状況を理解していく椿姫は数分前の自分の行動を脳内再生し、タオルに手をかけなかったことに後悔し、恥ずかしさのあまり顔は見る見るうちに真っ赤に染まっていき、
「い、イヤァァァァァァァァッ!」
羞恥のあまり悲鳴を上げ、佑真の顔面を平手打ちしていた。
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