第28話 贖罪は単純に




 女子トイレの扉を隔てて椿姫が痛めつけられていても自業自得だと、モヤモヤする気持ちに嘘をつき。最悪な状況下で本心から出たであろう椿姫の本音を聞いて心が揺らぐのを感じても気のせいだと適当にあしらった。


 佑真の臆病さが、自分の気持ちを否定した結果が今の状況を招いた。

 最初は椿姫の最後を聞き届けておしまいにしようと佑真は考えていた。

だが、話が進んでいくにつれて佑真の記憶にない過去の約束を椿姫は守ろうとしてくれていた。佑真への誹謗中傷に椿姫は怒ってくれた。ずっと、想っていてくれた。

 佑真の心境が揺らいだ。モヤモヤした気持ちへの解答から、必死に目を背けた。もうわかっているはずの答えから逃げた。


『ごめんなさい……佑真――』


 だが、扉越しに聞こえた椿姫の弱々しい謝罪が佑真を後悔させた。


 ああ、椿姫と俺は同じ気持ちだったんだ。


 そう思ったときには自分が馬鹿らしくなった。

裏切ったと思って突き放し、無罪だとわかった昨日から椿姫に心から謝りたかったのだ。思い出すまで忘れていた、誰にでもできる単純かつ明快な仲直りの謝罪を。

 簡単なことに気づかなかった佑真は、自分への苛立ちをトイレの扉にぶつけ、今までの自分から一歩進むために、まずは目の前の障害を蹴り破った。



 ――――



 今宵の佑真は無性に不機嫌だ。自業自得とはいえ敵対者に友人が好き勝手に弄ばれている光景は非常に不愉快だった。

 真正面から見える位置の個室。椿姫がまだ男に汚されていなかったことに安堵の息を漏らす佑真は下敷きになった女ごと踏み越えた。体重で圧せられる女が呻き声を上げるが、構うことなく踏み越える。


「テメェ……なにしやが――」


 仲間の呻き声を聞いた取り巻きが佑真に掴みかかろうとするが、頭を鷲掴みにして個室のドアに容赦なく叩きつける。佑真が手を離すと膝から崩れ落ち、取り巻きは微かな呻き声を上げて動かなくなる。

 佑真は、昏倒する女の安否など目もくれず椿姫のほうへ向かう。


「テメェ! このやろ――」


 逆側にいた小太りな取り巻きが佑真に殴りかかるが、当たる寸前で避け、隠し持っていた分厚い本の平面で容赦なく殴打する。当然、小太りの取り巻きは激痛に顔面を押さえ、苦痛の声を漏らしながら倒れ込んだ。相手が苦しんでいようが佑真はなんの感情も抱かずに足を進め、半着姿になった椿姫に向けて佑真は不敵に笑った。

 その笑みに残党の取り巻きたちは後ずさり、佑真を睨みつける。


「……天瀬、佑真」


 取り巻きが動揺している中、リーダー格のギャルがそう呼んだ。


「おー、あんまフルネームで言われねぇから久々に呼ばれるとなんか新鮮味を感じるな」

「うるっせぇ。テメェなにしに来たんだよ」

「おいおい、そんな邪険にするなよ。俺は久々にフルネームで呼ばれて感動してんだぜ?」


 口の端を吊り上げて笑う佑真は椿姫のほうに向かい、男に分厚い本で殴打する。椿姫の下着から手を放した男は、首根っこを掴まれて入れ替わるように身を投げる。


「クソがッ! なにしやがんだテメェ!」

「いやぁ、いかにも病気持ってそうな身なりのヤツが軽々しく椿姫に触って病気移されたらたまったもんじゃないから離れてもらっただけの話だ。謝罪はせん」

「ンだとっ!」


 今にも殴りかかってきそうな男に佑真は飄々とした態度で対応する。


「佑真、君……」


 椿姫の呼び声に佑真は振り向き、


「大丈夫、そうじゃなさそうだな。悪いな、ボロボロになるまで出遅れちまって」


 不敵な笑いを見せる。その佑真の顔に椿姫は少し肩の力が抜ける。


「佑真君は全然……悪いのは全部わたしのせい――」


 椿姫がそう言おうとしたとき、佑真に人差し指でそっと口を塞がれる。


「その話は後だ。今は目の前のヤツらをどうにかしてからだ。あと、その可愛い下着はちゃんと隠しとけよ。見えない魅力は隠れてなんぼだからな」


 佑真の言葉で椿姫の視線は下に、制服を開かれて露わになっている自分の素肌に気づき、顔を真っ赤にしながら慌てて前を隠す。恥じらう程度の元気があることにほっと安心する佑真はギャルどものほうに目を向ける。


「さーてと、テメェらはなんだったか。まあいいか、なんで椿姫がこうなってんのか説明してくんねぇかな?」


 なにを考えているのかわからない無表情な顔をした佑真と目が合うとギャルたちは狼狽した。反応からして対峙することを想定していなかったのだろう。

 だが、絶望の表情は一瞬で余裕の笑みへと変わる。手札があるからこそできる顔だ。その手札が通用すればの話だが。


「べつにテメェには関係ねぇ話だろ。ってか、いいのかよ」

「なにが?」


 面倒くさそうに返す佑真にギャルは厭らしい笑みを浮かべ、


「そいつはおまえらの情報を盗んだんだぜ? こんなに大量のファイルをさ。それでも助けたいと言えんのかよ。テメェらからしたら重罪人だぜ?」

「ああ、それか。まさか椿姫が偽物を持っていくなんて思わなくてな。俺としたことが確認を怠っちまったばかりにすっかり騙されちまったよ」


 予想だにしない佑真の返答に、ギャルの顔が強張った。


「い、いいのかよ。テメェはあれだよな? 一回裏切るだけでも捨てるんだろ? 助ける必要もないじゃん。それに公開処刑するんだったらさ、うちらがかわりにもう二度と悪さできないように躾けてやってもいいんだぜ?」


 ハッタリがまかり通らないとわかると、悪あがきとばかりに提案する。

 だが、佑真は涼しい顔をして、


「なに言ってんだか。公開処刑されんのも躾られんのもそっちのほうだろ」


 頬をポリポリと掻きながらそう言った。

 その反応を見て取り巻きたちは途端に動揺する。


「ふざけんな! こいつはおまえを裏切った事実は変わんねぇだろ? まさか天下の天瀬様がこいつを庇うっていうのか? 随分と人間になったもんだなァ!」

「確かにテメェの言うことには一理ある。その事実は変わらねぇし、庇う理由もない」

「なら――」

「けどすべて白紙だ。俺からすれば情報を盗んだことにはカウントされねぇし、テメェらはそれに騙された。言い換えれば椿姫のお手柄だ。良いもんを釣ってくれた功労者だ。まあ、ちとばかし情報の行き違いがあったことに関しては否めないがな」


 ハハッ、と不敵に笑う佑真に気に食わなそうに聞いていたギャルは、


「結局庇っているようにしか聞こえねぇんだよ」

「カバーって大事だよな」


 佑真はさらっといなした。

 今回の椿姫による裏切りは傍から見たら最悪な場面だ。やっと信用してきたところを裏切られるなんて最悪なシチュエーションは腹立たしい。

 だが、佑真は今回に関してどうしてこうなってしまったのか心当たりはあった。もし椿姫の秘密がギャルたちに握られ脅されていたとしたら今回の騒動と結びつく。佑真同様の大きな秘密。八方塞がりな秘密が拡散される恐怖と、助けを求めれば仲間の耳に嫌でも入ってしまう恐怖が椿姫にはあったのだろう。とくに佑真には聞かれたくない椿姫にとってどうしていいのかわからなかったはずだ。精神的に追い詰められ、葛藤に葛藤を重ねて生まれてしまったのが今の状況なのだろう。

 佑真自身もその事情を踏まえず突き放してしまったことで状況を悪化させてしまった。悔しい話だが、このギャルがいなければ椿姫を信用に値する人間だと証明してくれたキッカケになってくれたことに感謝している。

 少し大目に見ようかとも佑真は検討している。


「本当ならテメェらを放っておくわけにはいかないんだが、今日のところは特別に見逃してやってもいいと思ってる。今後、これ以上くだらないことをやらないと約束してくれんなら今回のことは見たかったことにしてもいい。文句はねぇだろ、わかったか?」


 本来なら見逃さずにここで容赦なく沈める。

 椿姫の首に傷をつけた張本人を佑真は見逃そうとしている。だが、それを確証づける証拠がないために今回は見逃すしかない。

 相手にとってとても美味しい提案だ。だが、ギャルたちは引き下がらなかった。


「お生憎様、そこで、はいそうですか、って引き下がれるわけねぇだろ」

「………………」


 よし、潰そう。

 佑真の中での決定事項となった。


「やれやれ……、引き下がってくれよ、なに不良の定番みたいなこと言ってんだよ。まあ、テメェらは半端者だけどな。半端者と不良を一緒にしちゃ不良がかわいそうだ」

「喧嘩売ってんのか?」

「おいおい、そうヤケになんなよ。もしかして図星だったりすんのか?」


 煽れば煽るほどギャルの額に青筋が浮かぶ。

 

「で、どうすんだ? 椿姫が風邪を引くといけないから早めに――」


 今まで蚊帳の外だった男が、悠長に喋っていた佑真の顔面を殴っていた。


「ゴチャゴチャうるせぇんだよッ! これ以上、無駄口叩くならぶっ殺すぞッ!」

「佑真君!」


 椿姫は叫んだ。拳を振り切られ、体制を崩してよろめく佑真の身体は床に倒れそうになるが、彼は踏み止まった。

 痛そうに殴られた箇所をさする佑真は面倒くさそうに溜息を吐き、


「……どうなっても知らねぇぜェ?」

「あん? なに言って――」


 不敵に笑って男の脇腹を分厚い本で殴った。男は苦悶の表情を浮かべ、重い衝撃を喰らった脇腹を抑えながら膝を崩して蹲った。

 威勢を張っていた男の情けない姿を見下ろしながら佑真は口を開く。


「本来ならテメェらの悪行を見逃しはしないんだ。都合のいい提案ぐらい素直に受け取っとくもんだぞ。なあ? 鈴木光太すずきこうた……今井いまいひなひなこ合田日名子ごうだひなこ石井正美いしいまさみ新田祐希にったゆうき。あと、そこのリーダー核の金髪、大森玲菜おおもりれいな。俺がテメェらにやられると思ってんのか?」


 的確に一人ずつ名前が呼ばれて動揺するギャルたち。戦意がそがれていく相手を見て、佑真は不敵な笑みを浮かべ、ギャル改め玲奈のほうを見やる。


「調査済みとも言いてぇのか……! うちらを脅すつもり?」

「脅すだぁ? チンケなおまえらじゃあるまいし、俺がするのは脅迫じゃなく制裁。テメェは約束を破った。そして、俺の大事な仲間にも手を出した。暴力に脅迫、強姦、傷害、椿姫にここまでのことをしたんだ、公開処刑だけで済むと思うなよ?」


 悪魔のような笑みを浮かべて言う佑真。処刑宣告された玲奈一行は、苦虫を噛み潰すような顔を浮かべていた。


「ふざけたこと抜かしてんじゃねェぞ! 処刑されんのはテメェのほうだろうがァ!」

「どうだろうな。とくにテメェにはお灸を添えないといけねぇからな。椿姫に一生残る傷を残してくれたんだ。手ェ出したこと後悔させてやる、ポルノマガイが」


 脇腹を抑えながら吠える男、もとい光太を挑発する。

 さすがの光太も脇腹を殴られ、さらには佑真にこけにされたことで完全に頭にキテいる。額に青筋を立てながら懐から百均に打ってそうな折り畳みナイフを取り出してきた。


「おいおい危ねぇもん出すなよ」

「うるせぇ! 椿姫は俺の女なんだ! 脱がした程度で傷つくわけねぇだろ!」

「……。ああ、そういうパターンね。精神科なら紹介できるぞ?」


 うぁ……、と面倒くさそうに声を漏らす佑真は額に手を当てそう言う。


「黙れッ! テメェこそ椿姫のなんなんだァァァァッ!」


 半狂乱になった光太は雄叫びを上げ、佑真にナイフを突きつける。

 危ねぇな、とぼやく佑真は突きつけられるナイフを刺さる寸前で避ける。一発、二発と、一度でも刺されれば怪我程度では済まされない危険物の突きが佑真を襲う。

 椿姫ですら目を瞑りたくもなるような危機迫る状況で、平然とした表情を浮かべて避ける佑真は、呆れたような溜息を吐きながら光汰の持つナイフをバシッと叩き落とした。

 慌ててナイフを拾おうとする光太は、佑真に蹴りつけられて床に転がった。苦悶の声を上げる光太を見下ろす佑真はナイフを蹴って、


「椿姫は俺の親友だ。赤の他人様が気安く椿姫を呼び捨てにすんじゃねぇよ」


 ぴしゃりと言った。


「親友だぁ? 親友なら椿姫と俺の恋路を邪魔すんじゃねぇよ……ッ!」

「恋路ねぇ……ん? ああ、なら面白いこと教えてやるよ」


 にやりと笑う佑真はちらっと椿姫のほうを見た。


「……あれ、佑真くん?」


 嫌な予感がした椿姫は彼の名前を呼ぶ。


「もちろん椿姫とは親友だ。そして、椿姫は俺にアイラブユーな告白をしてきた張本人でもある。テメェのようにカノジョだって妄言を吐き散らてるのと違って、こーくーはーくされてその延長戦でダチになった仲だ。一方的だが愛を受けている」

「はぁ? な、なに言って……――」


 光太の声音は動揺に変わる。好機とばかりに佑真は攻める。


「頭下げてまで別れるためにカップルのフリをしてくれ、って熱烈にも程遠い大迷惑な頼みごとじゃなくて、椿姫から俺に勇気を出して熱烈なアイラブユーと一緒に申し込んできたんだ。ああ、目を瞑れば今でも蘇る……初々しく告白する椿姫の姿を。本気の想いをぶつけてくれる告白してくれた。とても暑く真剣な気持ちを。お前と違って、オマエと違って、O☆MA☆Eと違って!」


 光太がなにか言おうとしても佑真は攻め立てた。現実を知らしめるかのように椿姫が個室のトイレで赤面しながら両手で覆い隠している中で容赦なく言い放った。


「うあ……っ! うああァァァァァァァァッーー!」


 光太は半狂乱になって懐から隠し持っていたもう一本のナイフを取り出し、また懲りずに佑真に襲い掛かる。


「うわ……」


 もう一本ナイフを持っていたことに驚愕しながら肉薄する寸前で佑真も懐からブツを取り出す。キリリッ、と無機質な音を鳴らしながらナイフに刃を合わせた。

 キンッ、と甲高い金属音とともに光太のナイフは宙を舞ってタイルの床に落ちた。


「あぶねぇの。予備でもう一本持ってるか普通」


 悠長に佑真はそんなことを言いながら少し形状の変わったカッターの刃を出し入れを繰り返し音を鳴らす。威嚇にも似たカッター特有の無機質な音はトイレ中に響き渡る中、光太はナイフを持っていた手を抑えて苦悶の声を上げ始める。

 佑真は小首を傾げるが、理由はなんとなく察した。


「ん? ああ、切っちまったのか。でもしょうがないよな。いきなり切りつけてくるテメェが悪いんだからな。 まあ、自業自得ってことで適当に片づけてくれ」


 不敵に笑う佑真はそう言う。だが、光太は懲りずに落ちたナイフを持ち上げて突き刺そうとする。その行動に心底呆れたはてた佑真は華麗にナイフを避け、抱えてた分厚い本で全力で顔面をぶん殴って昏倒させた。


「アホだな」


 佑真は溜息交じりにぼやいた。光太から、持っているカッターに視線を移す。


「ああ……やっぱ刃がかけちまったな。これ一つ作るだけで結構金かかるんだが、まあ、頼めばなんとかなるか……で?」


 不意に視線を玲奈のほうに向ける。

 ビクッ、と肩を震わせて後退る玲奈たち。あれほど強気で引き下がらなかった玲奈たちが光太が倒された途端に戦意喪失していた。

 そんな光景に佑真は、滑稽だと思い、


「なんだァ? もう怖気づいついちまったのかァ? 男がやられただけでこーんなにも弱気になっちまって、無様だなァ」


 不敵に笑う。笑い笑って。不気味に笑って。

 気圧される玲奈たちは負けじと歯を食いしばって、


「おまえらァ!」

「「お、おう!」」


 残った取り巻きに命令し、佑真を消しかけようとする。

 だが、相手が悪過ぎた。取り巻きはカッターの刃を仕舞った佑真によって瞬く間に顔面を横殴りにされ、床に糸の切れたマリオネットのように床に崩れ落ちた。

 一人だけ気絶せずにトイレの外へ逃亡しようとするが、


「おいおい、逃げんじゃねぇよ」


 佑真は咄嗟にカッターの刃を投げた。

 本体から離れた刃が回転を駆けながら飛翔する。

 玲奈を通り過ぎ、振り向いた取り巻きの顔を横切って壁に当たった。

 カチン、と甲高い音を立て、刃は床に落下する。

 カランカラン、と床にカッターの刃が落ちた音とともに取り巻きの頬から血が滲む。じんわり痛む頬に触れ、取り巻きは気絶した。


「ありゃりゃりゃ、お宅のダチはどうやら寝不足みてぇだな」


 佑真はそう言うとカッターを横に振って、カチャンとなにかが填まる音が鳴る。満足そうに佑真は横たわる取り巻きから玲奈に向ける。


「う、ウソだろ……」


 束の間の出来事に玲奈は顔面蒼白になり、後退った。


「クッ……、ハッハッハッハッ……さっきの威勢はどうしたんだよ。手札も切り札もやられただけで面白れぇ顔しやがってヨォ。クククッ……ハッハッハッハッハッハァッ!」


 次第に佑真の笑いが不気味さを増していく。

 一歩ずつ足を踏み込むたびに、玲奈は一歩後退る。


「な、なら交渉しようじゃないか! こいつの秘密の写真を……」

「ぺしっ」


 だが、携帯を取り出した瞬間、佑真に手ごと横へ引っ叩かれる。

 携帯は玲奈の手を離れ、放物線を描いてトイレの個室へ入室し、便座の中へホールインワン。無事に着水する。


「あ! うちの携帯が! ……ヒッ!」 

「この俺がそんなチンケな材料で交渉できるとでも思ってんのかァ? よくまあ、平然と他人の情報を売れるもんだなァ?」


 佑真は不敵に笑いながら詰め寄る。


「あ、悪魔……」


 玲奈は、悪魔と錯覚するほどの不敵な佑真の笑いを見てぼそりと呟いた。そんな反応をする彼女に、佑真の笑みは徐々に歪なものになる。


「悪魔か、良いチョイスしてくれるじゃねぇか。クククッ……ハハハハァッ!」


 玲奈は一目散に廊下に向けて走っていた。気絶した取り巻きたちも、男すら見捨てて。横たわる女子トイレのドアに沿って外に逃走した。


「……。ああ、まあいい、か」


 捨て身で反撃してくるかと少しだけ期待していた佑真は肩透かしを喰らった。つまらなそうに溜息を吐くと便器に座る椿姫に近づいた。

 半脱ぎ状態の椿姫からは必死に抵抗した光景が目に浮かんだ。幸いなことに脱がされる寸前で阻止することができた事実に、また安堵の息が漏れた。


「……寒くないか?」

「えっ、う、うん、大丈夫だよ」


 少し気の抜けた笑いを浮かべる椿姫。その笑顔は生気というものがあまり感じないほど衰弱していることを物語っていた。

 溜息を吐き、佑真は制服の上着を脱いで、


「風邪ひくといけないからな」


 濡れた椿姫の身体を覆うように羽織らせる。


「そ、そんな、汚くなっちゃうよ!」

「いいから、ほら」

「あ、ありがとう……」


 椿姫は目を見開いて驚いていたが、佑真は気にしなかった。

 だが、椿姫はじっと見つめてきた。

 不思議に思った佑真は首を傾げて、


「どうした? 椿姫」


 名前を呼んだ。


「また、名前で呼んでくれるの?」

「ん? おかしなこと言うな。親友の名前を呼んじゃダメなのか?」


 さらに不思議がる佑真。しかし、椿姫の反応は大きく違った。


「うぅん! むしろ、呼んでくださってありがとうございます……」

「どう、いたしまして?」


 ややぎこちなさが残る椿姫の言葉に、佑真は首を傾げて返答する。


「歩けそうか? まずはシャワー室にいくぞ」

「……うん、でも、さっきの生徒追いかけなくていいの?」

「べつにいいさ。どうせ逃げられない。今は椿姫の身体が心配だ。野郎の雑菌がいっぱいついてるから妊娠する前に洗い流して身を清めねぇと」


 変な心配をする佑真。冗談なのだろうが、椿姫は思わずくすっと笑う。


「なにそれ、確かに雑菌はついてるかもしれないけど、それだけじゃ妊娠しないよ」

「比喩に決まってんだろ」

「もしかして、男に触られると妊娠する、っておばあちゃんがよく言う迷信ジョーク?」

「わかってんなら聞くな。ほら、いくぞ」


 佑真は足取りの覚束ない椿姫の身体を支え、シャワー室へ向かった。



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