回想:望郷のフェアリーテイル



 男がまだ少年だった頃――妖精の国へ行ったことがある。


 厳冬の長く続いたある日、暇を持て余した少年は、気の早いふきのとうか新芽がないかと森へ繰り出した。昼間の明るい時間、家からそう遠く離れていない場所であり、冬の最中とあって熊が出没する心配もなかった。

 時計を持った急ぎ足のウサギを追いかけていたわけではない……ただ忽然と、少年の目の前が唐突に開けたのだ。


「わあ……!」


 その時の感嘆を、彼は昨日のことのように思い出せる。


 真冬だというのに、辺り一面は咲き乱れる花々で満ちており、立ち昇る芳香にくらくらした。防寒着の内側が汗ばんで、着るまでもなくあたたかいのだと一目散に脱ぎ捨てる。子供の小さな体には鎧のごとき重装備だったため、解放された喜びで進む足が軽くなる。


 そうして「こんな常春の里があったのか」と舞い踊っていると、どこからともなく楽器の音色が流れてきたのだ。

 笛、琴、聞いたこともない調べが幾重にも絡み合い、天上の音楽を織りなしていた。異国の王様とて早々聴けない荘厳な旋律は、少年の歩を更に軽くしていった。


 ……どれほどの時間、踊っていただろうか。

 疲れも気にならない永遠が経った頃、『それ』は現れた。


「こびとさん……?」


 西洋に古くから伝わる妖精だとまだ知らなかった少年には、『それ』が昆虫の翅が生えた小さな人間に見えた。


『■■■■!』『■■■■!』

『■■■■!』『■■■■!』


 小鳥のくちばしほども小さな口から発せられて、今しがた聴いていた素晴らしい音楽が、彼ら小さき者達の合唱だったのだと知り、少年は驚いた。


「すごい! すごい!」


『■■■■!』『■■■■!』

『■■■■!』『■■■■!』


 喝采を送る少年に気を良くしたのか、妖精達はしきりになにかの言葉を交わす。慌ただしく飛び回ったかと思えば、小さな体を寄せ合い、一つの果実を担いで持ってきたのだ。


「ぼくに?」


『■■■■、■■■■!』


 良き観客へのお礼にと小さな手のひらに乗せられたそれは、黄金のリンゴのようだった。


 しかしリンゴのようであってリンゴではない。

 こぶし大の大きさで、枝と接している果梗かこうが伸びているため、似ているリンゴを連想しただけだ。それ以外はむしろリンゴとは思えない見目をしている。

 金色の果皮と果肉は透き通っており、蜂蜜かべっこう飴のようにてらてらと輝いている。かといって表面はベタついておらず、象牙のようにつるりとしていた。


『■■■?』


 言葉は理解できなかったが、所作で意味は通じた――「食べて?」と。


 こんなにも美味しそうなものを目の前にして、頬張らずにはいられないだろう。少年は大きく頷くと、ひと思いに頬張った。


「…………っ!」


 その、得も言われぬ味わいたるや!


 短い人生の中で食べたもので一等美味しいと言い切れる絶品ぶりに、少年は息つく暇もなく一口、また一口と齧りつく。

 酒精のごとく鼻に抜ける馥郁ふくいくとした香り。瑞々しい果汁が口いっぱいに広がる、果肉のとろける口当たり。噛み締めることすら官能的で、喉を潤す甘露の法悦に打ち震えた。


 ――ああ、こんなにもしあわせな世界があったのか。


 妖精達は少年の食べっぷりを褒めそやすように歌い舞い踊り、頬を撫でる風は絹に似てなめらか。色とりどりの花々は目にも鮮やかで、どこを見ても目を楽しませてくれる。


 天国や楽土とは、このような場所なのだろう。少年は根拠もなく、しかし確信を持ってそう思った。いっそここにずっといたいとも。

 親兄弟と仲が悪かったわけではない……だが空気が、味が、風景が、あまりにも少年の肌に合いすぎた。五感すべてが、常春の里の虜になっていた。


 けれども――楽しい時は長く続かないのが世の常だ。


「え……?」


 一瞬の出来事だった。

 文字通り瞬きをした直後、元の景色へと切り替わった。


 脱ぎ捨てた防寒着も見当たらず、幼い身には厳しい冬の空気が柔肌を刺した。だというのに少年は寒さなど気に留めず、身柄を捜索しに来た大人に保護されるまで、山中を彷徨い歩いた。


 あの妖精の国を探すために――。


 ――そして、それが異世界と呼ばれる幻想郷の一端であり、この世界にも魔法が存在するのだと知ったのは、かなり後の話。

 少年――幼き頃の加地かじ朔之介さくのすけが行き会った、お伽噺フェアリーテイルである。


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