絶望は隣人の顔をしている③
良太郎と月彦と別れて帰ってきた暁奈とアイは、「二人と一緒じゃなかったのかい?」と首を傾げる時雨に、嘘を交えて丸く収めたらしい。
「不審者がいたので念のため急いで帰ってきたんですけど、途中で傘を忘れたことに気づいてしまって……既に近くまで来ていたので、天道くんが加地くんを送るがてら、探しに行くと言ってくれたんです」
「ああ、そうだったのか。それは大変だったね」
急いでタオルを持ってきてくれた時雨は、やはり仕事中だったのか、作務衣姿にくたびれたパーカーを羽織っていた。
「僕は仕事に集中していて気づかなかったけど、晴花ちゃんが夜に不審者の大声を聞いたってことも最近あったし、警戒するに越したことはないよ」
鍵をしっかりとかけ、玄関を上がり、廊下を歩く。
それだけでホッと心が凪いだそうだが、時雨の次の一言でなにか良からぬことを暁奈は既に感じ取っていたらしい。
「でもそれならちょっと心配だな。学校帰りに買い物してくるって言ってた晴花ちゃんも、商店街が混雑してるのか遅いみたいで、まだ帰ってきていないんだ」
商店街――今しがた戦場と化したそこから逃れてきたことを考えれば、思考が至ったのは当然だろう。
いわんや巻き込まれた危険性も……と憂慮したところで、チャイムが無機質に鳴り響いた。
「お、丁度帰ってきたみたいだね」
時雨は無邪気にそう言うと、サンダルもつっかけずに玄関へとひとっ跳び。
「あれ、でも鍵どうしたんだろう……両手が塞がってるのかな?」
疑念をうっすら抱きつつも、特に気に留めず玄関の鍵が開けられる。引き戸タイプの皆本家の鍵は、マンションの洋式ドアによく見られるサムターンのようにつまみを回すのではなく、上へと上げる形だった。
そのため、鍵に手がかけられた段階で――止めるには手遅れだったのだ。
「おじさん、駄目……っ!」
暁奈よりも一拍早く気づいたアイの手が、引き留められずに空を切る。
「――――は、」
カチャリと小さな音で鍵が開き、引き戸が開かれ、時雨の動揺した声が聴こえて倒れ伏すまで、ものの三秒。
しかしそのたった三秒で、暁奈らの運命は決してしまった。
後悔ならばいくらでも述べられるだろう。危機から脱したばかりなのを加味しても腑抜けすぎていた、せめてインターホンで確認するべきだった……だがなにより、「皆本家が心安らげるホームである」という認識が、感覚を鈍らせてしまったのだ。
そのツケを、
「おお、やはりここにいたか」
撫でつけた白髪頭に手入れの行き届いた髭、品の良い着物を身にまとった、好々爺の見本と呼べるような老人。
「加地……朔之介……!」
「おや? 君からは『師父様』と呼ばれていた気がするが……」
敵の襲撃。
予期していなかったとはいえ、後れを取る暁奈ではない。
「アイ下がって!」
部屋へと逃げ込むアイをかばいながら飛び退って、つぶさに右目の魔法陣を引き絞り、魔力を充足させて弾丸を装填する。業火の魔弾は丸腰の老人の急所を撃ち抜き、ただちに死に至らしめるはずだった。
だが即座に臨戦態勢となった暁奈に対し、余裕の姿勢を崩さない朔之介は、部下の一人もいない孤立無援の状態で一言。
「些事に目くじらを立てている場合でもないのぅ」
「まだ、ア……ッ!?」
暁奈の総身を貫いたのは、激痛。
構えの体勢を保てなくなった業火の魔弾は放たれることなく、四肢を投げ出す形で暁奈は廊下に倒れ伏した。
「おや、まだ意識があるとは驚きだ。流石、才覚ならば当代一。最新の魔女。魔法への抵抗力も高いと見た」
最新の魔女――原作ゲームの知識がある月彦にはその言葉の意味が分かったが、語る暁奈は要領を得ないといった様子で、いぶかしがるように眉をひそめていた。
……あくまで余談だと、話は戻される。
艱難辛苦に全身をさいなまれ、ろくに魔力も練り上げられないながらも、土足で上がり込む招かれざる客を止めようと、足にすがりついたらしい。
「ふうむ、困った困った」
時間稼ぎになるほどのものでもない。それでもアイをあの寒々とした牢獄に再び閉じ込めたくなかった一心での行動。それは非情にも蹂躙される。
「ぁぐッ……!」
「君のことは恩を仇で返すような不良娘だとは思っていなかったんだがなぁ」
嘲笑うがごとく蹴り飛ばされ、動くこともままならない暁奈の手が踏みつけられた。
「衣食住を与えてきた親代わりの邪魔をする手など、いらないだろう?」
「――待って」
暁奈を値踏みしていた視線が、居間との境目へと注がれた。
――アイだ。
裏口から脱出することもせず、毅然とした態度で朔之介に向き合う姿が、這いつくばる暁奈の目にもしかと映っていた。
「だめ……戻ってきちゃ……」
暁奈としては、ほうほうの
しかしアイもアイで判断を下したのだろう。相手は町を半ば牛耳っている大組織。これまで見過ごされてきたのは、弦が悪態混じりに言っていたとおり、優位な立場からなる寛恕があっただけに過ぎない。本気で魔手が伸びてくれば、立ち向かうしか道はなかった。
「もう、暁奈達に酷いことしないで」
「ほう! 君に自意識が芽生えたとは驚いた。実に興味深い」
そのことを元より重々理解していたのだろうアイは、己が決断を示すがごとく、台所から持ち出した『それ』を両手できつく握り締めた。
「して、脅しのつもりかな?」
――『それ』は、包丁だった。
「だめアイ逃げて!」
「その魔法の種は割れてる。血の穢れで痛みを与える、極めてシンプルな呪い」
アイの考察は正しかったのだと、月彦は暁奈のセーラー服を見て得心に至る。黒いため分かりづらいが、血飛沫が数滴付着した痕跡が見て取れた。
弦が仕掛けた結界の罠もそうだったが、出自ゆえか、アイの魔法を感知する慧眼には舌を巻くものがある。……それを知れたのが危機的状況でなければ、もっと喜べたのかもしれないが。
魔法に集中している最中に浴びせられたのかもしれないが、気が逸れたところを狙われれば、良太郎が対峙したとしても危うかったはずだ。
「朔之介が得手とするのは、『錬金術による人工生命の研究』。今まで使ってきた呪詛も、他の魔法使いから金にものを言わせて買い取っただけのもの。だからシンプルで応用が利かない」
他の魔法使い――十中八九、ヒミコ・スミス・リーだろう。
そしてアイの言説に倣うならば、自殺騒動の折の呪詛も、人を異世界化させるエナジードリンクも、ヒミコから買い取って仕込んだことになる。
魔法使いの秩序組織に所属していないフリーランスは、後ろ暗い目論見の片棒を担がせるのには適任だ。そのうえ相手は資本主義の権化。金の切れ目が縁の切れ目だが、金が切れるまでは縁も切れないと、朔之介には打ってつけの仕事仲間だったに違いない。
これ以上の攻撃手段はないと看破されて尚、「それで?」とアイの勇猛を鼻で笑う。
「その包丁で私を刺し殺そうというのかい?」
「違う」
……朔之介の誤算は、アイに自意識が萌芽したことではない。
そこから更に思考し、行動を決定するだけの自由意志までも育てていたとは、思ってもみなかったことだ。
そう、皆本家の台所から持ち出した包丁は、護身用などではなかった。
「こうする」
アイは包丁を逆手に持つと、なんら躊躇うことなく自身へと突き立てた。
「アイっ!」
切腹がと見まごう一刀が深々と刺さる。
……しかし、決死の行動にも、朔之介は眉一つ動かさない。
「その程度では致命傷にもならないことなど、君自身が一番よく分かっているんじゃないかね?」
切っ先が引き抜かれる。
服を穿った傷はあれど、流血はない。
前々から理解していたはずの人造魔導具であるという事実が、暁奈の手の届かない眼前で繰り広げられていた。
「人造魔導具『天蓋』は、その肉体のありとあらゆるパーツを魔導具で構成した、私の研究の最高傑作だ。たかだかパーツの一つが停止しようと、生命活動になんら支障はない」
「なら、」
アイは再度、己が身に刃を突き立てた。
「こうする」
再度、己が身に刃を突き立てた。
再度、己が身に刃を突き立てた。
「やめてアイ!」
暁奈の悲痛な叫びも届かず、アイは三度目の刃を引き抜いた。
……聴き入っていた月彦も息を呑んだ。
アイが人あらざる人造魔導具『天蓋』であり、常人であれば失血死をまぬがれない傷も意に介さないのだとしても、自分自身を大きく傷つける行為がどれほどのものか。安全性が保障されたバンジージャンプでも尻込みする人が多い中、アイは暁奈や月彦達のために、その身を賭して交渉を持ちかけたのだ。
交渉を求めての脅しと言いつつ――その実、自傷である。
生命活動になんら支障がないとして、痛みがないわけがない。「あの人達を、犠牲にしたくない」と言った健全な精神が、容易く凶行に奔らせるわけがない。
それでもアイは二度三度と刃を振るった――振るったのだ。その意志の強さたるや。
「分かった分かった!」
朔之介は諸手を挙げて肩をすくめる。
「最高傑作をこれ以上傷物にされたら堪らない。観念しよう」
……けれども暁奈は「そう言ってたけど、なんか、時間の無駄だから譲歩したように見えたわ」と覚えた違和感を感想に交える。
言われてみれば確かに、良太郎が弦と戦っている隙を突いたのだとしても、暁奈に抵抗されるのが目に見えていた中で、部下も連れず身一つというのは不自然なように思われた。朔之介の一門に関しては月彦よりも詳しい暁奈がいぶかしがるのだから、人造魔導具が知られていない内情ではないだろう。
出さなかっただけで秘策があったのか、時間を急くなにかがあったのか、それとも……疑問はさておき、話は続く。
「『天蓋』がスムーズに回収できないようであれば、代わりに今世最後の魔女を連れて行く予定だったが、いかんせん磨き上げていない原石だ。格が下がる」
決意の固さに気圧されての交渉成立ではなかったが、朔之介が折れたことで、四度目に及ぼうとしていたアイの手も止まる。
「幸い、労せずともあちらの世界を開けられる鍵が現れてくださった。人工のダイヤモンドとて、手土産には丁度良かろう」
「約束、守るって誓って。勇者、あなたの孫、暁奈、『天蓋』の私をアイとして匿ってくれた人達が、最低限の範囲」
「『天蓋』、君が自主的にこちらについて来てくれるのであれば、手を出さないと誓おう」
「だが、」と朔之介はその後を見越して譲歩する。
「報復されれば、こちらも迎撃せねばならんなぁ……」
「それは……分かった」
今聴けば、魔王の正体を熟知していたからこその条件提示だったのだろう。
アイを取り返しにくるだけでなく、晴花が魔王へと変貌したことで、戦端が開かれるのは時間の問題だった。朔之介にしてみれば、計画通りにアイが手元に舞い戻ってきたことになる。
狸ジジイめ、と月彦は内心毒づく。
「アイ……だめ、行っちゃ……!」
ろくに動けない状態で、尚も引き留めようとした暁奈の内心は察して余りある。
折角籠の外に出られて明るい世界を見られたというのに、自ら暗い方へと戻ろうとしている。
――そして極めつけが、暁奈の心にとどめを刺したアイの最後の顔だ。
「笑ってたの」
笑って、口元だけ動かしてこう言っていた――「ありがとう」と。
「あたしは……なにもできなかった……っ!」
話し終えた暁奈は、口に出すことで去来した悔しさを握り締め、膝に打ちつける。ステラが治癒を施したことで動けるまでには回復したようだったが、心までは程遠かった。
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