私の息子のネタ帳

砂藪

お笑い芸人を目指した息子


 お笑いの道に生きると決めて、息子が家を出て行ってから五年。


 たまに連絡をしてくる息子は、ビデオ通話でもないのに声のトーンで喜んでいるのか悲しんでいるのか、最初の「もしもし」だけで分かる程、気分が表に出てくるような子だった。そんな息子は今お笑い芸人として壇上に上がっていた時の笑顔の写真を飾って、棺桶の中にその身を納めていた。


 この時ばかりはいつも「お前にお笑いなんて無理だ」と食事中に熱い汁物を見て「俺、猫やけん、食べれへんわ」と招き猫の物まねをする次男を鼻で笑っていた堅物の長男も大粒の涙を流して泣いていた。


 私は泣けばいいのか、笑えばいいのか、分からなかった。


 息子は小学生の頃からお笑いをすると言っては、親父ギャグを披露し、テレビで見たのか見様見真似でネタ帳を作り、ネタを考えると私の真似でネタ帳片手にお笑いを披露してくれた。


 そんな彼は「葬式をするとしたら、みんなに笑ってほしい」と言っていた。笑えることなんて一つもない。押し殺した嗚咽がそこかしこから聞こえる葬式の場では笑い声一つ出せなかった。どうやって、笑っていたのかも分からなかった。


 くだらないギャグ一つでも笑う私を最初の客にしてネタを披露する息子はもういないのに、今後私はなにを見て笑えばいいんだろう。


 葬式が終わって、数日経った。


 テレビのお笑い番組で笑い声が沸き上がるのを私はぼーっと見ている。

 誰も「どうして」とは葬式会場で言わなかった。病気でも自殺でもない。私の息子が死んだのは、子どもを助けたからだ。


 ふとインターホンが鳴って、誰がいるかも確認せずに玄関の戸を開くとそこにはランドセルを背負った小さな男の子が立っていた。


「あの……いきなりきてすみません……これ……」


 不安そうな男の子が差し出してきたのは、小学生が使うような方眼ノートだった。ネタ帳100と大きな字で書かれ、息子の名前まであった。息子はいつまでも使いやすいからとこの方眼ノートをネタ帳にしていた。そうか。もう百冊に突入していたのか。


「ぼく、たすけてもらって……それで……」


 もじもじとしている少年のところにすぐに母親らしき女性が駆け寄ってきた。泣きながら私に頭を下げて謝罪と感謝を繰り返していた。この少年が川で溺れかけていたのを息子は助けて死んだのだ。必死に謝罪と感謝を繰り返す少年の母親を見て、どこか現実から離れているような感覚に陥った。


「頭をあげてください。息子は人を笑わせるのが好きだったんです。どうか、笑顔でいてください」


 そんな言葉が勝手に口から出てきた。

 親子は、ひとしきりお礼を言った後に線香をあげて帰っていった。


 私は残された百冊目のノートを見る。上京した息子の部屋の片付けは長男と旦那が行ってるから、きっとすぐに残りの九十九冊のノートも我が家に来るだろう。


 ぼーっとしながらノートを捲る。


 誰が見ても読みやすくてきれいな字で丁寧に書き込まれた息子の字を指でなぞる。


 これは前に電話越しに披露してもらったネタだ。ああ、これは物を使ったお笑いだから披露してもらっていなかったネタだ。これは昔言っていたネタを少し変えたものだ。

 やっぱり、私の息子は私を笑わせる天才だ。


 ぼーっとしているばかりだった私は、大粒の涙を流しながら、それに負けないくらい大きな声で笑った。

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