第二部 第10章―5

『私の名はアルバロ。太古より、この森を治めてまいりました』

 女性のような――だが、うっかりすると男性のようにも聞こえる声が――頭の中にこだまする。

『あなたの振舞いは、やがて女王となるこの少女の父君ゆえ、今回は特別に見逃しましょう。ですが、二度目はないとお思いなさい――』

 ハルヒコの思考を待たず、アルバロは続ける。

『自然を己れの意のままにできるなどと思い上がらないことです。傲慢さはやがて自分の身を滅ぼすことになりましょう』

 脳内に直接語りかけられるという初めての経験をして、ハルヒコは直ちに理解した。別の言い方をすれば観念したといってもいい。

 この相手にはどうやったって敵わない――。

 おそらく、この世界の理の中でも上位の存在。根源的で、神代の時代から世界の土台を支えてきた者たちに違いない。

 ――頭の中に直接声を響かせられるということは……。

 もしそこで叫ばれでもしたら、精神はズタズタに切り裂かれ、魂は崩壊してしまうかもしれない。

 その予感がハルヒコにはあった。ひしひしと肌を震わす悪寒が警報を鳴らしている。

『分かりました……』

 言葉に出したのではない。心の中で、心底そう思ったのだ。アルバロはその意を汲み取る。

『ですが、まだ言い足りないことがあるのでしょう?』

 心を読んでいるのか、それとも心の機微を感じとって話しているのか――。

 いずれにせよ、ハルヒコは釈明する機会を与えられたと思った。

『はい……確かに、あなた方に大きな迷惑をかけたことに対しては、本当に申し訳ないと思っています。それに、これからはむやみに大地を傷つけないと誓います。ですが、私はどうしてもここに水を蓄える湖を作りたいのです』

 また激しく光球たちに明滅され、盛大に抗議されるものと覚悟していた。だが、光たちは非難する様子もなく、ひっそりと空中を漂い続けている。

 ――まずかったか……?

 静かに――音もなく、予告もなく――自分は殺されてしまうのではないか。ハルヒコは小さな焦りを抱く。女王の父君などと持ち上げられたこともよくなかった。その不確かな情報に、ハルヒコはまだ交渉する余地があると踏んでしまったのだ。

 ――調子に乗るもんじゃないな……。

 審判を告げられる被告人みたいに、ハルヒコはいつ終わるとも知れぬ沈黙に耐え続けた。永遠とも思える時間が過ぎた頃、アルバロの声が静かに鳴り響く。

『それはこの国の人々のためですか。どうして、あなたがそこまでしなくてはならないのですか?』

 適切な答えを見つけなければならないと思った。相手の感情を逆撫ですることなく、納得してもらえる着地点を探らなければならない。

 だが、どんなに考えてみても、ハルヒコにはたった一つの答えしか思いつくことができない。それを正直に吐露するしかなかった。

『その力が……私にあるからです……』

 どんな理屈だと、自分でも笑ってしまいそうになる。それでも、パズルのピースが上手くはまったときのように、不思議なくらい気持ちよく、すとんと腑に落ちてしまったのも事実だ。もうそれ以外に適切な答えなんて、この世には存在しないのではないか。

『……』

 はたして、精霊は何を思ったのだろう。時間が止まってしまったかのように、無言で無音の世界がハルヒコの前にしばし横たわる。

 危険な思想、危険な存在だと思われたかもしれない――。

 幾ばくかの緊張の波が、唾を飲みこむ音をたてて喉を通りすぎていく。そして――

『分かりました……』

 不意に、アルバロは理解の意を示したのである。その瞬間、ハルヒコは、人造の湖をこの土地につくる提案が了承されたのだと受け取った。

『ですが……』

 森を統べる精霊は条件を付け加えてくる。

『この場所に、ではありません。この土地は、私たちにとっては、どうしようもなく、避けがたく、愛おしい大地なのです。太古より、この土に、この草に、この木々に抱かれ、私たちは在り続けてきました――』

 アルバロの愛惜の念を聞きつつも、耐えきれずハルヒコは尋ねてしまっていた。

『それでは、どこに……』

 アルバロの思念が指をさしたのを感じた。ハルヒコはその方向に――すっかり光を失った闇の向こう側に――目を送る。

『嘆きの泉……』

 アルバロは躊躇いがちに、その名を告げた。

『私たちがそう呼んでいる場所。そして、私たちも近づくことが許されぬ場所……』

 そして、ハルヒコは予期せぬ事実を知ることになる。

『私たちの女王……精霊の女王が生まれおちる場所……』

 ハルヒコの見つめる闇が、その色を一層濃くしたように感じられた。

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