第二部 第10章―3

 日はすでに大地の向こう側に顔を隠し、残光が地平線のきわを赤く焦がしている。そこから、なだらかな紫のグラデーションが天蓋を彩り、頭上を見上げると、競い合うようにすっかり星が瞬いているのだった。世界はマジックアワーに突入していた。

 北の草原にハルヒコが立つ。辺りは闇に飲み込まれつつあった。自分の足元すらおぼつかない。

「おおーい、カナ――。いないのか――」

 喉が許すかぎりの声を張り上げ叫んでみる。だが、言葉は虚しくただ漆黒の草原に吸い込まれていくばかりであった。

 ――ルーモを灯しまくるしかないか……。

 ハルヒコがそう思ったときのことである。草原向こうの森で何かが光ったような気がした。目を凝らし、些細な変化も見逃さないように注視する。ほどなく、焦らす必要もないとばかりに幾つかの光子が瞬き、森の奥で舞い踊った。

 ――あれは……いったい何だ……?

 ハルヒコの足は自然とその光の方へと向いた。正体を確かめるべく、ゆっくりと歩を進ませていく。と、火花のようにはじけるその光の粒子に照らされて、小さな人影が一瞬、木々の重なる森のスクリーンに投影された。

 ――カナ!

 はっきりと見えたわけではない。その人影がカナであると確信するには早急すぎる。だが、もはやハルヒコには、その人物がカナ以外の何者かであるかなどという考えは思いつきもしなかったのである。

 ――間違いない……あれはカナだ!

 ハルヒコは、すがるように、祈るように、森へと走った。

 はたして、近づくにつれ、その人影がカナであるとの確信を深めていく。だが――

 ――あの光は、いったい何なんだ?

 まるで意思を持っているかのごとく小さな光球が――それはホタルのようにも見えたが虫などではない――幾つも少女を取り巻き、渦を巻くように周囲を舞っているのだ。

 そして――

 その微かな光に照らされ、少女の顔があらわになる。

「カナ!」

 確定であった。見間違うはずがない。ハルヒコは自分のよく見知った娘の姿をそこに認めた。

 ――あの光は、何かの魔物か!

「カナ!」

 ハルヒコは娘の名をもう一度叫んだ。と、同時に炎魔法の詠唱を開始する。

 カナの周りにいる、あの光をすべて焼き尽くしてやる――。

 ――カナに手を出す前に!

 カナの方もハルヒコの叫び声に気づいたのだろう。驚いた顔を父親に向けている。

 ――?

 違和感があった。

 無数の脅威におびやかされて恐怖に縮こまっているわけでもなく、助けにきた父親の姿を見て、ほっと安堵するわけでもない。むしろ、予期せず現れたハルヒコを、カナはきょとんとした表情でただ眺めているのだ。

 だが、今はそんなことはどうでもいい――。

「カナ、ふせろ!」

 ハルヒコは立ち止まり、娘を取り巻く光球の群れに狙いを定めた。よもや、この距離で的をはずすことなど万が一にもあるまい。

「パパ、やめて!」

 そのとき――

 あろうことか、カナは伏せるどころか、手を広げてハルヒコの前に立ちはだかったのだ。まるで、その光の粒たちを護るかのように。

 ――!

「カナ……?」

「パパさん、やめて。これ以上やったら、パパさんの命が危ないんだよ!」

 まさかの言葉が返ってくる。

 ハルヒコは駆ける足に急ブレーキをかけ立ち止まった。それに合わせるように、手に集中していたフォントの勢いが――魔法の源が――気を落としたみたいに一斉にしぼんでいく。

 ハルヒコは、叱られた子どものように草原と森の境にたたずんで、カナの様子をただ見守ることしかできなくなった。

 カナは周囲を舞う光に向かって何かを話しかけている様子であった。声をかけるたび、反応するように小さな光の粒子たちは動き回る。あきらかに意思の疎通がはかられていた。ときおり風に乗って、その言葉のかけらが耳へと流されてくる。

 聞きなれない言語であった――。

 ――カナ、お前はいったい……。

 置いていかれた子どもみたいに、ハルヒコはただその場に立ちつくすしかなかった。

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