第二部 第9章―6

 慌てふためくサヘルをよそに、シュウは終始、落ち着いたものであった。

 下町の複雑に入り組んだ路地の奥まった場所。住居がコの字形に集まってできた小さな袋小路。窓も扉も設けられてはいない。手足を引っかけるあてもない。無表情の壁がその奇妙な空間を町の中に切り取っていた。

 ――いったい、どうしたらこんな場所ができるっていうんだ……。

 サヘルは大声で助けを呼ぼうと試みた。だが、どんなに振りしぼろうとしても渇いた空気がただ肺から押し出されるばかりだ。恐れは身体の自由を奪い、冷静な判断を失わせる。

「へへっ、もう逃げ場はねえぜ!」

 ねっとりとした下卑た目つきと言葉が二人をなめ回す。それでも、シュウの表情は依然、涼しいままであった。だが、表面には現れていなくとも、その心の内では沸々と怒りが煮えたぎり、心の底からこの気持ちの悪い存在どもに嫌悪の情を抱いていたのであった。

 悪党の一人は、どうにもそのシュウの平然とした様子が気に入らないらしい。

 ――きつい一発をお見舞いしてやれば、そんな態度もとれなくなるさ。

 賊の一人が前に進み出た。

「おらおら、泣き喚いても誰も助けになんてこないぜ。素直に言うことを聞くんだな、ガキども!」

 しょせんは子どもだ。近づいて脅し文句のひとつもかければ、ビビって顔をゆがめるだろうよ――。

 安易にそう考えていた悪党は、逆に自身の顔を怒りでゆがめさせることになる。

「誰も泣きわめいてなんていないじゃないか。バカなのか……」

 シュウが聞こえよがしにそうつぶやく。続けて、ふうと大げさなため息をついてみせる。

 ――このガキャ……!

 悪党の怒りは頂点に達したようであった。顔からは逆に冷めたように表情が失われていく。黙ったまま歩を進め、二人に、いやシュウに向かって近づいてくる。その歩みを止めることは、もはやかなわないことのように思えた。

 かたわらに立つサヘルは、悪党に対してというよりもシュウのその態度に戦慄を覚えた。サヘル自身は決して臆病者などではない。子ども達の中では体も大きく、世話好きで頼りがいのあるアニキ的存在だ。それでも、今、目の前に対峙している相手には、どうあがこうとも手も足も出ない。奴らはどんな犯罪に手を染めているやもしれぬ無法者の集団なのだ。

 ――逃げるしかない……。

 すきを見て、せめてシュウだけでもと考え続けてきた。だが、そんな折にシュウのあのつぶやきだ。どうして相手の感情を逆撫でするんだと慌てずにはいられなかった。

 シュウも自分の今の心持ちを不思議に思っていた。

 ――こんな状況なのにどうしてだろう……。

 全然、怖くもないし、焦りも覚えない――。

 そして、ふと思いつく。この冷静な感情がどこからもたらされているものなのかを。

 ――そうだ、あのときのことに比べれば、こんなこと大したことじゃない……。

 シュウは目の前に立ちはだかる敵に――そう、奴らは敵なのだ! 自分やその仲間に仇なす害敵――警告を発する哀憫も覚えず、これからどうすべきかを――無意識ではあったけれど――すでに決断していたのであった。

 ――炎を手足にでも当てたら、逃げていってくれるかな……。

 おそらく炎の魔法を受けた人間はその手足を失うことにはなるだろうが――。

 ――まあ、仕方がないよね……。

 仕掛けてきたのは、あいつらの方なんだ。こういうの、自業自得って言うんでしょう。

 やけに好戦的になっている自分に気づいて、シュウは心の中で苦笑した。そして、父親なら――ハルヒコなら――どんな心持ちでこの事態を見渡すのだろうかと思った。

 怒りだろうか、悲しみだろうか――。

 それとも、何の感情も覚えず、淡々と自分に降りかかる災難を排除しようとするのだろうか――。

 シュウは相手を見据えた。その人を小馬鹿にした、にやけた表情から、こちらの命を奪おうとまで覚悟していないのは明らかだ。

 ――だから、こちらも命までは取らない……。

 また、あのときの光景が思い出されてきた。

 ――あのとき……。

 彼らは一切の迷いなく、自分たち家族と友達の命を奪おうとした――。

 ――だから、仕方がなかったんだ……。

 そう自分に言い聞かせる。あのときから、ずっとそう言い聞かせ続けている。だが、心から納得したことなど一度もなかった。きっと、これからもそうだろう。

 次の瞬間、不意にスイッチが切り替わった。カチッと音が鳴ったような気さえした。急に頭の中が静かに冴えわたり、いつしかシュウは詠唱を開始していた。

 ――結局、魔法なんて、こんなことにしか役に立たないんだよ……。

 そう思うと、ひどく悲しい気持ちになった。

 ――サヘルを守るためにはこれしかないんだ……。

 もう二度と大切な人を失いかけるのはごめんだ。

 シュウは詠唱を続ける。口元はほとんど動かしていない。他人から見れば、ぶつぶつと思わず心の不満を吐露しているかのようにもとらえられただろう。それはあながち間違ってはいなかった。シュウは詠唱にのせて、大いなる不条理に対して怒りと悲しみを覚えていたのだから。

 ――悪いのは、あの人たちだろう……。

 だって、僕たちにちょっかいをかけてこなければ……。僕たちの平和を脅かすようなことがなければ……。

 言い訳も混じっていたかもしれない。これから魔法で人を傷つけるというのに、やはり覚悟なんてできてはいなかった。

 本当は誰も傷つけたくなんてない――。

 ――でも、そんなこと無理だよ……。

 この世界で生きていくためには……。

 覚悟も納得もいかず、詠唱は最終フレーズに差しかかった。まだ周囲の人物たちには気づかれてはいなかったが、シュウの手の中にはあふれんばかりの凶悪な熱量の源が渦巻いていた。それは今か今かと、解放されるのを待ちわびている。

 このまま逡巡し続けていれば、暴発してシュウの手が吹き飛んでしまう凶暴さにまで成長していた。

 もう後戻りはできない……。

 シュウは手を前方にかざした。そのときになってはじめて、悪党どもはシュウの手のひらで踊る青い炎の塊を認めたのであった。

 触れてはいけないものに手を触れてしまった――頭をはたらかすより前にそんな後悔が脳裏をよぎる。だが、もう手遅れだ。炎はますます輝きを増していく。

 そんなときのことである。

「お前ら、子ども相手に何してる!」

 その状況に声が投げ入れられた。次の瞬間、シュウの炎は安心するかのように消散していった。

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