スパイ令嬢とワルツを

神野咲音

第1話 婚約破棄は別にいいけど

「ソラ! ただ今をもって、アーベンス帝国第三皇子であるこの僕、エルン・ティフター・アーベンスは、貴様との婚約を破棄する!」


(こいつを暗殺すれば解決……、するわけないわね)



 背中を伝う冷や汗を感じながら、ソラは現実逃避にも似た思考を振り払った。


 ここは宮殿にいくつかある広間のひとつ。エルン皇子が主催した舞踏会の会場である。小規模な集まりとはいえ、周りには皇子が招待した貴族たちがいる。彼らは酷く興味深そうな顔で事態の成り行きを眺めていた。



「……理由をお聞きしても、よろしいでしょうか、殿下」



 内心の焦燥はおくびにも出さない。何故この皇子から見限られたのかが分からない以上、動揺を見せてはいけない。


 ソラが表情を変えずにいると、エルン皇子は忌々しそうに舌打ちをした。



「貴様のその、可愛げのない態度が気に入らない! せっかく我が婚約者として取り立ててやったのに、愛嬌を振りまくことさえ覚えられないとは!」



 ヒールのある踵を揃え、脇を締めて背筋はまっすぐに。癖のない銀髪はきっちりと結い上げる。纏っているのは可愛らしいピンクのドレスだが、ソラの立ち振る舞いは令嬢と言うより、鍛え上げられた兵士のそれである。


 それも当然だ。ここにいる『ソラ』は、アーベンス帝国の兵士なのだから。――『今』は。



「ご期待に沿えず申し訳ございません」



 生真面目に答えると、エルン皇子は顔を赤くして声を張り上げる。



「それだ! 顔は及第点だというのに、貴様には女性らしさが欠けている!」



 「顔が好みだから」という理由だけでソラに求婚し、周囲の反対を押し切って婚約を成立させた男の言葉ではない。


 しかし、エルン皇子の我が儘や身勝手な言動はいつものことで、助け船を出してくれる人はいない。誰だって余計な火の粉は被りたくないだろう。


 周囲が黙っているのをどう解釈したのか、エルンは自信満々に胸を張った。



「我が婚約者としての努力を怠る貴様は、妃になる資格はない! それが婚約破棄の理由だ」


(……もしかして)



 ソラは一つ瞬きをして、素直に頭を下げた。



「殿下がお望みならば、そのように」


「……ふん。相変わらず、可愛くない奴だ」



 そう言いつつも、エルンはどこか満足そうにしている。


 その様子に、ソラは一つの確信を得る。



(わたしがスパイだってことはバレていない?)



 一部の隙もない表情の裏で、こっそりと安堵に胸を撫で下ろした。






 アーベンス帝国は、かつて世界を支配したと言われる古代魔導国家の跡地に興った国だ。古代都市の遺構に流れ着いた騎馬民族が祖先であり、周囲の国々を次々と攻め落として領土を広げた軍事国家でもある。


 その為、帝国と隣接する国のみならず、遠く離れた国々も帝国の動向に注視していた。


 ソラの故郷、リフタリア王国もその一つだ。


 アーベンス帝国が古代魔導国家の土地を継いだ国ならば、リフタリア王国は文化を継いだ国だ。


 巨大国家を滅ぼし、歴史上からその名前さえ抹消した聖戦の後、残された魔法の力で民をまとめたのがリフタリア王国の始まりだ。


 リフタリア王国は長く魔法の国として知られ、発展し続けてきた。領土を広げたい帝国がその技術を求めるのは当然の流れで、これまでもあの手この手で王国を支配下に置こうとしてきたのだ。


 リフタリア王国とアーベンス帝国はそうして、常に睨み合っている。


 そんな敵国から潜り込んだ間諜。見つかれば命はない。



(だけど、そうね。よく考えれば、バレたとすれば婚約破棄だけで済むはずがないわ。エルン皇子にそこまでの能力もない。……本当に、飽きただけならいいけど)



 気持ちが離れただけならそれでいい。第三皇子の婚約者という立場は便利ではあったが、いらぬ厄介ごとも多かった。


 とある貴族の私生児として潜り込んだために、貴族たちのやっかみや嫌味など日常茶飯事。協力者にはかなり迷惑をかけてしまった。


 三度、息を吸う間に気持ちを落ち着けて、エルン皇子を正面から見る。青みがかった髪を程よく遊ばせて、こげ茶の瞳を得意げに輝かせている。見た目だけなら、ソラが今まで見た中でも五本の指に入るほどの美貌だ。



「というわけで、だ。婚約者として相応しくない貴様に代わり、この場で新たな婚約者を発表しようと思う!」



 芝居がかった仕草で手を差し伸べたエルンに、遠巻きにしていた貴族の中から一人の令嬢が歩み寄った。


 きびきびと動くソラとは違い、優雅に流れるような足運びで皇子に寄り添う、整った顔立ちの少女。柔らかい茶色の髪を綺麗に巻いて、微笑む姿はまさに深窓の令嬢といった風情。


 エルンが選ぶのも分かる。「可愛らしい」という言葉を具現化したような女の子だ。ソラとは正反対の、守ってあげたくなるタイプだろう。共通点は青い瞳と、体格くらいだろうか。


 ソラは胸に手を当てて、さっと頭を下げた。貴族令嬢ではなく、兵士としての礼だ。



「初めまして。リープ・ブランクといいます」



 向こうから声を掛けられたので、ソラも名乗る。



「お初にお目にかかります。わたしは帝国軍特殊魔導隊所属、ソラと申します。恐れ多くもエルン殿下の婚約者として身に余る名誉をいただいておりました」


「まったくその通りだな!」


「ただの兵士であるわたしなどでは殿下の隣に立つに相応しくありません。この婚約を、この場にいる誰よりも祝福いたします」



 エルン皇子は得意げに何度も頷いている。その横に立たされたリープ嬢は、ソラの顔を驚いたように見つめていた。



「ソラ様は……」



 名前を呼ばれて、ソラは目の前に立つリープ嬢を見返した。驚きの表情はもうそこになく、張り付けたように完璧な令嬢の笑顔が浮かんでいた。



「確か、ナイグ伯爵様のお口添えで軍に入られたのだとか」


「……ええ、その通りです」


「きっと、とてもお強いのですよね。特例での入隊が認められるくらいだから」


「そのようなことは」



 答えるソラの声は、一切揺るがない。リープは口元を手で隠して笑い声を漏らした。



「だって、そうじゃなければおかしいでしょう? 特になんの功績も上げていない人が、部隊長だなんて」



 これと同じような嫌味も、幾度となく言われてきた。コネで入隊した女に何ができるのかと。



「まだまだ未熟で、お恥ずかしい限り。これからも精進して参ります」


「……エルン殿下、もう行きましょう? 大事なお話は終わりましたよね? 舞踏会だというのに、まだ殿下と踊っていません」



 顔色一つ変えないソラが、面白くなかったのか。リープはエルン皇子の袖を引いて、そうねだった。



「ああ、そうだな。お前はもう帰れ、ソラ。もはやここは、お前が居ていい場所ではないからな」


「はっ」



 しっしっと、まるで虫でも追い払うように手を振るエルンにもう一度礼をして、ソラは踵を返した。


 広間中からの視線を浴びながら、ヒールを高く鳴らして歩く。まったくもって令嬢らしくはないが、今はこれでいい。


 ひそひそと、ざわめきの戻った舞踏会の会場。扉をくぐる瞬間、聞こえてきたのはリープの侮蔑に満ちた声だった。



「――彼女って本当に、あの先代伯爵様の娘なのかしら」

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