サバンナ定食

埴輪

サバンナ定食

 サバンナ定食が食べたい。僕の思いはもう、それしかなかった。


 世界の命運など、もはやどうでも良かった。一瞬でも気を抜けば、僕は死ぬだろう。そして、世界も滅び去る。その極限状態で、僕の頭に浮かぶのは、命でもなければ世界でもなく、ただ一つ、サバンナ定食だけだった。


 ――あれは、僕がまだ駆け出しの冒険者だった頃。コネもなく、大半の冒険者がそこで命を落とすという、最初のモンスターとの戦いを辛くも切り抜けた僕は、その代償として、仲間に持ち金を奪われることになった。それでも、這うように町まで戻ってきたのだが、金を持たない僕に、人々はどこまでも無関心だった。このまま僕の冒険は終わる……生きることを諦めた僕を救ってくれたのは、定食屋の少女だった。


 彼女は僕に肩を貸してくれただけでなく、勤め先の定食屋で料理すら用意してくれた。野菜の切れっ端を、ただ古い油で炒めだけのそれを、僕は夢中で頬張った。塩の分量を間違えたのか、とにかく塩辛かったけれど、疲れきった体には心地よく、ご飯が進むこと進むこと……何度も喉を詰まらせてしまった僕に、女は水を飲ませてくれたり、背中をさすってくれたりと、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。やがてその全てを平らげ、もうこれ以上は食べられないとなった僕に、彼女は言ったものだ。


「生きてるって、悪くないでしょ?」

 

 その笑顔が、僕には女神に見えた。そして、落ち着きを取り戻した僕が、お金を持っていないことを打ち明けると、彼女は「やっぱりね」と頷いた。


「どうせ捨てるだけだったし。ご飯は特別サービスってことで!」


 僕は何度もお礼を言い、別れ際、命を救ってくれた料理の名を尋ねた。


「名前なんて……でも、こうしましょうか。これからも、お腹が減ったら、この店に来るといいわ! 私がいる時なら、うん、サバンナ定食を食べさせてあげる!」


 サバンナが何を意味しているのか、僕にはわからなかったけれど、それ以来、サバンナ定食は、僕にとって何よりも大切な料理となった。


 それから何度も、僕はサバンナ定食のお世話になった。それはいつも無料で、ご飯もサービスしてくれたのだけれど、僅かでも収入があった時は、せめてもと、ご飯代は出させてもらうことになった。それでも、随分と安かったので、極貧の駆け出し冒険者時代を、僕は乗り切ることができたのである。

 

 一人前の冒険者になってからは、サバンナ定食を食べる機会は激減した。依頼の幅、冒険の幅が広がるほどに、町から遠出する必要があったからだ。それでも、できる限り町に戻るようにはしていた。交通費は高くついてしまったけれど、サバンナ定食が食べられることを思えば、安いものだった。


 僕は世界中を冒険した。色々な経験をし、色々と美味しいものも食べた。王宮の料理は頬が落ちそうなほどの絶品だったし、マンダル族の郷土料理は、火を吐くほど刺激的で、百年に一度しか収穫できない幻の果物は、歯が溶けそうなほど甘かったし、伝説の聖牛のステーキに至っては、「あ、死んだな」と意識が遠のくほどの美味しさだった。しかし、心をも満たすという点においては、サバンナ定食に勝るものは何一つなかった。料理だけでなく、多くの人、多くの人ならざる存在との出会いもあったが、定食屋の少女との出会いに勝るものもまた、何一つなかった。そして――


 僕は今、闇の王との戦いを続けている。その最中にも、刻一刻、世界は滅びの道を歩んでおり、たとえ僕が闇の王を討ち滅ぼしたとしても、世界に残る傷跡は深く、平和や幸せとはほど遠い未来が待っていることだろう。それでも、僕が諦めず、剣を振るっているのも、サバンナ定食と少女のお陰だった。あの時、生きることを諦めた僕に差し出されたサバンナ定食。あの命の味と少女の笑顔は、いかなる時も、僕を裏切ることはなかった。僕は何度も裏切られた。仲間はもちろん、光の王にすら捨て駒にされた今、僕はサバンナ定食のみを信じ、少女を守るために戦っていた。サバンナ定食を食べるためなら、僕は何だってできる。


 ※※※

 

 どうやら世界が滅亡するらしいということは、この帝都から離れた田舎町でも、間違いのない事実であるように思えた。昼なのに闇に閉ざされた空が、何よりも雄弁に物語っていた。この世界に、もう二度と光が差すことはないのだと。だから、誰もが逃げ惑っていた。逃げ場所など、どこにもないというのに。


 私は今、定食屋の厨房で料理を作っていた。いや、料理と呼ぶのもおこがましい、ただの野菜炒めだ。世界が滅亡するというこの時に、野菜炒めを作っているのはいかがなものか……ただ、これほど相応しいことは他にないと、私は確信していた。


 ――あの日。私はまだ働き始めたばかり。とんでもなく不器用で、野菜炒め一つ満足に料理することができなかった。食材がもったいないからと、練習には野菜の切れっ端しと古い油しか使わせて貰えず、これで満足な料理ができるはずもないとやけになった私は、唯一使用を許された塩を投げ込みながら、大量の野菜炒めをこしらえてしまった。これは捨てるのも一苦労だと、厨房を逃げ出した私は、道ばたで倒れている少年を見かけた。一目で金がなく、食べるものもなく、目を回していると悟った私は、その少年を利用して、野菜炒めを処分することを思いつくのだった。


 私の下心とは裏腹に、彼はとても純粋だった。ただただ塩味しかしないであろう野菜炒めを、美味しい、美味しいと頬張ったのだ。その食べっぷりに感服した私は、自腹を切って炊きたてのご飯も食べさせてあげることにした。すると、彼はさらに感激した様子で、むさぼるように、野菜炒めとご飯を平らげるのだった。


 そんな彼を見ていると、私の中で、沸々と、不思議な、暖かい気持ちがこみ上げてくるのだった。それは、今まで考えたことすらなかった想い……食べるってことは、生きるってことは、それだけで悪くないという、人生賛歌だった。


 それからも、彼は何度もお店を訪ねてくれた。身にまとう装備が立派になってからは、ご飯の代金を払ってくれるようになり、それなら、私の料理のレパートリーも増えてきたことだし、もっと別の料理を注文してくれてもいいのだけれど、彼は決まって、野菜炒め……いや、サバンナ定食を注文するのだった。

 

 ――サバンナ定食。我ながら、妙な名前をつけてしまったものだ。彼がその意味を尋ねなかったのが幸いである。いつかは尋ねられることがあるかもしれないけど、サバンナ定食は、ただサバンナ定食でよいのだとも思う。私と彼の、合い言葉。

 

 いつしか、彼は英雄と呼ばれるようになった。もう二度と来ることはないだろうと思っていたのに、店にも訪れてくれた。その顔は、英雄とは思えないほどにやつれ、疲れ切っていたけれど、サバンナ定食を食べると、いつもの笑顔を見せてくれた。


 ズンと大きな振動が響き、私は思わず倒れそうになった。いよいよ、その時が来たのかしれない。それでも、私は作り続ける。大量の、サバンナ定食を。


 ――カラン。店の呼び鈴が鳴った。厨房を飛び出すと、ボロボロになった彼がいた。折れた剣で体を支え、顔は汚れ、血も流れている。私は彼に駆け寄った。


「……神が、願いを叶えてくれたんだ」


 出会った時と同じように肩を貸し、いつもの席に座らせる。コップの水を差し出すと、彼はごくごくと飲み干した。あの時も、まずは水だった。生命の源、水。


「世界を救ったご褒美だって」


 その彼の言葉を聞いて、初めて私は窓から光が差していることに気づいた。それは昼下がりという時間を思えば当たり前のことだけれど、その当たり前が当たり前でなくなってから、どれだけの時が経ったことだろう。そうか、彼はやり遂げたのだ。


「だから、僕は願ったんだ」


 その願いがなんなのか、私は聞くまでもなかった。厨房に戻り、炒め上がったばかりの野菜炒めを大皿に盛り付ける。ぼろぼろと溢れ出る涙が、その上に落ちた。私は彼の元に急ぎ、それを差し出す。すると、彼は「いただきます」と挨拶もそこそこに、猛然と食べ始めた。あと少し、箸を渡すのが遅れていたら、手掴みで食べてしまうのではないかという勢いで。私の涙で、いつも以上に塩っ辛くなっているであろうそれを、彼は美味しい、美味しいと連呼しながら食べ続ける。その姿を見ながら、私は心を決めた。彼がお腹が一杯になったら教えてあげよう。サバンナとは、私の名前であるということを。

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サバンナ定食 埴輪 @haniwa

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