花舞う君へ 弱気な悪魔の黒いディナー

長夢ユリカ

第1話

 君は本当に生真面目だな~とまるで悪者のように言われて、シュシュ・ブランカは内心憤慨した。真剣に仕事に取り組んでいるだけなのに、一体何が困ると言うのか。

「いや~こんなに細かく作ってくれるのはブランカさんぐらいだよ」

 分厚く積まれた報告書を見て、上司はあははと軽く笑う。

「何か問題でも?」

 報告書をぺらぺら捲りながら、いやいや褒めてるんだよと上司は弁明する。

 確かに同僚と比べてシュシュの報告書は分厚いだろう。しかし今回の件は前任者の引継ぎが不十分で、報告しなければならないことが多かったのだ。それとも同僚の無理やり文章を水増しした報告書の方がマシだとでも言いたいのだろうか。3日かけてまとめた分厚い報告書で上司の頭をぶん殴ってやりたい衝動に駆られるが、シュシュは慈愛の精神をかき集めて引きつった笑みを浮かべた。

「では担当しているお店の監査へ向かいます。そのまま直帰しますので」

 いってらっしゃ~いと手を振る上司に背を向ける。頭を切り替えようと、ロッカールームで冷たいお茶をぐっと飲み干し、白いスーツを整える。金色の綿あめのようにふわふわ丸まった癖毛にくしを入れ、身長を少しでも大きく見せるために高めのヒールに足を通した。だが眼鏡をかけていても、丸いスミレ色の瞳には子供じみた容姿の自分が映った。だから侮られるのではと唇を尖らせる。せめてもう少し身長を高く、いやきりっとした大人っぽい容姿になりたかった。

 シュシュは自分の頬をバシンとかなり強く叩くと、胸を張ってロッカールームを出る。支社から一歩踏み出せば、外はすっかり黄昏時で朧月がぼんやりと空に漂っていた。

「天使にとって誠実さが美徳な時代は終わったのかしら」

 シュシュは大きくため息を吐くと、小さな身体をぐっと伸ばし、背中の白い翼を音も無く広げた。

 シュシュ・ブランカは人間社会で暮らす天使の一人だ。人間の世界に天使たちが溶け込んでどれほど経っただろうか。今やほとんどの天使が人間と共に生きている。

「昔はもう少し空が広かった気がするわ」

 人間が作り上げる街並みや知恵から生み出される道具は本当に美しい。しかし人間が幸福さや便利さを追求していけばいくほど、同時に新しい不自由さが生まれて行く気がした。

 シュシュは空に飛び上がると、よそ見することなく目的地へ一直線に飛ぶ。3分ほどして多くの人々が行き交う繁華街が足元に広がった。人に見られぬように裏路地に降り立つと、派手なネオンが輝く店へ歩を進める。重いドアを押し開ければ店内の装飾品が煌びやかに輝き、酒と香水の香りがぶわりとあふれてくる。

 すると黒いスーツの男が焦ったように走り寄って来る。その頭には角、背中には黒い羽。ここは悪魔の経営するバーである。

「まだ開店前だぞ嬢ちゃん、帰んな!」

「天地局日本支部、天使及び悪魔経営店を担当しているシュシュ・ブランカです。

 本日は月に一度の監査に伺いました」

 シュシュの言葉に男は驚いたように目を見開く。

 かつては何度も戦争を繰り返した天使と悪魔だが、悪魔もまた武器を置いて人間社会へ紛れ込んだ。天使も悪魔も方向性は違えど人間を好いており、密接に関わろうとする者が多い。しかし人間には悪魔の角や天使の翼が視認できないため、トラブルや事件を未然に防ごうと天地局が創設された。シュシュはそうした天使や悪魔が経営している店の支援や監査を担当しており、協定通りに人間と接しているか、人間界に存在しない物を扱っていないかなどを監視している。

「天地局は人手不足か?こんな見習いの嬢ちゃん寄越してよ~!」

「失礼な!私はれっきとした一人前の天使です!!!撫でようとしないの!!」

 悪魔の手を払いながら、シュシュは思わず言い返してしまった己の短気さを咳ばらいで誤魔化す。店長を、と言いかけたところで聞きなれた女性の声が響いた。身構える間も無くシュシュは抱きしめられる。

「やだぁ~シュシュちゃんじゃない~」

「またですか!離してください!!!」

 このバーの店長であるフレゼは身長が2m以上ある黒髪褐色の女悪魔だ。彼女に抱きしめられれば小柄なシュシュは足が浮いてしまう。

「いつ見ても可愛いわあ~」

「おろしなさいーーー!今日は監査の日です!」

 忘れてたとフレゼは笑いながら、名残惜しそうにシュシュを下ろす。

「先月注意された悪魔の酒はちゃんとしまいましたか?」

「美味しいのに残念ねえ、やっぱ置いたらダメ?」

「駄目です!!」

 フレゼはやる気にあふれているし悪い人柄ではないのだが、かなり雑な性格で扱ってはいけない品や人間への接し方について指導を受けていた。半年近くの付き合いになるが過剰なスキンシップが多過ぎる。

「ねえジュースでも飲んで行かなあい?」

「今は仕事中なので結構です」

「あらあ~シュシュちゃんの上司ちゃんはいつも一杯飲んで行くわよ?」

 あんのクソ上司とシュシュは脳内でストレートパンチを決める。しかしシュシュの上司は軽くていい加減に見えるし、若干サボり癖があるが仕事がとてもできる天使だ。寛容で面倒見が良いので同僚に好かれている。彼を見ていると自分がとても要領が悪いことを痛感してしまう。上司の寛容な部分を見習った方がいいのではと思うも、シュシュの生き方にはどうにも馴染まない。性分なのだろう。頑固で融通が利かないと言われていることもわかっているが、目指す理想の自分は異なる。上司は上司、自分は自分の生き方や信念がある。しかしシュシュとしては、器用に生きられない自覚があるだけに、くじけそうになる日もある。

 少し表情を暗くしたシュシュを見て、フレゼは恍惚の笑みを浮かべる。

「ふふ、シュシュちゃん大好きよ。

 悪魔は一生懸命なのになーんか報われてない子が大好きなの」

 陶酔したような表情を浮かべられて、シュシュは思わず一歩下がる。フレゼの後ろに控えていたスーツの悪魔たちも同情してお菓子を渡そうとして来る始末だ。

「だからシュシュちゃん、人間じゃないのに悪魔にモテるのよ」

 悪魔は本当によくわからない。

「とにかく本日はお客様に提示しているメニュー表と在庫の照らし合わせです。

 それと先月分の帳簿を見せてもらいます」





 仕事を終えて店を出ると、シュシュは再び翼を広げて夜空を舞う。すると耐えきれなくなったのか、ぐう~と腹の音が大きく響き渡った。

 シュシュは時計を確認すると懸命に翼をはばたかせ、急いで住宅街へ向かう。約束の15分前到着がシュシュのポリシーだ。とある小さなお店の前で降り立つと、そわそわと時間まで待機する。そして指定された時間になるのと同時にお店の扉を開けた。

 店内はレトロな幾何学模様のタイル張りの床で、時代を感じさせる木製のテーブルや椅子が並ぶ。ノスタルジックさを感じさせてくれる装飾品がシュシュを温かく迎えてくれる。

 閉店時間を過ぎているため客やフロアスタッフの姿は無く、暖炉の前で店主がゆったりと読書をしていた。店主はシュシュを見て顔を綻ばせる。

「いらっしゃいシュシュ」

「お招きありがとう、マザー葉月」

 シュシュの行きつけである「暗夜亭あんやてい」は、80年続く老舗の洋食店だ。かつては夫婦で切り盛りしていたが、今は葉月が一人で厨房を回している。50代とは思えない若々しさと快活さで店を照らす彼女だが、ド派手で奇抜なファッションセンスには毎回驚かされる。今日のエプロンには大きく獅子が刺繍され、ターバンにはスパンコールが光っている。

「いつ見ても綺麗な翼だこと」

「触ってもいいですけど、付け根はくすぐったいからダメですよ」

 人間の中には稀に天使と悪魔を認知できる人間がいる。葉月もその一人で、全てを見透かす不思議な目を持っていた。初めてこの店に訪れた時は歓声と共に翼をもみくちゃにされたものだ。一応、天使と人間の付き合い方について伝えたので秘密は守ってくれているが、接し方についてはあまり守ってくれない。今でもたまにもみくちゃにされる。

「アンタは時間ぴったりに来るから準備はできてるよ、まずはディナーにしようか」

 葉月は厨房から手早く料理を運んで来る。テーブルに一皿増えるたびに、ぶわりと食欲をそそる香ばしい香りがシュシュに襲い掛かって来る。天使が本能に負けてどうすると鼓舞しても、顔が勝手に笑顔を作り、情けないことにファンファーレのように大きくお腹が鳴った。

 目の前に店自慢の大きなオムライスとピザ、グラタンを並べられれば、シュシュの胃袋はあっけなく陥落する。暗夜亭の料理は、悪魔の誘惑のごとくシュシュを魅了して離さない。

「ああ、恵に感謝します」

 ふわふわのオムライスを口に運べば、たっぷりバターを使ったチキンライスとやわらかな鶏肉に思わず浮遊しそうになる。ピザを手に取れば、口の中で4種のチーズと自家製のサラミが絡まり、オーケストラが響き渡る。

 シュシュはもぐもぐと夢中で口を動かす。もしシュシュの感情が具現化していたのなら、瞳は燦然と輝き、花が咲き乱れていただろう。花火くらい打ち上げられていたかもしれない。

 シュシュは全てのストレスを食事で発散していた。食事ができることの幸福。奇跡のような食材のマリアージュ。料理人の研鑽とひらめきから無限に生まれいくレシピ。

「シュシュの食べっぷりを見ていると華々しくて元気が出るよ。

 そんな小さな身体のどこに入っていくんだろうね。

 初めて会った時なんて感動して泣いてたしさ」

「もご……んぐ!そ、それは恥ずかしいので忘れてください……」

 更に一回り大きなオムライスをおかわりし、デザートもぺろりとお腹に収めたところで、大食漢の天使はようやく葉月に向き直った。

「それで何の用事だったんですか?

 食事だけなら営業中に来ればいい話ですし、わざわざこんな時間に招待だなんて」

「ストレートに聞いてくれてありがたいよ、実は相談があってね」

 葉月は厨房から小さな皿を持って来るとシュシュの前に置く。

「これは……炭?」

 皿の上に置かれていたのは黒い塊だった。焦げた、もしくは泥団子にしか見えないが、もしや餡子で包んだ団子なのだろうか。それにしては匂いが異なる。

「ちょっと食べてみてくれるかい?」

 シュシュは目を細めると葉月と泥団子を交互に見る。葉月の笑顔に押されて、おそるおそるフォークをさせば、感触は団子ではない。柔らかな肉の感触。

 葉月は料理人だ。そのプライドで、失敗した料理をシュシュに食べさせることは無いと思いたい。意を決して口に放り込めば、極上の肉汁が広がり、シュシュはぱあっと笑顔になる。

 これは暗夜亭のランチメニューでお馴染みの肉団子の味だ。しかし、なぜこんなに真っ黒なのだろう。

「どうだい?」

「美味しいです。でもあの、どうしてこんな泥団子みたいなことに?」

 葉月は頷くと、おいでと厨房に向かって呼びかける。すると厨房から小さな悲鳴があがった。仕方ないねえとため息を吐くと、葉月は厨房から誰かを無理やり引っ張って来る。

「んん!!?」

 思わずシュシュは立ち上がる。その人物はシュシュの声に怯えて逃げようとするが、葉月は首根っこを掴んでそれを阻止した。

「す、すす、すみません~~~!」

 そこにいたのは悪魔の青年だった。自信無さげに背を丸めていてもわかる長身と黒髪に褐色の肌。そして蠱惑的な深紅の瞳がシュシュを見下ろしている。目の下の大きなクマもそうだが、ぼさぼさの長い前髪で顔の左側が隠れていてとても陰気臭い。

 悪魔の尾は垂れ下がって自身の足に巻き付いており、葉月の背後に隠れる姿は怯えている猫のようだ。せっかくの立派な角が情けなさを際立たせている。

「マザー葉月、なぜここに悪魔が?」

「フフ、泣いてたところを拾ったんだよ」

 シュシュは悪魔を見上げる。悪辣そうには見えないし、葉月を騙そうとしているようにも見えない。シュシュの鋭い眼光に震えて、すみませんとくり返す悪魔に大きなため息が出た。

「私はシュシュ・ブランカ、貴方は?」

「すみません、すみません…変なモノ食べさせちゃってごめんなさい~!」

「ちょっといちいち謝らなくていいの!名乗りなさい!」

 シュシュの剣幕に悪魔の尻尾がビンと立つ。

「ぼ、ぼくはエンデ。エンデ・アルヴァンと言います」

 葉月はエンデをシュシュの前に立たせる。

「その真っ黒な肉団子はエンデが作ったんだけどさ、味はいいだろ?」

 シュシュは不本意ながらも頷く。

 葉月は林檎とナイフを用意すると、剥いてみなとエンデに渡す。エンデはごくりと唾を飲み、林檎の皮を器用に剥いて行く。非常に手つきも良く、カットの仕方も上手い。

 しかしエンデが林檎を切れば切るほど、じわじわと真っ黒に染まって行く。美しく細工切りされた林檎が皿にのせられる頃には、墨で作られたオブジェのように真っ黒になっていた。とても林檎には見えない。

 葉月に促されて一口齧ってみると、林檎の甘酸っぱい味が口に広がる。味はまったく損なわれていない。

「……どういうことなの?」

「エンデはここで見習いとして働いてもらってる。

 手先は器用だし手際もいい、味覚も鋭いし、料理のセンスもある。

 さっき食べた肉団子も暗夜亭の味をきちんと出せていただろ?」

 シュシュは素直に頷く。

「ただエンデが料理をすると、何をしても真っ黒になっちまうのさ」

 シュシュは黒くなってしまった林檎をもう一口かじる。

「これは、そうね…悪魔固有の能力だわ」

 シュシュが店を経営している天使や悪魔からたまに相談を受けるのが生まれ持った能力についての悩みだ。天使だと触れたものが光り輝いてしまう、悪魔だとオブジェが動き出してしまうなど様々な事例があった。目の前の弱気な悪魔の場合は、料理したものが黒く染まってしまう、ということらしい。

「エンデは臆病だけど料理に関しては強気な男だ。

 皿洗いや掃除だけやらせておくのは忍びない。

 だからさ、この子の料理をお店に出してやりたいんだ」

 葉月の目は真剣だ。シュシュは悪魔と葉月を交互に見やる。

「シュシュはそういう仕事なんだろ?何とか相談にのってやってくれないかい」

 シュシュは姿勢を正すとエンデに目を向ける。

「マザー葉月の気持ちはわかったわ。でも貴方はどうなの?」

 エンデは左右の人差し指を合わせて何かもごもごしていたが、腕を下ろすとシュシュに向き直る。

「……ぼくなんかがご迷惑をかけてしまって、と思うんです」

 眉を下げて、ぎゅっと掌を握りながら悪魔は絞り出すように言う。

「ぼく…ここで、料理を、作りたい!……理由があるんです!」

 シュシュは腕を組んで少し考えると、結論を出す。

「わかったわ。貴方が助けを求めるのなら協力を惜しみません」

 エンデは両手を合わせて破顔する。

「よ、よろしくお願いします……!」

 裏返ってしまった声に力が抜けるが、やる気があるのなら仕事として彼をサポートしよう。シュシュは鞄から相談予約の書類を取り出すとエンデに差し出した。





「まずはこれをつけて料理をしてみて」

 シュシュは布製の青い手袋をエンデに渡す。初めにシュシュが講じた対策は天使や悪魔固有の能力を抑える道具をつけてみることだった。

 二人の奮闘は次の日から始まった。支社でエンデと面談をした後、閉店後の暗夜亭を借りて実際に料理を作るところを見せてもらっている。

 手際良く厨房に立つエンデの横顔はいつものおどおどした雰囲気は薄れ、少し頼もしい表情となる。だが調理の際にボサボサの髪を抑えるためにメルヘンなピンがたくさんつけられており、何とも緊張感に欠けている。

「……これは名状しがたきコンクリートみたいな」

「え、えへ…」

 溶いている卵が徐々に灰色に染まっていく。最終的には目の前に灰色と黒が混ざった、まだら模様のオムレツが置かれた。腹を決めて口に入れてみると、見た目とは裏腹に風味豊かで美味しい。

「道具でも抑えられないなんて、貴方、悪魔の力が規格外だわ」

 エンデは見た目とは異なり悪魔としての力が強いようだ。まだら模様となったのは手袋で力が部分的に弱まり、黒くなりきれなかった部分なのだろう。結果、より食べられるのか心配な色になった。

 調理を実際に見ていて理解できたのは、エンデが食材を切ったり炒めたりすると黒く染まってしまうが、すでに切ったものや調理したものを皿に“置く”だけならば食材が黒く変化しないということだ。切る、混ぜる、挟む、焼く、茹でる、垂らすなど、調理するという工程がトリガーらしい。

「だから簡単な盛り付けのお手伝いだけはできるんだ~

 あんまり複雑なことしていると黒くなってきちゃうけど」

 そこからは過去数十年の事例を読み漁り、解決した例になぞってみることにした。ストレスを軽減させるために温泉でゆっくり休ませてみたり、身体を鍛えてみたり。そのほか音楽を聴きながら料理、薬草を飲んでみる、料理に聖水を混ぜてみるなど、根気強く色々挑戦してみる。しかし驚くほど何の効果も出なかった。

「す、すみません。しゅーちゃんの貴重な時間を…」

 半泣きになられても困る。何の進展も無い現状にシュシュだって泣きたい。しゅーちゃんって呼び方は何なんだと突っ込む元気も無い。

 最後は悪魔の能力について研究している教授に診てもらったが、料理を黒くする能力はコントロールできるモノではないと言われた。元は神話時代によく見られた悪魔の能力らしく、食べ物を黒く腐らせることで飢饉を起こすものらしい。しかし現代の悪魔にそんな大それたことができる訳もなく、大幅に劣化した結果、料理や食材を黒くするだけの力になったと安全性だけは証明された。

「やっぱり、無理なのかな……ぐすっ」

「無理って言わないの!やるって決めたらやるのよ!!」

 厨房でうなだれるエンデの背中をシュシュはパーンと叩く。

「はは、はいぃ!!」

 毎度もへこむエンデをどやしながら、今日で2か月。シュシュは鞄から分厚い過去の事例集を取り出すと再び目を通す。しばらくすると、隣に座っていたエンデがシュシュにもたれかかってくる。

「もう!」

 どれだけ体格差があると思っているのか。重いと押し返そうとしてシュシュは手を止める。

 エンデは深く眠っていた。覗き込めば目のクマが前より濃くなっている。それはそうだ。昼から暗夜亭で働き、閉店後に明日の仕込み。そこからシュシュと合流して実験を繰り返している。休日に遠出することもある。シュシュなりに一生懸命考えて色々試していたが、自分のことだけでエンデの体調について考えが及んでいなかった。ふと罪悪感が芽生えた。

「しゅーちゃんどうしたの?」

 気づけば目を覚ましたエンデが心配そうに覗き込んでいる。

「何だか苦しいオーラが出てるよ、疲れちゃった?

 そうだよね、ぼくのために色々とやってくれて……いつもごめんなさい」

「ち、違うの!むしろ疲れているのは貴方の方でしょ」

 エンデは少し不気味だがにやーっと笑う。

「大変だけど、ぼくは楽しいよ。

 ぼくって悪魔として欲が薄くて根性無しだから、あんまり友達もいなくって」

 シュシュのネガティブなオーラを払うようにエンデは手を動かす。

「しゅーちゃんといると楽しいんだ」

「……!」

 シュシュも正直あまり友達がいない。自他ともに厳しく、子どもっぽい容姿と背丈がコンプレックスで背筋を張って生きて来た。他人とのコミュニケーションが下手で、だからこそ勉強や仕事はできる天使でありたいと懸命に頑張ってしまう。

「ぼくの真っ黒なごはんをあんなに躊躇なく食べてくれたの、

 しゅーちゃんだけだよ」

「……悪かったわね、食い意地が張ってて」

 こんな返ししかできない自分を歯がゆく思うが、エンデは気にせず嬉しいと微笑む。

「ねえエンデ、貴方、料理が本当に好きなのね。何か夢があるの?」

 エンデは急に真っ赤になると人差し指を合わせてもじもじしだす。

「……えっと、ね。ぼく料理をたくさん食べてもらいたい人がいるんだ」

 好きな悪魔でもいるのだろうか、意外な理由にシュシュは瞬く。

「エンデがそんなに一生懸命になってくれるなんて、幸せな人ね」

 悪魔の尻尾がピンと立つ。

「イェヘヘヘ、ヒヒヒ~」

 エンデのあまりにも不気味な笑い方に、思わずシュシュも破顔する。

「そうだわ!その人にどんな料理を食べて欲しいの?

 そこから解決策を考えてみましょう」

 エンデは牙を見せて微笑む。

「いろんな料理がのってて、いっぱい楽しめるものがいいなって思ってるんだ」

 料理に関してシュシュは素人だ。鞄からレシピをスクラップしてきたノートを取り出し、開いて調べてみる。エンデもそれを覗き込んだ。

「元から黒い食材の料理を並べてみたらどうなのかしら」

「黒い料理を並べるならお皿を華やかにしてみればいいのかな。

 でも焦げてると勘違いされないように気をつけないと」

 次の日は二人で夜まで開いている図書館に向かい、片っ端から料理に関する本を開いていった。デザートとしてなら黒はありでも、黒い洋食となるとやはり少ない。

 相変わらずくじけそうになるエンデの尻を叩きながら、二人はいくつか本を借りて近くの公園で休憩する。もうすっかり日は暮れかけていて、空が徐々に赤く染まって来ていた。

「あの、これ、もし良かったら夜食に」

 エンデはおずおずとシュシュに黒いサンドイッチがつまったバスケットを差し出した。シュシュは時計を確認して就業時間を過ぎていることを確認するとサンドイッチをひとつ摘まみ上げた。

「ありがとう。小腹がすいているから、ひとついただこうかな」

「チーズとハム、あとはツナとチキンだよ。

 好きなのを…って言ってもわからないよね」

 恥ずかしそうに頭を掻くエンデにシュシュは答える。

「真っ黒だから中身がよくわからなくて楽しいわ、ゲームみたい」

 一口かじるとその美味しさに笑顔になる。パンにたっぷりバターやマスタードがぬられていて、作り手の思いと丁寧さが伝わる一品だ。

「……エンデはすごいのね」

「ぼ、ぼくいつもしゅーちゃんに引っ張ってもらってるから…

 だから少しでもお礼がしたくって」

 エンデの尾が左右に揺れる。

「私は真面目なだけが取り柄の天使よ。特殊な力も無いし、愛想も良くない。

 短気だし、いつも怖い顔をしていて誰かを笑顔にできない」

 あまりにもエンデが作ったサンドイッチが美味しくて、頑強なシュシュの心が解け、ポロリと本音が零れた。

 生真面目過ぎて、融通も利かず。相談に来た悪魔や天使もシュシュが熱心すぎるせいでいつも驚かれてしまう。エンデはよく自分に付き合ってくれている、と思う。

「あ、ごめんなさい。変なこと言って」

 エンデは首を振ると立ち上がる。漆黒の羽を大きく広げると、シュシュに手を差し伸べた。

「つきあって、しゅーちゃん」

 躊躇するシュシュの手を待ち、指先が触れた瞬間二人は飛び上がる。

 黄昏の空が二人を橙に染める。エンデはシュシュの手を握ったまま、ぐるりと舞うように円を描く。

「夕日ってマーマレードみたいでおいしそうだよね」

 目の前にバターを溶かしたような沈みかけの太陽が広がり、あまりの眩しさに圧倒される。

 雲や街並みもマーマレード色に染まり、イヒヒヒとエンデの奇妙な笑い声だけが響く。エンデに振り回されて、空をくるくる回っているとしだいに身体から力が抜けていく。気持ちがいい、こんなに滅茶苦茶に飛んだのは子どもの頃以来だ。

 空が狭いと思っていたのは、自分の視野が狭まっていただけなのかもしれない。

「ぼく嫌なことがあったら空で寝転がるんだ」

「人間に翼は見えなくても私たちの姿は見えるのよ?」

「大丈夫、これだけ高く飛べば鳥にしか見えないよ」

 促されるまま、空に寝転ぶように飛んでみる。こんな飛び方をしたのは初めてだった。

「私、まだまだ知らないことが多いわ」

 エンデもシュシュに寄り添うに寝転んだ。エンデは鼻歌交じりにぐっと身体を伸ばす。しばらく二人はぼんやりと夕日を眺めた。何も無い、言葉も無い。けれど落ち込んでいた心が、エンデの鼻歌と夕日の眩しさにふわふわと少しずつ持ち上がって来る。

「しゅーちゃんはいつも一生懸命ですてきだよ。

 ぼくの悩みをこんなに真剣に考えてくれる。

 会うたびに新しい方法を提案してくれて元気づけてくれて」

 シュシュが横を向けば、目を細めてにっこりと笑うエンデと目が合う。いつもの奇妙な笑い方ではなく、満月のような優しい笑みだ。

「しゅーちゃんにぼくの料理をいっぱい食べてもらいたい、だから頑張るね」

「……泣き虫を直してからね」

 とろとろの苺ジャムみたいなエンデの瞳が輝いて見えた。


「あ!」


 シュシュは声を上げて飛び起きる。

「そう!これだわ!!」

 驚くエンデの手を握ると早口でまくし立てる。

「この手は欠点じゃないわ、個性なの!活かすのよ!」

 今度はシュシュがエンデの手を強く引いて地上へ駆け降りる。まるで流れ星のような彼女にエンデは目を輝かせた。



 エンデが初めてシュシュを目撃したのは姉の店だった。姉のフレゼはバーを経営しており、エンデはそこでたまにバイトをしていた。

 姉の店は一際体格のいい悪魔たちが働いており、悪魔のエンデでも怖いと感じていたのに、シュシュは小さな身体できびきび指示を出し、改善点を指摘していた。

 エンデにとっては衝撃だった。彼女のように自信を持ちたいと思い、彼女が姉に話していた洋食店にも足を運んでみた。彼女が好きなものを知りたかったから。

 そこに彼女が食事に来ていたのは本当に偶然だった。

「……え、花??」

 エンデは目の前に光景に目を見開く。

 頬を染めてごはんを食べる天使。その天使の背後には本物の花が円を描くように咲き乱れていた。エンデがまばたきをするたびに花が増えて行く。

 これが天使の持つ不思議な能力なのかと気づいた頃には、花びらがエンデのところにまで舞って来ていた。彼女自身は自分の持っている能力に気づいていないのか、食べることに夢中になっている。

 花びらは床に落ちる前に儚く消えてしまう。思わず手を伸ばして花びらが消える前に掴んでみると、彼女の喜びの感情がダイレクトに伝わって来た。それと同時に身体が熱くなり、力を貰ったかのように心も身体も軽くなる。活力が湧いた。

 彼女の感情が花となって具現化しているのだ。今は食事ができる嬉しさを周囲におすそ分けしている状態なのだろう。店内の人間達にはもちろん花は見えていないが、彼らも花びらを浴びるたびに活力がみなぎってきているのがわかる。

「……すごい、すごいよ!きれいだなあ~」

 花を綻ばせながら幸せそうにごはんを食べるシュシュから目が離せなくなった。

 エンデは一生分の勇気を振り絞って、泣きながら暗夜亭で働かせて欲しいと店主にお願いした。何の目標も無かったエンデだが、彼女をあそこまで笑顔にしてくれる場所にいたいと思ったのだ。

 最初はあの笑顔を近くで見たいだけだったのに、少しずつ自分の料理を食べてもらいたいと思うようになった。元々料理は好きで家でよく作っていたが、何を作っても黒くなるので誰かに食べてもらったことはなかった。しかし初めて大きな欲があふれて、エンデを突き動かした。

 葉月に全て打ち明けて相談し、協力してもらうことになった。そして今、彼女に手を握ってもらっている自分がいる。

 眩しくて、ますます欲が強くなる。自分の作るごはんを望んで欲しい、そしていっぱい食べて笑顔になって欲しい。ずっとずっとこの先も。

 流れ星のように空を駆けるシュシュの手を握り返し、エンデはシュシュと共に生きたいという新しい欲を深く噛み締めて飲み込んだ。





 シュシュは肩から少し力を抜き、上司へ分厚い報告書を差し出した。

「これってこの前相談に来てた、弱気な悪魔さんの報告書?」

「そうです、ご確認よろしくお願いします」

 上司は受け取ると、これは?とシュシュに尋ねる。

「情報が多いので、どうしても確認して欲しい箇所に黄色の付箋を貼っています。

 経費に関しては青い付箋です。どこに何が書かれているか細かく目次も作りました

 ので、お時間あるときに全てご確認ください。

 とりあえず今は付箋部分を確認していただければ支障は無いかと思います」

 上司は目を丸くしてシュシュを見る。彼女ができるほんの少しの歩み寄りだった。

「いやいや、全部確認するよ。いつもありがとうね~ブランカさん。

 いつも煉瓦みたいな分厚さだけど、丁寧で見やすいから助かるよ~あはは~」

 シュシュは予想外の言葉に目を見開く。視野を少し広げれば、前よりは少し生きやすくなるのかもしれない。



「こんばんは」

 シュシュが暗夜亭の扉をくぐれば、マザー葉月が厨房から手を振って迎えてくれる。

 暗夜亭はまだ営業時間内、フロアスタッフが忙しそうに料理を運んでいる。テーブルにつき周囲を見回すと、今日はいつもより混んでいるようだ。

 メニューを指さして、シュシュは注文を伝える。

「これをお願いします」

「こちら特別なメニューとなっております。

 アレルギーや苦手なものなどはございますか?」

「大丈夫よ、何もないわ」

 シュシュが厨房を眺めるとエンデが忙しそうに手を動かしていた。すると葉月に何か言われたのか、シュシュの方を向きにたーっと微笑む。

 しばらくしてエンデはシュシュの元に料理も持ってやって来た。

「仕事が立て込んで、なかなか来れなかったの。ごめんなさいね」

「今日は大丈夫だったの?」

「ええ、エンデの料理を食べるために頑張ったんだから」

 シュシュの前に大皿が置かれる。ガーリックやトマト、バジル、食欲をそそる様々な香りがあふれ、自然と前のめりになってしまう。

 皿を覗き込めば、2種のパスタが盛られ、まんまるのコロッケとフライ、そしてマカロニらしきものと野菜がたっぷり添えられている。相変わらず全て黒くて何がどんな味かも予想ができないが、黒曜石のようにきらきら輝いて見えた。

「こちらディナーメニューの『悪魔のミステリーレター・プレート』です」

「本当に美味しいものいっぱいのせたのね、ふふ」

 エンデが運んで来た『悪魔のミステリーレター・プレート』は、エンデが作る暗夜亭の新メニューだ。料理の詳細については「悪魔が作った謎多き黒のディナー。見事解き明かせたら悪魔からご褒美があるかも!」と書かれている。



 あの日、シュシュは中身がわからないサンドイッチから着想を得て、彼に提案した。料理が黒くなるのであれば、どんな味なのかクイズにしてみたらどうか、ゲームをきっかけに少しずつ「エンデの料理」を知ってもらったらどうかと。

 エンデは何日か悩みに悩んで、悪魔が作ったミステリーな料理という(シュシュにしてみればグレーに近いギリギリな)コンセプトとレシピ案を提出した。

 まずはお試し期間ということで常連さんに『(仮)悪魔の黒いディナー』を提供したところ、最初は随分驚かれたそうだ。そこで「全ての味を当てたらご褒美がある」と伝えてみると意外にも乗ってくれて、舌に自信のある友人を連れて挑戦しに来てくれたらしい。

 ゲーム性だけではなく、味もいいということで口コミが広がり、お試し期間を無事乗り越え、正式に『悪魔のミステリーレター・プレート』と名付けられメニューに追加された。

 ちなみ全てのメニューを言い当てると、一緒に食事に来た人たちも含めて全員のデザートが少し豪華になるそうだ。

 シュシュとしては、エンデの腕が認められたようで嬉しく思う。味に自信があるのだから、これをきっかけに暗夜亭の「黒い料理」は美味しいのだと定着すれば、エンデが今後どんな料理を作っても受け入れられるだろう。それは暗夜亭の新しい強みとなる。

 葉月からは、リピーターもいるのだと嬉しい報告を受けている。パスタとフライを週替わりにしているため、メニューが替わるとすぐに正解を当てにやってくるらしい。そして意外なことに、最近では恋人たちの間でも話題だそうだ。

「相変わらず何もかも真っ黒ね、何だか懐かしいわ」

 実はシュシュはこのディナーメニューをまだ食べていない。あの提案の後、正式なメニューになってから食べに来て欲しいとエンデに強くお願いされたからだ。エンデが見たことも無いような真剣な表情でお願するので、シュシュは完成品を見ぬまま一度手を引いたのだ。今日は久々の再会であり、初めての食事会でもある。

 シュシュは天に感謝すると、パスタから手を付ける。これは自家製トマトソースを絡めたナポリタン、その隣はアボカドたっぷりのジェノベーゼパスタだ。見た目がウニでしかないコロッケも一口齧ればすぐにカニクリームコロッケだとわかる。

 シュシュは夢中で口を動かす。笑顔が止められない、心の底から幸福感が湧いて来る。一品、一品が丁寧に作られているのが感じられる。食べる人を労わるような優しい味。

 ああ、幸福感に天使の翼が震えている。

「今日も花が舞ってる、すごいね!この白いのは百合かな、こっちはガーベラかな。

 しゅーちゃんは花束みたいだ」

 大げさな褒め言葉と受け取って、シュシュは恥ずかしさのあまり口元を押さえる。

「また恥ずかしいこと言って」

 気づけば、シュシュの正面にエンデが腰を下ろしていた。照れ隠しで仕事中でしょ、と注意すれば、エンデはちょっとだけ聞いて欲しくてと口角を上げる。

「パスタの中に仕掛けがあるんだ」

 シュシュが指さされたパスタの山をよけてみると、その中に黒ではない、たった一つ異なる色が隠れていた。


 ――――深紅の薔薇。愛を伝えるために用いられる花。


 それは食用の小さな薔薇だった。黒の中に小さく綻ぶ深紅の花びらは、お互いの色を引き立たせて美しく映えている。

 これはシュシュと相談した時には無かったアイデアだった。そう言えば食材を置くだけなら色は変わらないとエンデは言っていたっけ。

「……悪魔は臆病だから、素直に思いを伝えられないんだ……そういう料理」

 悪魔のミステリーレター。なぜわざわざレターとつけたのか、シュシュはようやく察した。

 これは「悪魔の秘密の恋文」というコンセプトの料理となったのだ。恋人たちが話題にしているのも、思いを料理で伝えることができるからなのだと理解する。

 エンデは自分の料理を食べてもらいたい人がいると言っていた。

 自分にできる全てを詰め込んだ黒い料理の中に、思いを込めた薔薇をそっと隠しておく。奥手なエンデらしいラブレターだ。彼はずっと恋をしていたのだと改めて実感する。

「これで胸を張って、好きな人に料理を食べてもらえるわね」

 エンデは突然真っ赤になるとそわそわと落ち着きなく手を揺らして、やがてぼろぼろ泣き始めた。

「やだ、どうしたの?」

 シュシュがハンカチで涙をぬぐってあげると、エンデは気恥ずかしそうに照れ笑いになる。

「だって今がまさに…なんだよ」

「?」

 首を傾げるシュシュを見て、エンデは牙を見せてにっと笑う。

「ぼく新しい夢ができたんだ。これからもっと頑張るよ。

 だからしゅーちゃんにぼくの料理もっと食べて欲しい」

 シュシュはこくりと頷く。

「もちろんよ。私、エンデの料理好きよ、あたたかい気持ちなるもの」

 エンデは耳まで真っ赤になると、耐え切れずに顔を覆い隠す。

「……もう、そんな風にされると私まで照れるじゃない」

 葉月は厨房からこっそり二人を見守っていた。エンデの情けない泣き顔とあまりに鈍感な天使に堪えきれず笑い声が漏れる。

「悪魔の初恋もうまくいかないもんだねえ」

 再び食事をはじめたシュシュの背後で花が咲き乱れる。その中にたった一輪、赤い薔薇を見つけて葉月は密かにほくそ笑んだ。



END

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花舞う君へ 弱気な悪魔の黒いディナー 長夢ユリカ @y_osamu

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