第10話 500キロサンドバッグに無呼吸連打
「よく寝ているな」
イスに座ったまま熟睡中の礼奈。
タマちゃんが必死に頭を下げまくる。
「すいません! 私がジュースとお酒を間違ったばかりに」
「いいわ、気にしないで」
タマちゃんと社長の華奈がやりとりをしている時、羅刹は礼奈の寝顔を覗きこむ。
すると、彼女の綺麗な唇が動いた。
「パパ、ママ……死んじゃやだ…………」
「………………」
その言葉を聞いて、羅刹はなんだか言葉にしにくい感情が芽生えた。
安い三文小説のヒーローではないが、それでもやっぱり、一言で言うなら『こいつの為に勝ってやるか』みたいな感情だ。
礼奈とは会ったばかりだし、今の羅刹にとって礼奈はただご飯を食べさせてくれる人、でしかない。
とてもではないが、
『旗大路フーズを救う為に、俺が優勝するぜぇええ!』
なんて熱血セリフは逆立ちしたって出てこない。
でもただ、ちょっとだけ、
『礼奈も必死なんだよなぁ』
とか、
『こいつの背負うもん考えたら、俺が優勝しないとダメなんだよなぁ』
と、考えさせられた。
◆
「わぁ、久しぶりだねこのサンドバッグ」
「ああ」
三日後の夜。
社宅のトレーニングルームには、巨大なサンドバッグが吊り下げられていた。
「こんなの誰も欲しがらないから、差し押さえたところも売れのこって困っていたらしいから、安く買えたわ」
好美と礼奈、羅刹の前に佇むソレは革ではなく金属繊維で編まれた布の中に、鉄粒がぎっしりと詰まっている。
こんな物を殴れば、常人はケガをするし、拳を鍛えている者でも数発で拳を痛めてしまうだろう。
それを、
「じゃあ、久しぶりに戦闘形態入るかぁ! いくぜぇ、無呼吸モード!」
好美が、遊園地に来た子供のように顔を輝かせる。
刹那、羅刹の体が弾丸のようにサンドバッグへ突貫。
強烈な右ストレートが五〇〇キロのサンドバッグを大きく揺らした。
「えっ!?」
礼奈が目を丸くする。
羅刹の攻撃は止まらない。
突き、蹴り、肘、膝。
ラッシュ。
それも、尋常ではない速度だ。
みるみる押しこまれるサンドバッグが、ただ速いだけではないことを物語る。
超速かつ超重の一撃が、マシンガン並の連射性で放たれているのだ。
羅刹のラッシュは止まらない。
三〇秒。
一分。
一分半。
それから少しして、羅刹は置き土産とばかりに鉄拳を叩き込んでラッシュを止めた。
大きく揺れたサンドバッグが戻って来る。
このままで羅刹と衝突してしまう。
大きく息を吐き出した羅刹は腰を落として、両手の掌底で運動エネルギーを相殺した。
「やっぱ、二分以上は無理か……」
「凄い凄い、せっちゃんの鬼ラッシュ、いつ見ても凄いね」
「鬼ラッシュ?」
「あー、礼奈は知らないんだったな。うちの天城流合戦葬殺術の真骨頂は無呼吸運動なんだよ。いわゆる無酸素運動だな」
「無酸素運動って、あの短距離選手が走っている時は息を止めているっていうやつ?」
「そうそう。人間は酸素を燃料に栄養を燃やしてエネルギーを作るんだけど、酸素が無くても筋肉内のクレアチンリン酸とブドウ糖を使ってエネルギーは作れる。おまけにこいつが生み出すエネルギーは莫大。礼奈が言った通り、短距離走で人間を毎秒一〇メートルも走らせることができる」
「凄いじゃない。あれ? でもあんた息止めたまま二分も……」
「そ、ただ息を止めるだけでも二分はキツイ、なのに俺は全力運動をしたまま二分止めるんだ。自画自賛するけど凡人にゃ無理だ。そもそも無酸素運動じたいが四一秒しか持たないシロモノだ。短距離走は一〇〇メートル走るのに一〇秒かかる。四〇〇メートル走は息を止めたまま走れるけど、五〇〇メートルは無理だ」
「じゃあなんであんたは二分もできるのよっ」
ちょっと不満そうな、クレームをつけるようにして礼奈は詰め寄って来る。
「生物は四一秒しか無酸素運動しかできない。人体を医学でしか語れない医者の理屈なんか知らねぇよ」
羅刹はぺろっと舌を出して笑う。
「俺は医者じゃないからわかんないけどさ。俺はガキの頃から無酸素運動時間を伸ばすよう修業しまくって、今じゃ二分。まぁどうしても二分以上伸びなくて困っているんだけど。俺の親父は五分以上の無酸素運動が出来たぜ」
「ご、五分!?」
「ああ、親父の話だと二分の壁を超えたらまたどんどん伸びるようになるらしいけど、俺はまだその壁を超えられないだわ。本戦まであと二カ月。それまでに伸ばしたいもんだ」
「いや、選抜でもあれだけ強かったのにさらに強化方法があるなんて優勝もう確実じゃないの!」
「はは、それはないよ。親父は五分以上の無酸素運動を一〇秒のインターバルでまた使える天才だったんだ。それでもNVTじゃ全勝とはいかなかった。俺は二分の無酸素運動したら次また使えるのは五分後。一回の試合は二、三回が限界だし、体への負担が多すぎてインターバル中は運動能力が落ちる。優勝への壁は」
羅刹が踏み込む。
「たっかいぞぉ!」
五〇〇キロのサンドバッグがくの字に曲がった。
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