沼の王国

位月 傘

 もし懸想している相手が、あらぬ疑いをかけられていたら、どうするべきだろう。

 自分の手には無実の証明があり、例えそんなものが無かったとしても、自分は心の底から彼女に罪など無いと信じていただろう。

 

 いったい、どうするべきだろう。言うまでも無い。人として正しい答えは決まっている。


 

 


 婚約破棄されたことが、ついこの前のことのように瞼に焼き付いている。だが実際はもう一カ月も前のことだ。

 相手の男は、つまらない人間だった。気が弱く、能力が高いわけでも特別見目麗しいわけでもない。貴族として何不自由無く、だからこそ平坦な日々の中で唯一の幸運とも言える私を手放すだなんて、つまらない上に見る目も無い男だ。


「お嬢様、お着きになりましたよ」

 

 馬車から降りようと白い手袋に覆われた手を掴もうとして、その顔を見てぎょっとする。


「ヘンリー……」


 この世で一番見たくない顔に、動きを止める。彼は相変わらず何が問題なのか分かっていないような顔で手を差し出していた。


「なんで貴方が……」

「傷心中であろう姉を想って弟が出迎えるのは、なんらおかしなことではないでしょう?」

「笑いたければ笑ったらどうかしら?私はちっとも傷ついてなんていないから、無意味なことでしょうけれど」


 従者のものだと勘違いしていた義弟の手を払ってすとん、と馬車から降りる。もう慣れたと思っていたはずなのに、豪華なドレスは水に浸した後のような、ずっしりとした重みがあった。

 

 婚礼の準備やら諸々の事情で一カ月間元婚約者の屋敷で生活、それからまた一カ月間元婚約者による突発的な婚約破棄による問題やら説得やら根回しやらを経て、実に二カ月ぶりに帰って来た。

 当然だが何かが変わっているわけではない。両親が亡くなってから、いや、それよりもずっと前から、ここはずっと弟の城だ。


 息苦しくてたまらない。身一つで逃げ出すようにテラスへと向かった。母が、唯一私を想ってくれた母が好きな場所に。


「あまり外にいては体を冷やしますよ」

「あら、ご当主様ったらお優しいのね。厄介者の姉を気にかけてくれるだなんて」


 私がいない間も世話されていたであろう美しい庭園は、つまるところもう母の面影など無い。私が大嫌いで、そしてどうしようもなく罪悪感を感じている男の指示によって保たれた美しさなのだから。


 許可も取らずに彼は向かいに腰を下ろした。私ともお父様のものとも違う赤髪が揺れる。これが赤の他人でさえあれば賞賛に値する美貌も、彼のものだと思うと憎らしい。

 

「他ならぬ姉上のことですからね」


 微笑むわけでも冗談というわけでもなく、真顔でそんなことを言う男の意図が読めない。昔はこんな表情の読めない顔でなかったが、かといって何か事件に巻き込まれてそうなったのでもない。

 

「思っても無いことを言うのはやめなさい」


 気味が悪いから、とは言わなかった。そんなことを言う権利は私には、いや誰にだって無い。だのに私は、そのことに気づくのに随分遅れてしまった。


 ひとに優しくしなさい、困っている人に手を差し伸べなさい、悪いことをしたなら謝りなさい。ひとの親はそうやって子供に言い聞かせるらしい。


 高貴でありなさい。あなたは貴族なのだから。母は私にそう言った。

 美しくありなさい。将来選ぶ側になるために。父は私にそう言った。


 なればこそ、私は貴族であっても人ではない。


「……あなたは私のことが嫌いでしょう」

「『私があなたのことを嫌いなの』とはおっしゃらないんですね」


 何が面白いのか、ヘンリーは薄ら笑いを浮かべる。今日初めて見た彼の表情が動いた瞬間だが、生憎私は彼の見透かしているような顔も、毒のような言葉も嫌いだ。

 

「それに俺は一度だって言ったことはありません。姉上のことが嫌いだなんて」


 冷たい瞳が私を射抜く。しらじらしい態度だ。嫌いに決まってる。だって子供の頃、私は彼に散々ひどいことをした。


 私の人生に突然登場したヘンリーは、その年の子どもにしては随分賢かったらしく、平民だった彼を父が養子にしたことが始まりだった。

 父の実子は私一人であり、女の私では跡を継げず、また母は私を生んだ後から体を悪くしてしまったから次の子どもは望めなかった。すべては憂いた父による決断であった。もしかしたら本当に、私に重荷を背負わせないための行動だったのかもしれない。


 愛されていなかったとは、思わない。だけれど私は、綺麗なドレスよりも、家を継ぐための勉強がしたかった。頼られたかった。父にとっての一番になりたかった。私を見て欲しかった。


「言っていないだけ、ね。もしかして当主様はあの頃みたいに、口を開けばひどい目に遭わされると怯えているのかしら」 


 父に目を掛けられてる彼が疎ましかった。

 才能のある彼が羨ましかった。

 だから、ひどいことをした。


 窓のない無骨な地下室に閉じ込めた。

 お前は卑しい平民だと罵った。

 白い肌が妬ましくて、背中に蝋を垂らした。


「もしそうだと言ったら、慰めてくれますか?」


 その顔と立場があれば、いくらだって慰めてくれる相手はいるだろうに、彼は戯れにそんなことを言って見せる。瞳は冷たいままだが、よくよく見てみると愉し気な色が覗いている。

 きっと私を困らせて楽しんでいるのだ。不愉快だ。しかしこの程度の、些細な復讐を受ける義務が私にはある。


「だけどそもそも、僕はあなたのことを嫌いでも憎んでもいません」

「……別に今更取り繕わなくてもいいわ。信じられないでしょうけれど、もうあなたに必要以上に突っかかったりするつもりはないもの」

「本心です、姉上のことは好きですよ」


 きっと信じられないものを見る目をしていてんだろう。ヘンリーはあははと声を出して笑った。

 

「だってあなたが、あんまり熱烈に僕を見つめるから」


 彼は席を立ち、私の側に跪いて、するりと私の手の甲をなぞる。氷のようだった瞳が溶けて、その様子があんまりに不可解で、振り払うように私は席を立ち、数歩後ずさった。


「もちろん初めはなんてひどい姉が出来たのだと思ってました。だけれどあなたの行動が嫉妬によるものだって分かって」


 ヘンリーはそこまで話して、私を追い詰めるように立ち上がり、悩まし気な吐息をこぼす。背中には母が好きだった花があり、目の前にはヘンリーが居る。身じろぎひとつでもすれば、きっと花は落ちてしまうだろう。


「本当に、酷く気分が良かったんです。今まで晒されてきた理不尽は、全てこのためだったのだと思うほどに」

「……そう。優越感に浸りたいのなら、舞踏会にでも行きなさい。うちの事業と手を組みたい貴族はあなたに傅き、あなたと結婚したい令嬢があなたに愛を囁いてくれるわ」

「最初は確かにそれだけでした」


 お前のことなどなんとも思っていないという風な、澄ました顔を崩してはいけない。自分が追い詰められている側などと、認めてはいけない。認められない。

 この私が、たかだか成り上がりの貴族なんかに、気圧されているだなんて。

 

「だけどあなたが昔誘拐されたのがトラウマになってるのだと聞いて――」

「誰に聞いたの」


 意図せず低い声が出る。それは反射であり、野生動物の威嚇に近かった。だがヘンリーは怯むこともなく、むしろより一層喜んでいるらしい。


 彼は真実、私のことを憎んでいないのだろう。だがそれなら、一層たちが悪い。


「姉上に虐められている僕を見かねて、父が教えてくれたんです。だから許してやれと」


 窓のない部屋に閉じ込めるのも、平民が嫌いなのも、背中に消えない傷をつけたのも、ぜんぶぜんぶ私が一番恐ろしかった記憶だ。

 子供の考えることだ。自分が嫌がることは、当然他人もそうだと思っていた。

 

「あんなに恐ろしかった姉上が、こんな些細なことで怯えてるだなんて。なんて――なんて可愛いんだろう。僕が守ってあげなきゃって」


 感極まったのか彼の手が私の手首を掴む。痛みは無い。けれど決して振りほどけはしなかった。

 乱暴な振る舞いに眉をしかめるが、ヘンリーはまったく気にしていない。止める人間も咎める人間もいない。当然だ。何故ならここは、彼の城だから。


「年を重ねるにつれて、姉上が過去の振る舞いに罪悪感を抱き始めていることも分かっていました。あなたはずっと、尊大で我儘で、悪辣なままでも良かったのに」


 そんなこと、出来るわけないでしょう!叫び声を押し殺す。彼にいいようにされている現状への苛立ちと、過去の己の行いへの悔いによって目頭が熱くなる。

 虫の手足をもいで遊んでいた無知な子供が、大人になって人を殺すことになんの躊躇いも抱かないなんてことはない。むしろそんなことをしていた自分を忘れてすらいるのが普通なのかもしれない。

 

「だけど、あぁ」


 いつもよりも低い声が空気を震わせる。今のが獅子の威嚇であるなら、先ほどの私はさながら不機嫌な子猫と言ったところだろう。

 しかし彼のそれは、不機嫌さを前面に押し出すつもりだったというよりは、苦々しさが抑えきれなかったという素振りだった。


「まさか罪滅ぼしのつもりであんな、あんな身売りみたいな真似をするとは、流石に思ってませんでした」


 手首の骨が軋む。きっと痣になるだろう。しかし今の彼の恐ろしさと比べたら、この程度痛み些細な問題だ。


 ヘンリー対する償いの気持ちはあった。だけれど同時に、この罪悪感から逃れてしまいたかった。だから家にとって利益になりそうな男性を見つけて、適当に外堀を埋めてから婚約の報告をした。

 今になってようやくそれが彼の逆鱗に触れたのだと気づいた。なにもかも、後の祭りだけれど。


「でも幸いなことに、姉上が選んだあの男は、杜撰な手口で婚約者を貶めることにした。大方親に結婚をせっつかれたものの、他に好きな女性が――自分より身分の低い恋人でも居たんでしょう」

「あなたが唆したんじゃないでしょうね」

「まさか。勘違いしないでください。あなたは単に、貴族の男に裏切られただけだ。今回は僕が何かするまでもありませんでした」


 ここまで言われれば、私は理解しなければならない。納得も実感も出来ないけれど、彼は間違いなく私に並々ならぬ感情を向けている。


 いったい何時からこうなった?

 いったい誰が彼をこう変えた?

 いつから彼は――。

 

 結局のところ、答えはひとつだ。

 

 ひとに優しくしなさい、困っている人に手を差し伸べなさい、悪いことをしたなら謝りなさい。

 それが出来ない私たちは、とうの昔からひとではない。


「罪悪感という錨で姉上を繋ぎ止められるなら、このままで良いと考えていました。だけどそれだけじゃあ、あなたは駄目だったんですよね?僕のことなんて、どうでも良いんですよね?ここから逃げ出したかったんですよね?」


 いっそ叫んで髪を振り乱し、発狂してしまいたかった。もう許してくれと、跪いて許しを請うことが出来るひとであれたなら。

 私は貴族なのだ。常に美しくあらねばならない。だけれどそれを捨てたら、私に何が残るというのだ。

 

 ヘンリーは許しそのものみたいに微笑んだ。だけれどそれが許しでは無いことは分かっている。だって彼は私を憎んでいないから。許す罪など、私たちの間には存在しないのだから。


「僕を好きになってくれなくても、構いません。だけれど、それならば、僕以外の誰のことも、好きにならないでください。ずっとここに居てくれるだけでいいんです」


 鬼気迫る悲壮感があった。声だけ聴けば泣いていると勘違いするかもしれない。だけれど捕んだ掌だけが、全てを否定していた。


「嫌だと言ったら?」

「そうですね……」


 考える振りをして、しかし彼は流暢に語り続けた。用意していた手札を広げるように。罪状を読み上げる裁判官みたいに。

 だがこの場において、彼は判断をする人間ではない。命令を下す王だ。


「まず罪人として貴族としての身分を剥奪します。それから僕の奴隷にして地下牢に閉じ込めます。見るに堪えない傷をつけます。あなたのその美しいプライドを、全て壊します」


 こんなものはままごとだ。いつかの日に、私が彼を恐怖で支配したことの真似事だ。


「あんまり怖がらないでください。ここは僕たちの城です。あなたが傍に居る限り、怖いことは何も起こらないんですから」  

  

 脅すように背中をなぞられる。お揃いの傷が私たちを繋ぎ止める。

 私にも彼にも、償うべき罪は無い。何故なら罪を背負えるのは、人間だけだからだ。


 だったら繋ぎ止める傷は何の意味を持つのだろう。少なくとも、ひとには分からないものだった。

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