一等両断

小狸

一等両断

 ――そこに立つのは、いつも私ではない。

 中西なかにし夏帆かほは、一番になったことがなかった。

 最も鮮明かつ、その劣等感の起源となった記憶は、小学三年生の時である。

 夏帆は絵が少し上手かった。

 それ故に、休み時間は教室で絵を描いて過ごしていた。

 当時流行していた漫画のキャラの模写や、人物、机や椅子など、陰影をつける。それだけでも、充分「それっぽく」見えていた。

 外遊びから帰ってきた同級生たちが、夏帆の絵を見て褒めてくれたから、嬉しくてずっと描くようになっていた。

 ここで重要なのは「少し上手」いという点である。

 同じような劣等感を抱えたことのある方は、既に推察を終えていることだろう――それは決して常識の範囲を脱さない、人並みより「少し」という意味を持っている。

 絵を描き、描き続ければもっと上手くなることができるだろうし、何かしらの成果が結実することになったかもしれない。

 ただし。

 世の中に「天才」はいる。

 いや。

 これもまた、正確は表現とは言い難い。

 「天才」とは、「天才」ではない側の人間が用いる言葉である。

 自らで自らのことを「天才」と称する者は、所詮眉唾である。

 その人物の持つ才能、才覚に理解が及ばないために、またその技巧を取得するまでの過程を想像することができないために、そう表現することしかできない――適する言葉が見つからないことへの敗北宣言。。教え方が本人の適性と合致していたかもしれない、筋肉の構造的に向いていたかもしれない、人知れず努力を重ねていたかもしれない、それだけを頼りに辛うじて生きている人間だったのかもしれない、何かの偶然だったのかもしれない――そう言った当たり前の努力と積み重ねを、認めたくないがための逃げ口上。

 それこそが、「天才」という言葉に秘められた劣等感だ。

 だからこそ、人との比較、誰かより上にいたいし認められたいという承認欲求、そうなることのできない劣等感が人間に備わっている限り、「天才」はどこにでもいる。

 そして、決して偶然でも何でもない、当たり前の確率で。

 夏帆のクラスにも。

 「天才」はいた。

「え、これ、うまくない?」

 もう一人、昼休みに絶対に外に出ることのない、物静かな男子がいた。

 ――あの子は、なんて名前だったっけ。

 信じられない程に肌が白く、いつも血色が悪い、体育もほとんど欠席していたように思う。悪目立ちを嫌う性格によりスポットライトが当たることはほとんどなかった。

 ただ、ある日。

 彼の絵の異常さは、露呈した。

「――っ!」

 彼の周囲に人だかりが出来ていて、夏帆は気に食わなかった。またいつものように私の絵を見てはくれないのか、私よりスゴイ人でもいるのか、と、そう思って「え? 何、どうしたの?」と、男子女子が集まる席の方へと向かった。

 向かって――見た。

 そこにあったのは、どうしようもなく圧倒的な才能だった。

 人間の絵は一つもなかった。

 風景や木々、水道など、教室から見える景色を、鉛筆だけを使って描いていて。

 まるで写真のようで――いや、言語化は控えよう。

 そんな比喩が陳腐なものに聞こえてしまう程に。

 彼の絵は、才能は、完成していた。

 夏帆は何も言えなかった。

 ――何を言えば良かったんだろう。

 ――上手いね?

 ――すごいね?

 ――嫉妬しかしていないのに、お世辞を言えば良かったのか?

 そのまま静かに自分の席へと戻って、見せびらかすように広げていた絵の描いたノートを、そっと机の奥に仕舞った。

 その日から、クラスメイトは夏帆のことを見なくなった。どころか、明らかな劣化版だと、「ちょっと上手いだけで調子に乗っている」と断じるようにまった。

 ――今まで私が一番だった。

 ――私を褒めてくれていた。

 ――なのに。

 ――こいつさえ、いなければ。

 夏帆は彼をいじめた。陰湿ないじめだった。幸い、彼の静けさ、体育を休んでいる感じ、女子に囲まれている雰囲気を気に食わない男子は多かったので、うまく煽動した。

 彼はいつの間にか、学校に来なくなった。

 身体を壊したのだそうだ。

 それから先の彼の様子は知らない。

 ただ、彼がいなくなったからといって、夏帆が一番になることは金輪際無かった。

 どれだけ絵が上手いことを見せつけても、彼の名前が出て、中学を卒業するまで、その呪縛から逃れることは出来なかった。

 長々と、中西夏帆と絵と、同級生についての話を繰り広げてしまったけれど。

 彼女の人生は、それだけではなかった。

 ――いつだって、一番にはなれなかった。

 ――絵だけ、には限らない。

 ――最初は褒めてくれる。

 ――持て囃してくれる。

 ――なのに、絶対に自分の上位互換が現れて、私の全てをかっさらっていく。

 ――妬ましい。

 ――ずるい。

 ――褒められるべきなのは、私なのに。

 勉強でも、運動でも、容姿でも、全てにおいて、夏帆が一番になることはあっても、一番であり続けることは決してなかった。

 それは、よく考えれば当然のことである。

 容姿端麗で才色兼備な、完璧な人間などいない。

 どんな人間にも瑕疵がある。

 たった一つの分野を極め、また広い範囲を習得し補完することで、お互い支え合いながら、人々は毎日を生きている。

 全ての分野で一番になるなど、漫画や小説でもなければ、不可能なのだ。

 夏帆はそれを認めなかった。

 そして、今。

「…………」

 一人暮らし先の自宅のアパートで、彼女は首を吊ろうとしていた。

 会社で、あるプロジェクトで重要なミスをしてしまい、会社が倒産することになってしまった。

 ――死んでしまおう。

 丁度良く太い梁のあるアパートであったので、タオルを引っ掛けてひもを作り、椅子の家に乗った。

 彼女の何が悪かったのか――と、反省点を列挙するのなら、努力をしなかったことだろう。

 自分を上げるために努力するのではなく、上を蹴落とす。そうすることで、相対的に上へと進もうとした。

 性格を矯正されることのないまま大人になってしまった、中西夏帆が悪い。

 世間はそう思うだろうし、彼女を知る者も、そう思うだろう。

 でも。

 中西夏帆は、そう思わない。

 ――こんなのおかしい。

 ――私が一番じゃないなんて、おかしい。

 ――私が褒められないなんて、おかしい。

 ――こんな私、認めたくない。

 だから、死のう。

 躊躇はなかった。

 足にほんの少しだけ力を込めて、一歩。

 思い切り椅子を蹴っ飛ばした。

 いつも通り、自分より上にいる者を蹴落とすように。



 埼玉県のアパートにて、中西夏帆の首吊りが発見されたのは、令和四年三月三日のことである。

 救急隊による迅速な処置により、彼女は命を落とすことはなかったものの、低酸素状態が続いたためにほとんど植物状態に近いものとなった。

 同年同月十三日の現在でも、中西夏帆は生き続けている。

 何も思い通りにならず、幸せにもなれなかった彼女の人生は。

 病床の上で、ゆっくりと腐っていく。


 


(了)

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