専攻なんて関係ない

 人間関係のトラブルほど面倒なことはない。だからなるべく他人とは関わりを持ちたくないのだ。それなのに教室にいるといつも他人が寄ってくる。迷惑でしかない。

 

 私は今、キャンパスの近くにある定食屋でとんかつ膳をつついている。ランチタイムを過ぎているせいか、他に客はいない。夏休み期間中だから学生もいない。静かで快適な空間だった。


 自己紹介が遅くなってしまった。私の名前は野島みゆ。地方の短大に通っている。特技は剣道。中学高校と6年間で2段の腕前だ。独り暮らしの部屋にも竹刀を置いている。テレビを見ながら時々は振るようにしている。趣味はアイドルの追っかけ。それから、爬虫類。先日は蛇を首に巻かせてもらって興奮した。でも、この趣味は人には言わないようにしている。引かれそうだから。こんな私ですが少々お付き合いください。


 思えば、私は昔から集団行動が苦手だった。原因は思い出したくもない。高校時代の“いじめ”だ。よくある女同士のしょうもないイザコザだったが、卒業が迫っていたこともあって学校を欠席することでやり過ごした。だから特に大きな問題にもならなかった。当時は、卒業式を指折り数えながら、県外の短大を選んでよかったと心底思ったものだ。


 そんなことがあったものだから、短大に入学してからも自分から周囲の輪に入っていくことはなかった。結果、独りでのんびりと過ごせている。

 独り暮らしだから料理を覚えようかとも思ったが、やめた。一人分だけ作るのは手間だし、慣れないうちはお金が掛かる割にそれに見合ったクオリティは望めない。だったら外食した方がマシだ。そんな暮らしのおかげで独りで定食屋に入るのにも慣れた。


                    ※


 短大の就職活動は早い。1年次の3月から解禁となるため、入学直後から自己分析や企業研究を行い、夏休みにはインターンシップに参加する。そして、冬には志望先をある程度は決めておく必要があった。


「就職先、決めた?」


 12月に入って最初のゼミナールの時間、隣に座るまこに尋ねられて、いよいよ真剣に悩む覚悟を決めた。一応、私は「医療」を専攻していたため、同じコースの人達の多くは病院やクリニックを志望している。一部には薬局やドラッグストアを目指す人もいるようだが。そういえば、まこは選択科目で「調剤事務」の資格を取得していたから薬局を志望しているはずだ。


 改めて考えてみると、自分が医療機関に向いている人材とは到底思えなかった。弱っている人を救いたい、なんて考えたことはないし、自分に救えるとも思えない。そもそも今の専攻を選んだのだって「とりあえず」というところが大きかった。とりあえず県外に出たかっただけだ。だから、指定校推薦が来ていた今の短大に進学することに何の躊躇もなかった。そして、4つある専攻の中から消去法で医療コースを選んで申し込んだのだ。だから医療に対する執着はない。「医療系に進まないとこれまでの授業料が無駄になってしまう」なんて言っている人もいるが、全く共感できなかった。どうして高校3年次の進路決定に縛られて将来を決めなければならないのか。それより1年間成長した今の自分で決めた方が良い選択ができるに決まっているじゃないか。だから私は専攻には囚われない。


 さて、医療は無いとして、1年間成長した今の自分としてどんな仕事を選ぶべきか。特技の剣道を活かせる仕事なんてあるわけないし。興味があるものから選ぶか…。日本酒には興味があるから、酒蔵とかで働けると楽しいかもしれない。まだ飲んだことはないけれど。


                  ※


 ある日の5限の後、煮詰まった頭を抱えて38番研究室のドアをノックした。キャリア教育の授業を担当していた先生に話を聴いてもらうためだ。


「どうぞ、お掛けください。」


 自称カウンセラーの先生が出迎えてくれた。黒縁眼鏡の中年男性。初めて会った時からやけに背が高い人だとは思っていたが、2m近くあるという噂だ。カウンセラーよりバレーボールでもやっていた方が有効活用できるんじゃないかと思うが、それは余計なお世話だろうから言わない。


 とりあえず、促されるままに事情を話した。医療を専攻しているが医療に向いているとは思えないし、なにより興味を持てないこと。興味を持てそうな分野といえば日本酒くらいだということ。


 話しているうちに、煮詰まった頭の中身が少しずつ整理されていく。カウンセリングというのは不思議なものだと思った。自分ばかりが喋っているが、疲れないし、むしろ心地いい。いろいろなことを思い出し、「あれも」「これも」と伝えたいことが次から次へと湧いてくる。


「旅館の女将になります!」


 そう宣言して研究室を出た。ぐるぐる瞑想した挙句にとんでもないところに着地してしまったような気がする。しかし、今一番なりたいと思える職業は旅館の女将だ。仲居から修業を積んで独立して旅館を開いて、そして女将になる。長い道のりだが、面白そうだと思う。


 先生との話の中で、日本酒への興味を随分と深掘りされた。必死に答えを探していく中で気づいた。私は日本酒が好きなのではない。それはそうだ。だってまだ飲んだことがないのだから。それよりも日本の伝統や文化が好きなのだ。思えば、高校で剣道部に入部したのも「武士道」に憧れたからだった。そしてその原点は、祖父の影響だった。時代劇が好きで、平日の夕方はいつも時代劇の再放送を観ていた。アニメを観たかった幼少期の私にとって、祖父と過ごす夕方のひと時はチャンネル権を奪われる苦痛な時間だった。そんな祖父は、日本酒を好んで飲んだ。お正月など、特別に少しだけ飲ませてもらったことがある。ほんの一口で耳まで真っ赤になった顔を見て、真っ赤な顔の祖父が笑った。高校で私が剣道を始めると、祖父が一番喜んだ。そんな祖父に昇段試験の結果を伝えることが楽しみで、毎日の稽古に打ち込んだ。


 酒蔵は日本酒を製造することはできる。一方で、その販売は小売り店に委ねるケースが多い。また、日本酒は日本の伝統や文化の一端を担うものではあるが、あくまでも一端にすぎない。その点、旅館であれば、接遇、料理、施設、イベント、地域観光など、様々なおもてなしの観点から伝統や文化にアプローチすることが叶う。ましてや自分の旅館であれば、理想とするコンセプトを決めてそれに沿ったサービスを展開することも可能だ。だから、女将なのだ。ただ、一抹の不安もあった。


 先生の言葉を思い出す。


「やれるか、やれないか…ではありません。やるか、やらないか…です。人生とは、思い通りにいかないことの方が多いものです。ある研究では80%は思い通りにいかないと言います。しかし、思い通りにいかなかった結果、良い道が拓けることもあります。だから、まずはやってみることです。勇気を持って行動した末にどんな結果が待っていたとしても、あなたの姿勢一つで正解にしていくことができます。少なくとも、そこに後悔はありません。」


 後悔がない…というのは良いことだと思う。「どうせ上手くいかない」と諦めるのではなく、選んだ道をその後の自分の行動によって正解にする。あの時、あの選択をしておいてよかった、と思えるように。自分自身がちゃんと納得できるように。


 それにしても、旅館か。考えたこともなかった業界だ。まだ説明会の予約は間に合うだろうか。

 その夜、実家の両親に電話をして旅館を目指すことを伝えた。医療の道に進むものだと思っていた両親は驚いた様子だった。母は軽く反対。これは想定内だった。母の口癖は「医療は食いっぱぐれがないから」。私が医療の道にに進むことで、将来的に経済的な不安のない人生を送ることを期待していたに違いない。少しだけ申し訳なく思った。一方、父は「やってみてダメだったら戻ってこい」と言ってくれた。戻るつもりはなかったが、有難かった。


                   ※


 ゼミの時間、旅館を目指すことをまこに伝えた。


「向いていると思うよ。」

 適当なヤツだ。でも、反対されるよりはいい。つかず離れず…この適当な距離感が心地よかった。授業後、それぞれの進路に向けて頑張ろうと誓い合って別れた。


 その後、私の就職活動は意外なほど順調に進んだ。具体的に検索条件を絞り込むことができていたためである。旅館であり、かつ日本文化の発信に力を入れている会社に限定して検索したところ、希望するエリアでは1社のみがヒットした。そして、その企業にエントリーし、あっさりと内定を獲得することができたのだ。

 就活生の多くが頭を抱えるという「志望動機」に悩むこともなかった。私が旅館で成し遂げたいこと、将来的には独立して女将になりたいことについて具体的に語っただけだ。最終面接では、社長から「うちの仕事でいろいろ試してみてください」と言ってもらえた。その言葉で、自分のワークキャリアのスタートをこの旅館から始めることに決めた。


                   ※


 卒業式を控えた3月。心の中に迷いや後悔はない。あっという間の2年間だったが、自分の進むべき道を見つけることができた意味のある時間だったと思う。

 ランチタイムを少し過ぎた定食屋でとんかつ膳に箸を伸ばしながら、高校時代には思いもよらなかった仲居として働く自分の姿を想像していた。

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