50分間のドライブ

あゆん

1話

 今日も助手席に座り、チャイムを待つ。

 まだ3月に入ったばかりだが、フロントガラスから差し込む日差しは鋭く、春の気配を感じさせる。膝に教習原簿と教本を置き、前方に連なる教習車の列を眺めていた。

 大学3年の春休みを利用し、私は教習所に通っている。長い休みの間、ぼんやり過ごすのが常なので、午前中くらいは有意義に過ごそうとスケジュールを組んだ。1月の後半から通い始め、すでに仮免許は取得した。路上での走行も2回ほど経験し、運転には大分慣れてきていた。

 数分と経たないうちにチャイムが鳴った。教官の趣味なのか、一昔前の曲がオルゴール調にアレンジされ流れてくる。左に視線を移すと、サイドミラーに教官室から出てくる人の群れが見えた。教習車は後方にも連なり、教官の塊は徐々にほつれ、担当する車に分かれていく。

 今日は一体どんな教官に当たるだろうか。

この教習所では教官がランダムに選ばれる。だから、チャイムが鳴って相手が車に近づいてくるまで、どんな人がやって来るか分からない。父親より年上の教官や20代から30代くらいの若い男性、割合としては少ないが、女性の教官に教えてもらったこともある。

 サイドミラーを凝視し、どの教官が自分の乗る車に止まるか見極めようとする。静かな車内で、意味もなく心臓がドンドンと響く感覚が心地いい。

 一人、スーツ姿の男性が明らかにこちらに向かってくるのが分かった。私はミラーから視線を外し、少し身を固める。

 こんこん。窓ガラスが軽く叩かれる。

「こんにちは、よろしくお願いします」

 ドアを開けたのは知っている顔だった。30代前半くらいの男性で、佐藤さんだ。仮免試験前、最後の教習でお世話になった。気さくで話しやすい人だったことを覚えている。教え方も分かりやすかった。私は内心ほっとした。

「よろしくお願いします」

 すぐに教習原簿と教本を相手に渡す。佐藤さんの顔を改めてみるが、やはり印象は変わらない。何を考えているのか分からない、感情のない目元。しかし、少し鼻がかった、低すぎない声は柔らかい雰囲気をまとい、冷たい顔立ちを中和させる。

「じゃあ早速、席変わろうか」

 私は運転席に移動し、座席の調整やミラーの確認を済ませシートベルトを装着する。

「お、仮免合格したんだね」

「……はい! 合格しました!」

 明らかに私のことを認識してくれている口ぶりだった。

 前に別の教官から聞いたが、一度教えた生徒のことは意外と覚えているらしい。ましてや、スケジュールを組んで週に3,4回ほど通っている私の場合、佐藤さんに教えてもらったのはほんの2,3日前だったはず。人に覚えてもらえるのは案外嬉しいものだ。

 私はすっかり気分がよくなり、さらに仮免試験で教官に運転を褒めてもらったことも思い出していた。

「おめでとう。で、前回はどうだった?」

「あ、教官に運転上手いって褒めてもらいました」

「うん?」

「佐藤さんにコツを教えてもらったS字カーブ、上手く通れたんです!」

 前回という言葉から、私は当たり前のように仮免試験前の佐藤さんとの教習を思い起こした。

「……? ああ、試験のことね! すごいじゃん。なかなか褒めることないと思うよ」

「……?」

「じゃあ、今日はスケジュール通り、駅周辺のコース行くね」

 エンジンをかけ周囲を確認する間も、気分の良いまま微妙に掛け合わない会話を反芻した。そしてすぐに自分の勘違いを理解する。

 何浮かれているんだ。狭い車内に恥の逃げ場はなく、動揺がハンドルに伝わらないよう、口をぎゅっと結んだ。

「はい、じゃあ次の交差点で右に曲がります」

「はい!」

 車は教習所を出て、すぐに小さな交差点にぶつかる。何とか落ち着きを取り戻し、佐藤さんの指示に従って進む。住宅街を右に、左に曲がり、駅の方面へ走る。太陽も完全に昇り、車内も温まってきた。

「この左にあるケーキ屋、結構有名なんだよ」

「そうなんですか!」

 土地勘のある教官は、たまにおすすめのお店や有名な場所を教えてくれたりする。私はそのケーキ屋を見つけようときょろきょろする。

「あ、信号信号」

「はい!」

 すぐに正面に向き直り、アクセルを踏み込んだ。アクセルは自分で踏み込まなければ車を動かすことはできない。話に夢中になってまたうっかりしていた。物事を同時にこなせる器用さがほしい。

 しかし、私は凝りもせず佐藤さんの足元に一瞬視線を向けた。そこには教官用のブレーキが設置されていて、常に足が軽く乗せられている。どの教習車にも設置されているはずのブレーキから、今日は目が離せなかった。

 佐藤さんがそのブレーキを踏み込めば、私がどんなにアクセルを踏んだとしても車を動かすことは叶わない。

 主導権を握られている、と思った。そして、そのブレーキに足がかけられている事実に改めてぞくりとした。

 視線を正面に戻したが、考え始めると止まらない。

「次の交差点、左ね」

「はい」

 駅に近づくと人通りも多くなり、自転車が車道の端を呑気に走っていく姿も見られる。道路の幅も広くなり、交差点も普段より複雑に思えた。停止線は妙な位置まで伸びている。信号は赤に変わった。見慣れない位置にある停止線まで進んでいいのだろうか。ブレーキを調節し、車をそろそろと動かす。

「ああ、ごめん、手伝えばよかったね。あそこまで進んで大丈夫だよ」

 私が不安げにアクセルを踏む姿に一瞬遅れて気づいたのか、横から佐藤さんの腕がスッと伸び、骨ばった手がハンドルを握った。停止線に合わせて少し右に傾ける。

 ああ、ごめん。

 その声に心臓のまわりの血管がゆるみ、安定を失うような感覚に陥る。

「そのまままっすぐ進んで、次も左です」

「……はい」

 50分の教習の間、進む方向を示され、分からないときは横から手を差し伸べてもらえる。さらに、もしもの時はその足元にあるブレーキで止めてくれるのだろう。安心感があった。

「次は右ね」

 教習は終わりに近づき、見慣れた道に戻ってきた。方向を指示されなくても教習所の位置は何となく分かる。しかし、右、左、と進む道を一つに制限していくそのくぐもった穏やかな声はもっと聞いていたい。

 同じように戻ってきた教習車が、道を譲りながら所内に入っていく。あとは所内を一周し、最初の位置に車を停めれば終了だ。

「今日はどうだった?」

 佐藤さんは教習原簿を記入しながら私に話しかける。

「普段見慣れないような交差点が多くて、少し難しかったです」

「うんうん。次回も駅周辺通るだろうから、また練習できるよ」

「はい」

 教習所の聞きなれたチャイムが鳴ったタイミングで駐車を完了させた。

「はい、お疲れさまでした!」

「ありがとうございました」

 運転席から出ると、助手席を先に降りた佐藤さんが後部座席の扉を開けた。

「次は学科?」

「はい!」

 私は後部座席の荷物を取り、佐藤さんから教習原簿と教本を受け取った。

「眠いよね、頑張って」

 並んで初めて、佐藤さんの背の高さに気づく。私も背は高い方だが、視線を向けるために顔を持ち上げなければならないほどの身長差があった。

 なぜか、妙に恥ずかしい。

 もちろん、教習の最初で勘違いをして妙に会話がかみ合わなかったことや、ケーキ屋探しに夢中になって信号を見ていなかったことが要因だろう。しかし、それよりもっと大きい理由があるはずだ。

「……ありがとうございました!」

 佐藤さんの目を見ることはできず、視線をずらし、そそくさとその場を後にした。



 学科を終えると、時刻は昼を十分に過ぎたころだった。急いで送迎バスに乗り込む。

 私は窓の外を眺めながら、改めて佐藤さんのことを考えていた。理解できたように思う。なぜあんなにも嬉しいような、恥ずかしいような気分になったのかを。

 快感だ。

 佐藤さんの声を聞き、指示され、助けられるのが、全部気持ちよかった。思考は教習からはなれ、むしろ男女のまぐわいの方向に向かっていた。彼にならどんなことをされてもかまわないし、むしろ好きにしてほしい。彼が私をどんな風に抱いてくれるのか、知識を精一杯引きずり出して考える。

 バスが動き出す。

 相手の言動で快感を得られたから、その感覚をまた味わいたい。こんな不純な好意も恋や愛と同じなのだろうか。

 まあいい。

 明日も技能実習が入っている。あの制限された、自由の利かない空間で佐藤さんの声を聞きたいと、願わずにはいられない。私は快感に浸るように目を閉じた。




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50分間のドライブ あゆん @AYUNnn

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