第274話 記念すべき日
10月に入り、僕はチームの許可を取り、一度自宅に戻ることにした。
というのもいよいよ結衣が出産予定日を迎えるのだ。
そして朝、大阪に戻るために、新千歳空港に向かう途中、結衣の母親から連絡が入った。
急に生まれそうになり、今から病院に向かうとのことだ。
僕は慌てたが、どうすることもできない。
せめて飛行機の中で、無事に産まれるのを祈るしかない。
「神様、仏様。何とか母子ともに健康でありますように」
普段、全く信心深く無いが、こんな時だけ神頼みである。
そして、伊丹空港に着いた時、結衣の母親から産まれたという連絡が入った。
安産で母子ともに健康とのことだ。
間に合わなかったのは、残念だが、それを聞いた時、心から安堵した。
そして何故か涙が溢れてきた。
この涙が何なのか、自分でも良く分からなかった。
自分の子供が産まれた。
全く実感が湧かない。
会えば実感が湧くのだろうか。
伊丹空港からタクシーで病院に向った。
幸い30分くらいで着く。
タクシーの車窓から見える、一つ一つの景色。
何故だろう。
いつもよりもキラキラと輝いているように見える。
僕は今日の日を一生忘れまい、と心に誓った。
病院に着き、ナースステーションで部屋番号を確認し、急いで廊下を歩いた。
一瞬でも早く結衣と産まれてきた子供に会いたいのだ。
部屋のドアを開けると、結衣のお母さんがベッドサイドの椅子に座っており、結衣がベットで体を起こして、何かを話していた。
「あら、早かったのね」
結衣は僕の顔を見て、微笑んだ。
「貴方の子よ。見てやって」とベットの傍らにある保育器を指さした。
僕は保育器に恐る恐る近づいた。
思ったよりも小さい。
産まれたばかりの赤ちゃんを見るのは初めてだった。
手も足も小さいのに、ちゃんと指が5本ずつあるのも不思議な気がした。
「この子が僕の息子か…」
赤ちゃんは目を閉じて、すやすやと寝ていた。
「ようやく会えたね」
「じゃあ、隆介さん、私は一度家に戻りますね。
朝、慌ただしく家をでたものですから」
そう言って、結衣の母親は部屋を出ていった。
気を効かせたのかもしれない。
「お疲れ様でした」
僕はベットサイドの椅子に腰掛けて、結衣の手を握った。
「ええ、疲れたわ。でも看護師さんが言うには、初産にしてはとても安産だったんだって」
「そうか。良かったな」
「ええ」
そう言って、結衣は立ち上がり保育器を開け、赤ちゃんを抱いた。
「ねえ、名前はどうする?」
「もう考えているんだ」
「何?、聞かせて」
「球児」
「いや」
「じゃあ、球太」
「いや」
「それなら、球助」
「いや」
「らいと」
「いや」
「れふと」
「真面目に考えている?」
「考えているよ。ダメかな?」
「もういいわ。私が考えた名前にする」
結衣は引き出しから一枚の毛筆で書いた紙を出した。
そこには「翔斗」と書かれていた。
「何て読むの?」
「しょうと、よ」
「格好良い名前だね。
気に入ったよ」
「そうでしょ。
ずっと前から決めていたの」
じゃあ、何で僕に聞いたんだ。
「そうか、君はこれから高橋翔斗だ。
元気にスクスクと育って、プロ野球選手になって、新人王を取って、2000本安打を打って、殿堂入りするんだぞ」
僕は結衣からは翔斗を受け取って、腕に抱き、あやしながら囁いた。
翔斗は目を瞑っていたが、少し目を開けて、眩しそうに僕を見た。
「ちょっと欲張りすぎじゃない。元気に育ってくれれば、それだけで充分でしょ。
ねえ、翔斗ちゃん」
結衣は僕から翔斗を受け取り、腕に抱いてそう言った。
翔斗は微かに笑ったように見えた。
「そうだな。あまり欲張ってもダメだよな。
元気に育って、甲子園に行って、プロに入ってくれればそれでいいや」
「何を言っているの。
無事に産まれてくれて、元気に育ってくれればそれだけで充分でしょ」
「はい、はい、そうでした。
翔斗、産まれてくれてありがとう」
僕は結衣からもう一度、翔斗を受け取り、あやした。
すると翔斗は急に泣き出した。
「だめよ。そんなに強く揺らしちゃ。
貴方は子供を扱う練習が必要ね」
結衣は僕から翔斗をひったくり、あやした。
するとすぐに泣き止んだ。
結衣は母親になったばかりなのに、もう子供のあやし方が板についている。
「来年は札幌に行くわね」
「まあしばらくは単身赴任でもいいけどね」
「ダメよ。家族はなるべく一緒にいなくちゃ。
それに貴方を1人にしておくと、何をしでかすか心配だし…」
どうやら僕はあまり信頼がないらしい。
思い当たる節が無いことも無いが。
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