第82話 数少ないかもしれないけど
手の甲を骨折してから、一カ月が経った。
その間にプロ野球は開幕し、泉州ブラックスのセカンドの開幕スタメンは、やはりトーマス・ローリー選手だった。
瀬谷選手、泉選手も開幕一軍に入り、出場機会は多くないが、それぞれ守備、打撃に持ち味を発揮していた。
その間、僕は手術を受け、数日後からリハビリを開始した。
診察では試合復帰まで2カ月ということであり、早くても5月下旬になる。
トレーナーからもコーチからも、とにかく焦らないように言われている。
「禍を転じて福となす」とか「ケガの功名」となるように頑張れ、と前向きな言葉をかけてくれる人もいるが、今の僕はそのような気持ちにはなれない。
折角の開幕一軍のチャンスを逃した悔しさで、一杯であった。
チームは開幕から好調で、4月を終えた時点で、15勝9敗で首位に立っており、セカンドのトーマスは打率.333の成績を残していた。
ちなみに古巣の静岡オーシャンズは14勝10敗で2位につけており、新入団の黒沢選手は不動の三番セカンドとして、打率.375で首位に立っていた。
僕はその間、リハビリに明け暮れ、5月の半ばに、ようやく二軍の練習に合流した。
復帰戦は夏も近づく、5月の終わりだった。
その日の二軍戦は岡山ハイパーズ戦であり、セカンドの先発は大岡選手だったが、7回の裏の守備から出場することになった。
ようやく戻ってきた。
僕はグラブを手に守備位置についた。
この日の観客は平日昼間の二軍戦とあって、百人にも満たず、この中に僕が復帰戦だと知っている人はほとんどいないだろう。
そう思って、僕は守備位置から何気なく内野ベンチの方を見た。
すると、僕の名前が書かれた、垂れ幕が目に入った。
誰だろう。
その回は守備機会は無かった。
僕はベンチに戻りつつ、垂れ幕の持ち主を見た。
三十代くらいの男女がそれを持っていた。
女性の方はどこかで会ったことがある気がした。
誰だっけ。
僕はベンチに戻ってからも考えたが、思い出せなかった。
8回の表の攻撃は、僕には打席が回ってこなかった。
僕は守備位置につくときに、もう一度スタンドを見た。
垂れ幕は手作りのようで、僕の背番号58が入っていた。
8回の裏、鋭いライナーが1本正面に飛んできたが、真正面でキャッチした。
そして9回の表は、一人ランナーが出れば僕に回ってくる。
相手の投手はこの回から五香投手に替わった。
彼とは高校時代の地区予選で対戦があり、その時僕は2安打を放った。
五香投手はプロに入った時は、二刀流に挑戦していたが、どちらもパッとせず、今シーズンから投手に専念している。
初球、外角低目へ逃げるスライダーだった。
僕はうまくバットに乗せて、振り抜いた。
打球はライトの頭を越え、僕は三塁に到達した。
スタンドでは多くはないが、観客が沸いていた。
垂れ幕を掲げてくれた夫婦も、手を取り合って喜んでいた。
そして僕はそれが誰か、はっきりと思い出した。
試合は僕の三塁打を足がかりに、泉州ブラックスが集中打で5点を取り、岡山ハイパーズに逆転勝ちをした。
試合後、球場を出るとさっきの夫婦が待っていた。
僕は帽子を取って近づいた。
「ありがとうございます。
わざわざ岡山まで来てくれたのですね。」
「はい、そろそろ復帰かと思いまして、主人と一緒に休みを取って来たんです。」
横にいるご主人は中肉中背の体格で、温厚そうな方に見えた。
僕はご主人の方を向き、「いつも応援ありがとうございます」と言いながら頭を下げた。
「こちらこそ、高橋選手にはいつも元気を貰っています。
高橋選手の活躍が息子が亡くなった悲しみを和らげてくれました。
一軍初出場の時のボール、ありがとうございました。
息子の遺影の前に飾っています。
今では夫婦揃って高橋選手の大ファンです」
それほど活躍はしていないが、それでも僕のプレーを励みにしている人がいることはありがたい。
彼らは僕のファン第一号である、幼くして病気で亡くなった少年のご両親だった。
すぐに思い出せなかったのは申し訳なかったが。
奥さんが自分のお腹を撫でながら言った。
「実はお腹の中に、子供がいるんです。
だから今日はこの子にお兄ちゃんが応援していた、高橋選手の勇姿を見せたいと思って来たんです」
「よく今日から復帰ってわかりましたね」
「ええ先日、泉州ブラックスの二軍のツイッターで高橋選手が練習復帰したというのを見たので、そろそろ試合にも復帰するという予感がしたんです。
それで昨日の試合から見ていたんです。
でも良かったわ。
高橋選手の活躍するところを間近で見られて。
この子も生まれたら、きっと高橋選手の大ファンになりますわ」
「ありがとうございます。
産まれたら是非、写真を送って頂けますか。
頂いた絵の隣に貼ります」
奥さんは嬉しそうに肯いた。
「ありがとうございます。まだ絵を持っていて下さっているのですね。」
「はい。僕の宝物です。
今も寮の部屋に額に入れて飾っています。
今回の骨折で挫けそうな時も、頂いた絵を見て、もう一度頑張ろうと思えたんです。」
「ありがとうございます。
高橋選手が泉州ブラックスに行っても、背番号が58のままで嬉しかったです」
「はい。僕はいつまでも天国の息子さんが僕のことを分かるように、どこのチームに行っても、ずっと58に拘ります。
これからも応援お願いします」
夫婦は何度も頭を下げながら、駅の方へ去って行った。
先日、球団職員から僕の名前の入ったユニフォームやタオルが、入団してからの5ヶ月累計で数十枚売れていると聞いた。
数少ないかもしれないけど、僕を応援してくれている人がいる。
少しでもそれに答えたい。
改めてそう思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます