あるスケーターの姉

神山雪

第1話

 初めて氷に降りた日。私は遠くに離れた母と、産まれたばかりの弟をそこからながめていた。母は弟を抱きながら氷の上の私に手を振り、そんな母に私は手を振り返す。初めてなのに妙にうずうずして、靴を履いた瞬間に私は飛び出した。一分でも一秒でも、速く走りたくて。今思えばよく転ばなかったものだと思う。

 氷の力を借りれば、私は速く、どこにでもいけるのだと、その時は信じていた。


 *


「お願いします、鮎川さん! 弟さんのサインいただけるか、聞いてみて下さい!」


 ああまたか、と変な笑いが漏れてくるのを必死で堪える。こう言ったことを聞くのは八回目だ。鏡がないから確認は出来なかったが、初めて聞いた時はこめかみに青筋が浮いていただろう。


 三月初めの大学構内。後期授業は終了しているから、人はまばらでこの時期になると学食もろくにやっていない。私が学校に来たのは、教務課に用があったからだ。レポートの提出のため。それも早々に終わり、夜からの飲み会までどうしていようか考えいていた時だ。目の前の男から話があると言われたのは。


 オーケー、じゃあ確認してみよう。私の目の前で深々と頭を下げているのは、同級生の男だ。名前は宮崎翔一。実習授業が一緒だった。女性にしては長身の私よりひとつぶん上。神経質そうだが、小綺麗に整っている。実家は確か、函館と言っていたか。私は釧路なので別方向だ。授業で一緒だった程度で他にあまり接点はない。サークルも入っていないみたいだし、合コンとかのハメを外すイベントにも興味はないようだった。


「えーっと、宮崎くん。私の弟が誰だか、知っている?」

「鮎川哲也さん。今季の全日本選手権二位。三月末パリ開催の世界選手権代表。指導者は元日本代表の堤昌親。得意なジャンプはトリプルアクセルで、苦手なジャンプはトリプルルッツ。プログラムの堤昌親作品はどれも好きだけど、俺が一等好きなのは今シーズンのリバーダンスで、あれは堤先生がシニアデビューでインパクトが欲しくて作ったものかな? 音感の良さを改めて認識できてめちゃくちゃ楽しいプログラムで」

「あー、わかったわかった!」


 聞いたのは私だが、適当なところで打ち切ってもらう。ほっとくと後三分ぐらいは平気で喋ってしまいそうだ。これは、ガチのスケオタだ。こういったやつが一番断りづらい。私に対する告白に見せかけての弟さんのサインくださいだったら、一昨日来やがれと言って速やかに終了させることができるし、テレビでたまたま見てカッコよかったからーというミーハーな女だったら腹の中ではあんたが見ているのは私の弟のツラだけかよと思いながら演技を見てからそう言ってくださいと突っぱねることができる。全部やってきたことだし。でも純粋なファンからだと、演技に対する賞賛やスケーターへの尊敬を感じるから厄介だ。しかもリバーダンスが好きと来たか。大体弟のプログラムで好きだときくのは、十五年の世界ジュニアで演じた「千と千尋の神隠し」だ。


「スケート、好きなんだね。宮崎くん」


 そう聞くと彼は少しはにかんだように頷いて説明をしてくれた。もともと運動は得意ではなく、特に冬に行われるスケートが大の苦手だった。北海道では冬の授業では必須だったから、苦痛で仕方がなかったと。でも、人が滑っているのを見るのは好きだ。スピードも勿論好きだけど、トリノ五輪で女子シングルの金メダリストの演技を見てから、フィギュアスケートが好きになった。それからはテレビで大会が行われるたびに試合をチェックしている……と。


 少し意外だった。彼は理系を絵に描いたような容貌の青年で、白衣とメガネがよく似合う。多少悪くいえば、冷酷そうな印象を持たせるのだ。スポーツなんて興味ないとも言いそうなのに、まさかスポーツで、それもフィギュアスケートでこんなに熱くなるなんて想像も出来なかった。そんなに目をキラキラさせないでくれ。

 だが。


「サイン貰ってどうするってのよ」


 有名人のサインが欲しい、と思うやつには二種類いるように思う。とにかく有名人から貰ったとアピールしたい自己顕示欲の強いやつ。ひたすら嬉しがって飾りたがるやつ。共通して一番怖いのは転売だ。新進気鋭のフィギュアスケーターのサインなんて、メルカリにでも出てしまえば物凄い金額に跳ね上がるだろう。最初貰って嬉しがっていたやつも、飽きてしまえばそこいらの紙と変わらなくなる。そうなった時に嫌な思いをするのは、弟だ。


「どうもしないよ。ただ、大事にする。鮎川選手には、サイン一つ以上の力があると思ううから」


 今までを思い出す。一番最初はどういうやつだったっけ? 弟が世界ジュニアで優勝した時だ。その時私は入学したばかりで、相手は経済学部三年の女だった。高校生ギャルをそのまま大学生にしたような感じの。なるべく嫌味な感じにならないように、丁重にお断りした。次は男だった。大学一年の夏。そいつは学校では有名なゲイの男だった。いや、別にゲイに偏見を持っているわけではないのだが、弟を明らかに性的な対象として見ていたので、潰すぞという言葉とともにお断りした。それからしばらくはなかったのだが、私が大学2年にあがり、弟がシニアに昇格すると少し増えた。好きです、つきあってくださいと伝えてくださいと言ってきた勘違い女もいれば、サインを利用してやろうというはなずもりの太い男もいた。私への告白だと言って別の女のためにくれと言ったやつもいたし、私に勝手に抱きついて君を抱きしめていると弟さんを抱きしめているみたいで興奮すると言ったキモい野郎もいやがった。振り返ると私も大概に酷い目にあっているもんだ。

 もちろん、全てことわってきたのだが。


「あー……、世界選手権が終わったら釧路に帰ってくるだろうから、その時にでも聞いてみるわ。でも、期待しないで」

「はい。ーーシーズンお疲れ様でした。ずっと応援していますと、伝えてください」


 少し重い言葉だ。頑張って、や、応援しています、が必ずしも選手の力になるとは限らない。その言葉がつらいときもあるのだ。

 でも。


「伝えとく」


 サインください、と言ってきてここまでの熱意を持った相手は、目の前の宮崎くんが初めてだった。何よりも彼は、哲也くん、とか、てっちゃん、と言わずに、鮎川選手といった。アイドルスケーターではなく、アスリートとして見ている。

 せめて最後のことばぐらいは、きちんと弟に伝えておこうと思った。一応、ラインのアカウントとメールアドレスを交換し、そこで別れようとした。

「あ、鮎川さん」

 背中を向けた私に、宮崎くんが声を投げてくる。まだ何かあるのだろうか。何? とゆっくり振り向く。肝心の彼は、戸惑った顔をしている。これからいう言葉をだしていいのか、考えあぐねているような。私はじっと彼の言葉のつづきを待つ。……待たなくてもいいのかもしれない。唇がわずかに動くだけで、声帯が震える気配がない。

「悪い。何でもない」

 呼び止めてすまない、と言って足早に彼は去っていった。……一体何だったんだろう。微妙にすっきりしない気持ちを抱えたまま、私は大学を出た。


 *


 アイカワという苗字は、相手の相に三本の川で相川がオーソドックスだろう。若鮎の鮎に三本の川で鮎川は、珍しいとは言わないけれど、少し馴染みがなくあれって思う人が多い。


 私自身、弟がフィギュアスケーターであると周りにべらべら話したことはあまりない。地元だと私たち姉弟は有名で結構な人が知っていたけど、それで嫌な思いをしたことがなかったし、話す必要性も感じなかった。


 大学進学のために札幌に入ると、さすがは都会色々な人がいるというか。ふたつの理由で何も言わなくても勝手にバレていった。ひとつは鮎川という湿った字面の苗字。もう一つは、顔立ちだ。


 私たち姉弟きょうだいは、血の濃さがわかるぐらい、よく似ている。癖のない黒髪も、少しシャープな顔立ちも、薄い唇の形も。例えば弟の顔を知っている人間が私の顔と名前を確認して、あれ? フィギュアスケーターの鮎川哲也さんに似てる? 苗字も同じだからひょっとしたら……っていう感じでしげしげと見つめてくる。そして、バレる、というパターンが一番多かった。


 弟、鮎川哲也。フィギュアスケーター。十五年全日本選手権二位。十六年世界選手権、日本代表。

 そして私。姉、鮎川美咲。元スピードスケーター。インターハイ出場。最高成績全国二位。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る