神乃ヶ原無双

「おめでとう。音無さんと破局したんだって?」


「…………」


 教室について席に座った途端、さっそくコレである。


 勿論、ニヤつきながら僕の前に立っているのは、あのとき男子トイレで話し掛けてきたヤツと、その取り巻きだ。


「どこでそんな話を?」


 湧き上がるイライラを顔に出さないように、努めて平坦な口調で僕は問い掛ける。


「もう結構な噂になってるぜぇ。フラれたお前が彼女のクラスに未練たらしく会いに行ったけど、一言も口きいてもらえなかったって」 


 ……なんだ。もう噂になってるのか。それより……声でかいな。わざとクラス中に聞こえるように言いやがって。


 周囲をちら、と見てみると、大半の男子はいい気味だという顔をしていて、女子は軽蔑が大半、チャンスだと期待するヤツが一部。


 どうやら……僕の味方はいないようだ。


 ……まぁ、こいつが言っていることは、事実その通りなんだよなぁ。


 わざわざ傷をほじくりに来たことは非常にムカつくが、ここで下手に弁解する気も、負け惜しみに音無さんをこき下ろす気も僕にはない。


「そうなんだよ恥ずかしい。あんまり人に言わないでくれよ?」


 面倒臭いから、敢えて大人な対応を取らせていただこう。


 コレでこいつが、自分のやっていることの大人気の無さに気づいて、恥ずかしくなってくれる程度には羞恥心を持ち合わせていてくれたら、良かったのだが――


「生憎もう色んなとこで言っちまったよ。みんなざまぁないって爆笑してたぜ」


 ――彼は鬼の首でも獲ったかのように得意顔になった。


 まぁ、そうなるよな。この間男子トイレで受けた屈辱がよっぽど腹に据えかねるものだったのだろう。


 だが僕はこの流れを予想していたからか、そんなに腹は立たなかった。


 このまま飽きてどっかに行くまで、時計の秒針でも見つめていよう。


「この次は一体どんなことしてくれんのか楽しみだわ!」


 繰り返そう。僕は彼の行動を予想していたから、そんなには腹を立てていなかった。


「空いた隣の席に座ろうって色んな女子がやってくるのかねぇ? そんで寂しくなったお前は明らかに元カノよりレベルの低い女を受け入れちまうのかねえ!」


 ――この瞬間までは。


「例えばいつもいっしょにいる幼馴染とかさ!」


「…………」


 ……あ?


「お、こっち見た」


 こいつ、今、何て言った。


「さっきも登校中慰められてたみたいじゃん。あんなとこで泣くなよ恥ずかしい」


 からっぽだった僕の中に、小さな火が灯った。その火は炎となり、僕の全身を焼き尽くさんと燃え広がった。


「あの女も現金だよな。今までお前が色々言われてる時は何も言わなかったのに、今回のことに触れるヤツと話したときは怒ってんだから」


 ……へえ。


「焦ったのかチャンスだと思ったのか、急に彼女面してんのマジウケるわ」


 どうやら僕の忍耐力より、こいつの煽りの方が少し、ほんの少しだけまさっていたようだ。


 ご褒美に少し相手をしてやろう。


「お前としては――」


「僕からも、いくつか聞きたいことがあるんだけど、いいかな?」


 コレ以上喋らせるのが癪だったので、僕はそいつの言葉を遮った。


「――何だよ」


「まず、キミは音無さんの隣の空いた席に座ろうと行動したの?」


「……してねえよ」


「どうして? あんなにタイミング見計らっていたのに」


「てめえに関係ねえだろ」


「今がチャンスだろ。寂しくなった彼女は、明らかに元カレよりレベルの低い男を受け入れてしまうかもしれないよ」


「殺すぞ。てめえ」


「無理だよ。この状況でもタイミングを見計らっているキミには。好きな人にアプローチするタイミングを見計らって、嫌いなヤツを殺すタイミングを見計らって、そうやってタイミングを見計らったまま全てを見逃すのさ。そしてその度に何の努力も行動もしなかった自分を棚に上げて、相手のせいにするんだ」


 ハッキリ言おう。


 僕はキレていた。完全にキレていた。


「……今日はよく喋るじゃねえか」


「諦めたからね。色々と」


 そう、諦めた。


 そして同時に、自分の中に生まれていた答えを受け入れた。


 抵抗を辞めた。


 我慢することを放棄した。


「へえ、諦めたのか」


 こいつらは……サルだ。一緒に生きて行こうと思っていたのが間違いだったんだ。


「そう、諦めたついでにもう一つ聞きたいんだ」


「……何だ」


「僕が気に入らないのは分かる。能力に差があり過ぎるからね。逆立ちしたって勝てない相手に対し、負けを認めない唯一の方法はそいつを受け入れないことしかない。それは分かるんだ。だから僕は遠巻きに見られることは仕方ないと思っていた。ただ分からないのは――」


 教室中が静まっていて、僕の声だけが聞こえる。さっき時計を見た限りじゃチャイムが鳴るまであと五分か。


 ……余裕だな。


「――何故、直接的な嫌がらせをしてきた? 僕とキミ達の運動神経に絶望的な開きがあるのは分かってるだろう? 彼我ひがの差を理解しているにも拘わらず、腹を立てた僕がキミを叩きのめすって事態は想像できなかったのか? 言ってみればコレまでキミ達は、僕が慈悲深く見逃してあげていたから、無事だっただけなんだ。その気になれば僕は、指一本触れさせずにキミ達全員を叩き伏せることができるんだけど。そう――」


 そこまで言った時だった。


 ようやくその気になった彼が、喋っている途中の僕に殴りかかってくる。


 それを完全に予想していた僕は、立ち上がりざまその拳をかわし、彼の顎の先端へと右手中指の拳頭をかすらせた。


 一ミリの狂いもなく、イメージ通りの軌跡を僕の右腕がはしる。


 カッ、と骨同士がぶつかる音が伝わる。


 さらに追い打ちで左フックを顎の先端へと。


 空振ったかとまごうような僅かな手応え。


「――こんな風にね」


 目の前の彼がべちゃっと尻餅を付く。完全に脳から四肢への伝達回路を断った。脳震盪で視界はグニャグニャだろう。


『キャアアアアアアアアッ!!』


 女子の悲鳴が響き渡る。遅ければ五分。早ければ後三分もしないで教師が来るだろう。


「いっそ……才能なんてなきゃよかったのかもなぁ……『天才の子なのに』って言われて、それでも才能なんかなくて、悔しいけどどうしようもないって、諦めることが許されるなら、どんなによかったか……!」


 僕は、そのまま倒れそうだったそいつの髪を掴んで、無理矢理起き上がらせる。


 そしてそのまま、こいつの後ろにいつもいた、取り巻き二人に視線をやりながら、掴んだそいつの目の前に指をかざし、少しずつ前に出していく。


 かかってこないならこいつの目を潰すぞ、と伝えるように。


「このやろぉぉぉ!!」


 それなりの友情はあったのか、僕が許せないだけなのか、まぁどうでもいい。サルの情になど興味がない。


 結構でかいな。しかも両腕を伸ばして僕の襟を取りに来ている。


 ……柔道かな?


「ん」


 僕は髪を掴んでいたそいつを、柔道くんの足元に放り投げた。


「おわっ!」


 駆けていたその足元に転がってきたそいつを避けようと、彼はつんのめる。視線も下を向く。


 その瞬間を見逃さず、僕は顎を打ち抜いた。


 カッ! と小気味いい音が、またも骨を伝わって鼓膜に届く。


「……っ」


 向かって来ていたそのままの慣性で、彼の身体がこちらに来る。前足に体重を移動させて。


 つまり、既に『崩し』が成立している状態だ。


「できちまうんだよ! 何もかも!」


 そのまま僕は背負い投げを喰らわせた。


「大した努力もしてないのに、ウン十年やってました、幼稚園の頃からやってましたって連中に勝てちまうんだよ! 全然面白くなんかない!」


 頭から落とさないように注意はしたが、死んだところで別にいいと思っていた。


「負けて悔しそうな顔されるだけ迷惑なんだよ! 僕が悪いのか!? お前らが僕に追いつけないのが悪いんだろ! 何、自分が弱いのを人のせいにしてるんだよ!」


 倒れた柔道くんの腹に足を乗せながら、僕は残る一人に向けて叫んだ。


「なんで才能があるのにやる気ないんだって? つまらないからだよ。好きになったら楽だろうにって? 相手がぶつぶつ言い訳しながらイチ抜けしていっちまうのに好きになれるか……! 馬鹿なんじゃないのか、みんな!」


 そう叫びながら、未だ逡巡しているそいつに飛び掛かり、顎に膝をブチ当てる。


「才能があってずるい!? 天才には凡人の気持ちなんて分からない!? じゃあお前らに僕の気持ちが分かるのか!! 才能の無さを理由に降りることができるヤツらに、次は、次はって勝手に期待されて、クソ面白くもないものを続けなきゃならない僕の気持ちが! 分かるのかよ!!」


 瞬く間に三人を叩きのめした僕は、湧き上がる情動を抑え切れずにただ見ていることしかできないクラスの連中に向けて叫んだ。


「……ああ……スッキリした。もっと早くこうすれば良かった」


 嘘だ。


 大嘘だ。


 全然心が晴れあがることなんてなかった。


 もう取り返しがつかないことをしてしまったという事実に、涙が出そうだった。


「他にも文句のあるヤツはかかってきていいよ。指一本触れさせずに叩きのめすから」


『…………』


 誰も何も言わない。


「こんなもんで引っ込んじまうんなら……最初から喚くなよ。迷惑だ!」


 僕がそう言ったその時、ようやく教師達が教室に入ってきた。


「神乃ヶ原……お前」


「すみません先生……どうしても我慢できずにやってしまいました。でも三人共怪我はしてないと思います」


 最後のヤツはしばらく痛みが残るかもしれないけど、と心の中で僕はそう足した。


「……指導室に行くぞ」


「はい。あ、でも僕はもう明日から学校には来ません」


「何!?」


 先生が焦った顔でこちらを見る。


「あ、大丈夫です。先生に迷惑が掛かったりペナルティが課されるようなことは言いませんから」


「……理由は?」


 それは指導室で話すことだろ、と思いつつも僕は答えることにした。


「もう必要がないからです。サルと同じ教育を受けてても時間の無駄ですし、だったらその間、自分に何が出来るか他所で探した方が有意義です」


「お前……」


「本気で言ってます。実際この学校で僕より頭いい人はいないし、身体能力が高いヤツもいません」


 教師も含めてな――、と思ったが余計な軋轢を生んでも仕方がないので口には出さなかった。


「それを証明する為にも学校に――」


「却下です。あ、じゃあテストの時だけ保健室登校しますよ。それで学年一位を取り続けます。二位以下だったら学校来ます。ね? それでいいでしょ?」


「そ、そんな勝手が……」


「先生の一存では無理でしょう。なので、教頭と校長を連れて指導室に来て下さい。あ、あと申し訳ないんですけど、僕の両親を呼んで下さい。先に指導室で待っています」


 そう言って僕は歩き出した。


 教室を出る間際に、漫画家を目指していた、あのときの彼と目が合った。


「キミの言ってることが正しかったね……住む世界が違ったんだ」


「…………」


 無性に悲しかった。言う必要のない恨み言を言ってしまった。自分を抑えられなかった。


 廊下には音無さんがいた。


 ここでも僕は自分を抑えられなかった。


「ウソツキ」


 目も合わせずにそう告げ、歩を進める。


 早くこうすればよかったとは、今でも思う。


 でも、少しもスッキリなんてしなかった。




◆◆◆◆




 両親も呼んだ上での話し合いの結果、コレだけ僕が自分の意志を主張することは初めてだったせいもあり、父さんも母さんも特に反対しなかった。


 教師達は狼狽していたが、なし崩し的に僕の要望が通ることとなった。


 父さんは苦笑い。


 母さんはどこか嬉しそうですらあった。


 でも、二人共何も言わなかったけど、僕の表情から何かを察したのだろう。


 帰りのタクシーの中で、僕を抱き締めてくれた。


「……っ……!」


 そのまま泣いてしまった僕を慰める為に、母さんは僕の好物を作ってくれたし、父さんは『次の誕生日は楽しみにしていろ』と笑ってくれた。

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