窓辺 第5話
予定よりも遅くなった健康診断に行く頃には母親がなぜ悲鳴を上げたのかは屋敷中に伝わっていた。
侍女たちは噂好きなのだ。
どうやら医者の息子が挨拶を終え、握手をするとき、手の中に虫の死骸を握っていたそうだ。
医者は職を失うどころか、命まで失うのではと顔を青ざめさせていたが、母親はこの男ほど優秀な医者は居ないと思っていたので、怒り心頭に発してはいたが医者を許した。
ただ、その息子も将来専属医にするという話は白紙に戻ってしまう。
当の息子は驚異的な逃げ足を見せ、追っ手を振り切り姿を眩ませていた。
健康診断でどこにも異常は無く至って健康体だと伝えられた後もシャーロックは勉強に追われた。だだっ広いダイニングルームで一人きりで昼食を摂る。
天使の描かれた高い天井には特大のシャンデリアが下がり、精巧にカットされたラピスが内側から光を放っていた。
天井まで続く大きな窓からはたっぷりと光が入り、開かれた深緑のカーテンのヒダが作り出した陰影を更に濃くさせている。
二十人は余裕で座ることの出来る長い机に腰掛けるシャーロックの元に、食べ切れない程大量の食事が順に運ばれて来ていた。
昼食を終えると、束の間の休憩を部屋で何をして過ごそうか考えながら歩く。
一階のダイニングルームを出ると長い長い廊下。
敷き詰められた濃緑の絨毯はシャーロックの足音を消す。両脇に飾ってある絵画や生花が廊下に彩りを与えていた。
新しく買ってもらった本は読んでしまったし、ひとりチェスはもうこれ以上違う手が思いつかない。
とりあえず育てているベランダの花々に水をやってから考えようと思いながら階段を昇りきると、自室のドアをひねった。
暖炉と机を通り過ぎて窓まで行き、窓を開ける。そこは常日頃見ているベランダとは少し違っていた。なぜなら、並ぶ植木鉢の中に少年が隠れるように座って居たのだ。
「うゎ、、‼︎」
叫ぼうとしたシャーロックの口を少年が押さえ込む。
「静かにせぇ、人が来るやろ」
少年が囁く。
シャーロックは了解の意を込めて首を縦に振る。その動きに、少年は意味を察して手を離した。
「君、さっきの、」
シャーロックは少年の顔を見て言った。
「おん、目ぇあったやろ。俺はイーサン、よろしゅうな」
少年はそう言うと緑色の瞳を輝かせながら握手しようと右手を差し出す。
「あ、僕はシャーロックです、よろしくお願いします」
シャーロックは戸惑いながらも律儀に差し出された右手を握る。
「うわぁ‼︎」
シャーロックは手に伝わるカサカサとした感触に悲鳴をあげた。
「ハッハッハ‼︎コイツ引っかかりおった!」
イーサンは手を叩いて大笑いする。
シャーロックは少年をまじまじと見つめた。
大口を開けて笑う人間など生まれてこの方見たことが無かったのだ。ヒーヒー言いながら笑い転げる少年にシャーロックもつられて笑顔になる。
「ふふ、ふふふっ」
笑うシャーロックを見てイーサンは怪訝そうな表情を浮かべると、
「なんや、貴族の坊ちゃんのくせに泣いたりせぇへんのかい、お前の母ちゃんはびっくりして腰抜かしとったで」
そう意外そうに言った。
「カァチャン?なんですかそれは?」
シャーロックは聞いたことの無い単語に首を傾げる。
「母ちゃんはお前の母親のことや、そんなんも知らんの?」
イーサンが小馬鹿にしたように言う。
「そうだ!お母様を驚かせたのは貴方でしたね!皆さん探してましたよ」
シャーロックが思い出したように言った。
「そら探すやろ、貴族様を驚かせたんやから殺されても文句は言えんわ、ハッハ」
イーサンは愉快そうに笑う。
「殺されるって、そんな物騒な事をお母様はしませんよ、悪いことをしたならちゃんと反省して怒られないと」
シャーロックが真剣に言う。
「何言うてんねん、自ら怒られに行く奴がどこにおんねん」
「え、でも、ちゃんと怒られて反省しないとダメな大人になってしまうって、」
イーサンの言葉にシャーロックは動揺したように言った。
「何やそれ、ダメって何基準のダメやねん。自分の好きなこと見つけて、それを行動にうつせるなんてそれだけで凄いことやろ?
それやっただけでダメな大人になるって言われてもなぁ、
俺は俺の好きなことやって、俺がカッコいいと思ってる奴みたいになりたい、
シャーロックも一番好きなことやればええやん、メッチャ楽しいで!
その代わりメッチャ怒られるけどな」
イーサンは笑って言う。
「僕の一番好きなこと?」
シャーロックが呟く。
「せや、鬼ごっことか、かくれんぼとか、この家メッチャ広いからどっちも楽しそうやなぁ
俺はイタズラが好きやで、びっくりして驚いた顔もおもろいし、その後怒る奴とか、泣く奴とか、笑う奴とか、反応がそれぞれ違って飽きへんねん」
イーサンが楽しそうに言う。
「オニゴッコ?って何ですか?」
シャーロックが困惑顔で聞いた。
「ええ⁉︎シャーロック鬼ごっこ知らんの!」
イーサンが驚く。
「はい、チェスとかで遊んだことはありますけど、」
シャーロックが言う。
「そんなん大人が楽しいやつやん、鬼ごっこはそんなんとちゃうくてな、、」
イーサンが言いかけた時、廊下から足音が聞こえて来た。
シャーロックが部屋の時計を見るといつの間にか休憩時間が終わろうとしていた。
「いけない、もうすぐピアノの時間だ。ごめんなさいイーサンさん、もう行かないと。
貴方のことは誰にも言いませんから、」
シャーロックはそう言って立ち上がると急いで窓とカーテンを閉めた。
イーサンは揺れるカーテンを見つめながら
「変な奴やなぁ」
と楽しそうに呟いた。
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