物静かな火
蒲鉾の板を表札にする
第1話 現代魔女、普通に暮らす
なぜ、猫は創作の中でよく殺されるのだろうか。狂った天才少年は、どうして、いつも猫を実験に使うのか。犬ではなく、猫を。犬ならいいというわけではない。どうして猫なのだろう。
日本には古くから伝わる「黒猫が横切ると縁起が悪い」という忌まわしくもポピュラーな迷信がある。これにはじまり、長生きの猫は尾が別れて「猫又」になるだの、他人の男を横取りした「泥棒猫」だのと、その悪名高さはアダムとイヴを唆した蛇と並ぶ。干支や星座で丸くなっている猫を見たことがあるか。最悪なことに中世ヨーロッパでの猫は「死を司る」とまでいわれている。生物はいずれ死ぬ運命なのだから、誰にも司ることなんてできないのに。
それに比べて、「おおいぬ座」って何よ。セントバーナードのことか。大きくなくたっていいから、こねこ座も入れて頂戴。そして、化け猫の扱いに対して「狛犬」が祀られていることについても私は一生、左方向に首を傾げ続けます。
ただし例外もあって、商売繁盛の縁起物として「招き猫」なんてものもある。そうよ、もっと崇めなさい。あんなにかわいい生き物、他にはいないのに。ネズミを捕まえるという人間の役に立つ習性だってあるじゃない。
現実はいつだって私たちに厳しい。エグすぎて、映画とかアニメとか、創作物すら見る気にならない。だが、なんと猫は、かなり遠目で見ても、視界いっぱいに拡大しても全く飽きがこないのである。
六十年前まで黒い猫を飼っていた。彼女はオリーブといった。オリーブは非常に賢く、クールな女だったから、よく気が合った。近所の若造に「黒猫は縁起が悪い」といわれたことがあったが、彼女が歩けば、その道には赤いリコリスが咲いた。艶めいた黒によく似合う真っ赤だった。
三十五歳の誕生日の朝、暖炉の前にいる彼女に声をかけたら「そろそろ行くわね」と言ってどこかへ出て行ったきり、帰ってこなくなった。
二十年前には茶色い猫を飼っていた。彼女はペコロスといった。彼女は仕事仲間から譲り受けた子だった。お母様のチポラさんには「この子はすぐに色々な場所に隠れてしまうから見失わないように気をつけてください」と言われた。たしかに、ペコは隠れん坊が得意だった。でも、正午になると決まって台所にある棚の二段目にいた。あの子は黄色い鍋が好きだった。
三十二歳の正午、あの子は、そこに居なかった。その日から、私の目では見つけられない所まで隠れてしまったようだった。
いまは白い猫を飼っている。彼女にはウルダと名付けた。初めて会ったのは、街に新しくできたパン屋の前だった。そのとき、私は外から、店内に並ぶ山型食パンをじっと吟味していた。そして、彼女もまた、そこに訪れるお客の中から主人候補をじっと吟味していた。パンを買って、店から出たとき、「あなたのが、一番きれいに焼けていたわね」と下から声をかけられた。どうやら、彼女の主人に合格したらしかった。「あなたが私の名前を選んで」と言うから初めて猫に名前をあげた。
私自身も週に何度かパンを焼く。なので、そのたびに彼女は「あなたを選んでよかった」と言った。朝に焼いたパンを入れて置くためのバスケットが、夕飯のあとに空になるとそこが彼女の席になった。
オリーブやペコのことを考えると、彼女はあと十五年後くらいの夕方、私の前から姿を消すのだと思う。
魔女に飼われるのは嫌じゃないかと聞くと、彼女たちは決まって「人間はつまらないから」と言った。同意はしかねるけれど、人間に飼われている街の猫たちは皆、いつも寝てばかりいた。それが不思議なくらい、うちの猫たちはよく働いた。
ウルダはまだ若いが早起きの得意な働き者だし、ペコは遊びながらも呼べばいつだって私に手を貸した。特に、オリーブは術が上手く掛からないときに「落ち着いて、もう一度最初から、ゆっくり唱えるのよ」と精神のケアまでしてくれた。
朝は、大体四時に起きて、庭のハーブを摘みに行く。朝のうちにやってしまわないと、奴らは無限に生えて、私たちの居住空間まで飲み込もうとするから。どんなに寒い朝も早起きは欠かせない。オリーブとペコは朝が苦手だったから、収穫はいつもひとりで行った。だが、ウルダは私を起こしてくれるくらい早起きの達人だった。だから、ここ十五年くらいは、ふたりだから二十分ほど時間の短縮ができた。
そこから、六時半くらいまでは薬用のハーブを顧客の要望、または容体に合わせて調合する。四十年くらい前だと、惚れ薬の注文が多かったのだが、最近は自然に恋に落ちるのがブームなのか、あまり作らなくなった。
惚れ薬を作るにはお客様のまつ毛一本が必要不可欠だった。だから、店頭で注文を受ける際には「まつ毛を一本頂戴いたしますが、よろしいですか」と確認する。お客様は気合と覚悟に満ちているため、大抵二本でも三本でも!という感じだった。そして、まつ毛をピンセットで抜かせていただく。だが、私は、それがどうにも苦手だった。毎回、彼ら彼女らは気合の割に「痛っ!」と叫ぶし、抜く前からすでに痛そうな顔をする人も多かった。
いくら働き者でも、猫にまつ毛は抜けない。しかし、私も痛がる人間を見る趣味はない。だから、そう簡単に人の心を飲み薬なんかで操れるわけがなかろう、このくらいの痛みは安いと思え!と心を鬼にする。たまに、カウントダウンをご希望のお客様もいらっしゃるのだが、そんなもの、恐怖心が高まるだけではないだろうか。だから、勝手に「3.2.1」の2で抜いてしまう。そんな惚れ薬は、他店との差別化を図りたくて、薬自体をある程度美味しく作っているため、うちの一押し薬品だった。
また、医薬品はいつの時代だってよく売れた。まあ、人間は早いうちに老衰していく種族だから、悲しいかな惚れ薬(もちろん医薬部外品)を買っていたお客様もすぐに内臓の調子を整える医薬品を求めるようになった。
そういえば、三十年前に杖をついたご婦人と彼女を支える紳士の美しいカップルが来店されたことがあった。そのとき、ご婦人がこっそりと「あのとき、ここのお薬で捕まえた人です」と教えてくれた。目頭が熱くなった。魔女商売をやっていて、こんなに嬉しいことはない。できるだけ、ポジティブな方向に自分の知識や術が役立っていることが嬉しかったのだ。
反対に年に何度も意中の方が変わり、そのたびに薬を買いに来てくださったお客様もいた。六年くらい前、その方がうちに通い始めて二年経った頃の夏。ああ、ややこしい。だから、今から四年くらい前かな。もう惚れ薬をお求めの方は珍しく、特に印象深かった。
つい気になって「今のお薬が意中の方に効かないようであれば、調合をいくつか試して新しくお作りいたしましょうか」とお尋ねした。
すると、彼は「それよりも、人間の女性をすぐに愛すことができる薬はありませんか」と言った。ある。それが惚れ薬なのだから。しかし、どうにも気になる言い回しだった。「人間をすぐに愛すことができる」とは、一体どういうことか。聞くと、彼は魔法を使うことを辞めた、元魔法使いだった。
朝十時に来店された元魔法使いの彼は「夜、また来ます」と言って何も買わずに店を出た。
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