錯覚。

はちこ

第1話

 停電で地下鉄が止まった。ざわつく車内で、一人笑った。私は、もう愛されてなどいないのだ。分かっていた、知っていた。気付かないふりをしてただけ。馬鹿な私、馬鹿で可哀想な私。彼に会いに行き、会うことも、電話に出てもらうことさえ出来ず、2時間、近くのカフェで粘ったけど、結局終電の時間。そうして飛び乗った地下鉄が停電で止まった。


 私には何もなかった。何もない私を好きだと言ってくれた彼。彼の存在が自分の存在価値になった。今になって思えば、彼を好きだったのではないのかもしれない。好意を寄せてもらえる自分を誇らしく思っていた。ただ、それだけ。


 恋人同士がしそうなことは、全てしてみた。水族館でデート。素敵なレストランで食事。映画を見て、オシャレなカフェに立ち寄る。クリスマスにはイルミネーションを見ながら、手を繋いで歩く。誕生日にはディズニーランドにも行った。幸せそうな恋人同士を演じるのは心地良かった。


 演じていくうち、彼がくれる幸せを、当然と思うようになっていった。誰かに想われている自分。今まで持てなかった自信を手にして、いい気になっていた。


 そんな私から彼の気持ちが離れていくのに、時間はかからなかった。


「私と、仕事、どっちが大事なの?」


 何かの小説か、ドラマで目にした、ありふれた、そして答えなど出ない、くだらない質問を何度も彼に投げかけた。勝手に旅行を予約して、行けないと言う彼に対し、


「もう、私のこと好きじゃないんだね!」


と言い放ち、一人でも旅行に行った。惨めだった。惨めなうえに、相手を試すようなことばかり繰り返した。彼に否定して欲しかった。私はまだ愛されていると、思いたかった。


 しつこくメールもした。返事など来るはずもないのに、更新ボタンを何度も押しては、ため息をついた。私は愛されていると、信じたかった。愛されている証拠が欲しくて、何度も彼の気持ちを試すような、ひどい言葉を綴った。そんな私の言葉、行動の全てが更に彼を遠ざけていることにも気付けなかった。


 私は愛されることだけ、欲しがった。彼の都合や状況を想像することが出来なかった。愛されて、幸せな恋人同士を演じることに精一杯で。自分の本当の気持ちも、彼の気持ちを知ろうともしなかった。


 あの夜、停車した地下鉄の中で、急に冷静になった。彼はもう私を愛してなどいないし、見てもいない。それを認めたら自分の価値も消えてしまう。避けてきた現実が目の前に突き付けられた。現実を認識したら、自分が馬鹿すぎて、笑うしかなかった。そして、涙が出た。


  最初からそこに愛などなくて、愛があると錯覚した、自分の気持ちさえ見失った私がいるだけだった。ただ、それだけのことだった。

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