ザ・パーフェクトモーニング

涼宮紗門

第1話

 「朝食に関するあるデータによると、関西人はパン、関東人は米が多いそうだ。だが、そんな議論は全く的外れだ」


 俺が、初めて――――というか久しぶりに、東雲瑠々葉しののめるるはの家に行ったその日。

 俺が食卓につくなり、東雲はそういって話始めた。


「パンだろうと、米だろうと、大切なのは、朝に炭水化物を食べるという行為そのものにある。朝ブドウ糖を摂取しなければ、脳がエネルギー不足となり、集中力、記憶力に影響を及ぼす。将来を決める時期にある高校3年生にとって、朝食を抜くのは無論論外だ」


「そ……そうだな。全くその通りだ」


 久しぶりの「東雲瑠々葉」に圧倒されていると、「ところで」と、東雲は俺を見た。

「お前の母が、朝、和食派だったことは、お前の父から聞いている。しかし、だ。その昔、私の母が味噌汁を作っていたことを見たことはあるが、味噌の調合というのは非常に困難を極める。しかも分量を計らない。赤味噌と白味噌の配合は、まさに職人技だ」

 つまり、と東雲は、腕組みをしながら、細い顎を少し持ち上げた。

「いかに効率的に朝食を作るにはどちらがいいかと考えた結果、洋食スタイルに至ったわけだ」


 ―――― だが、俺は知っている。

 東雲が、毎日、昼の購買のパンを買っていることを。


「お前……単にパンが好きなんだろ」


 図星であるのは間違いないだろうが、東雲は表情一つ変えず、「私は日本の米離れを危惧している」と、的外れ過ぎないのか何なのかよく分からない返事を寄越した。


「これってばあちゃんちのか?」

 小さなアカシアの器に入ったサラダを指さすと、「そうだ」と東雲は頷いた。

「きゅうり、ミニトマト、ベビーリーフ。昨日祖母が収穫したものだ」


 東雲の両親は、東雲が中学生になったときから、アメリカの大学で研究員として働いている。そして、ここから百メートルほど離れた場所に、保護者代わりの祖母が一人で暮らしているのだ。


「サラダってトマトがあると美味そうに見えるよなあ」

「赤い色を見ると人間は副交感神経が刺激されて食欲がわき、胃腸の働きが活発になるそうだ。屋台の提灯も赤色をしているだろう。それと同じだ」

「へえ。だから赤いのか」

「言っておくが、闘牛は赤い色に興奮しているわけではなく、布の動きに興奮しているだけだ。猿人類以外の哺乳類は赤色を識別できないからな」

「何で闘牛の話になるんだ」

「お前はきっと勘違いしているだろうと思ったからだ」


 図星だったので、俺は話題を変えることにした。


「コーヒーじゃないんだな」

 サラダの隣には、グラスに入った牛乳が置いてある。

「牛乳は、まだ草が食べられない子牛のために、母牛が血液をもとに作っている。必要な栄養素が全て入っている、まさに完全栄養食だ。飲まない手はない」

 フン、と東雲は、口の端を持ち上げて笑った。


 1言えば、10返ってくるのは昔からだ。


 小学生のときから「神童」と呼ばれていた東雲だが、高校3年生となった今では、学園トップの頭脳明晰ぶりに留まらず、長い黒髪に細い手足という容姿までもが類まれなるものとなり、もはや「女王」と異名がつくほどにまでなっている。


「お前って色んなこと知ってるよな」

「すべては本に書いてあることだ」

 当たり前のように言うと、「お前は私に何か教えられることはないのか」と逆に問われた。

 うーん、と斜め上を見上げ、俺はなんとか脳の残りカスを絞り出した。


「……アイスには賞味期限がない、とか」


「この場合は、食品衛生法で賞味期限の記載を省略していいことになっている、というほうが正しい」

「俺よりも深いこと言うなよ」

「知識は正しいからこそ意味がある」

 俺が東雲に勝てることは、足の速さくらいしかないことを思い出す。俺はまた話題を変えた。 


「何でこの皿は空いてるんだ」

 新しいランチョンマットには、サラダと牛乳のほかに、何も載っていない白い皿が2枚置いてある。

「メインディッシュは作り立てが旨いに決まっている」

「メインディッシュ?」

「朝の洋食といえば、オムレツに決まっているだろう」

 向かいに座っていた東雲はそこで席を立ち、カウンターキッチンの裏に回った。


 どれどれ、と俺もキッチンの前に立つ。リビングもダイニングも物が少ないが、キッチンも小ざっぱりと整頓されている。


 東雲の動きは無駄がなかった。


 卵を片手で3つ割り、ボールに入れて、カシャカシャと泡だて器で溶きほぐす。そこに塩コショウを加え、さらに混ぜる。

「こうして濾すと滑らかになる。あとは焼くときにバターを焦がさないことだ」

 出来上がった卵液をザルで濾しながら、東雲はいった。

「それは?」

 コンロの上にもう一つフライパンを乗せた東雲は、「ウインナーだ。朝食には欠かせない」といい、火をつけた。

「ポイントは特にない。ウインナーは誰がどうやっても旨いからな」


 俺はふと思いつき、携帯をポケットから出した。「ウインナー 雑学」で検索する。


「ちなみに明日はベーコンだ。日替わりにする。ベーコンのほうが焼くのが難しい」

「東雲。ウインナーとフランクフルトソーセージの違いは?」

「太さ2センチ未満がウインナー、2センチ以上3.6センチ未満のものがフランクフルトソーセージだ」

 卵液をフライパンに流し入れながら、東雲は澱みなく答えた。

「何でそんなこと知ってんだよ」

「常識だ。ちなみに3.6センチ以上はボロニアソーセージと呼ぶ」

 呆れるよりも戦意喪失し、俺はただ、目に留まった食パンを指さした。


「それは?」

「これか?食パンだ」

「俺でもそれくらいわかる」

「パンには表面に切れ込みを入れて、バターを塗ってある。トースターも予熱済みだ」

「焼く前に塗るのか?」

「焼いた後にもう一度塗る。追いバターというやつだ」

 フン、と東雲は鼻で笑い、俺に「そろそろ席につけ」と命じた。

 

 おとなしく席についた俺は、ただよってくる数々の香ばしい匂いに、思わず鼻をひくつかせた。


「おお~!」

 目の前に置かれたトーストに、俺は目を輝かせた。全体的に見事な焼き色に、バターが染み込んでいるビジュアルは完璧だ。


 キッチンに戻った東雲が、今度は銀色のフライパンを持ってやって来る。


「おお!」

 白い皿に、つるりと落ちるように黄色いオムレツが載せられた。何のざらつきもない、つやつやとした表面は、まるで宝石のようだ。


「これが私の‘パーフェクトモーニング’だ」


「すげえ!サンキュー!いただきます!」

 お礼もそこそこに、俺は両端に置かれたナイフとフォークを手に取り、早速、オムレツにナイフを入れた。

 ぷつ、と滑らかな表面が割れ、中から半熟の卵が少しあふれる。フォークから落ちそうになりながら、俺はオムレツを口に放り込んだ。途端に、ジューシーともいえる卵の旨味が口いっぱいに広がる。もちろん、こんなオムレツを食べたのは初めてだった。


「うめえ……!」


 トーストにかぶりつけば、ジュワッと音が鳴り、噛みしめるごとに、バターの香ばしさがたまらない。バターのためにパンがあるのか、パンのためにバターがあるのか。とにかく2つの美味しさが一体となって混ざり合い、口の中を幸福へと導く。


「めっちゃうめえ!」

「当たり前だ。この私をだれだと思っている」

 東雲は、満足そうに、フン、と笑った。

 

 

―――― 母が亡くなったのは2年前。高校1年生の夏だった。

 


 長くガンを患い、最期は自宅で過ごした。

 何が正解だったのか今も分からないが、最後まで感謝を伝えられ、看取れたことは間違いなく幸運だったと思う。

 葬式には、東雲と、東雲の祖母も来てくれた。

 

 それから、確か3か月が過ぎた頃だった。


 父の仕事が変わり、忙しくてあまり家に帰らなくなったことを、誰かから聞いたのかもしれない。

 

 夏が終わろうとしている、少し肌寒い秋の夕暮れだった。

 

 家でゲームをしていた俺は、ピンポン、と鳴ったチャイムに、宅配便かと思ってスウェット姿で玄関の扉を開けた。

 

 東雲は、昔から白い服か黒い服しか着ない。「白黒はっきりつけられるのは、自分の服くらいしかない」というのが昔からの口癖だった。

 

 ドアを開けると、そこには久しぶりに見る制服姿ではない東雲が立っていた。黒いダッフルコートの前をきっちり閉めている。


「明日から朝ご飯をうちで食べないか」

 

 挨拶も、「久しぶり」もなく、俺の顔を見るなり、東雲は表情を動かさずにいった。

 

 突然の訪問に、ドアを開けたままの体勢で、俺はただ驚き、久しぶりに真っすぐ東雲の顔を見た。

 

 東雲の家は、隣だ。


 小学校3年生くらいまでは公園で遊んだりもしたが、ほどなくして東雲が毎日図書館に通うようになってからはそれもなくなった。

 「いずれアメリカに留学するから学校は近場でいい」といっていた東雲とは、中学校も高校も同じだった。会えば「おう」と挨拶するし、たまに学校の行事で同じ係になったりしたが、小さな公園で、同じボールを追いかけていた頃とは全く違う距離感だった。

 

 それなのに、だ。

 

 眉の上で切りそろえられた黒髪も、意思の強い大きな瞳も、尖った鼻先も、小学生の頃から変わらない。だが、明らかに昔とは違う。

 

 俺は、東雲からなんとなく目を逸らした。


「……何で朝ご飯なんだよ」

「食事を作る、ということにおいて、一人分も二人分も変わらないからだ」

 まったく答えになかったが、「何か不都合があるか」と聞かれ、俺は言葉に詰まった。

「いや……そりゃあありがたいけどよ……あんまりよくないだろ……」

「何がだ」

「お前一人暮らしみたいなもんだろ。そんなとこに俺が行くってのは……」

「下心があるのか?」

 そんなことを正面から聞かれて「ない」以外の選択肢はない。

 いや、実際に1ミリもなかったので、俺は「ないです」とハッキリと答えた。

「なら問題ないだろう。うちの両親も、昔から知っているお前のことは信用している。許可は得ている。無論、お前の父親にも話をする」

「いや、だけどよ、」

「それに私は空手有段者だ。そうなっても多分、死ぬのはお前だ」

 フン、と笑みを浮かべる東雲には、確かに1ミリも隙は生まれない気がする。

「じゃあ……お、お邪魔します」

「明日、7時15分にうちへ来い」

 それだけ言うと、東雲は踵を返した。

 

 薄暗くなった夕闇に、東雲の姿はすぐに消えた。

 

 あれは夢かとも思い、しかし行かねばとんでもないことになる予感もした俺は、次の日の朝7時15分、おそるおそる「東雲」の表札の横にある呼び鈴を鳴らした。

「お、おはようございま、」

『さっさと上がれ』

 促され、俺は、東雲の家の玄関を久しぶりに開けた。

 前に開けたのは、もう思い出せないくらい昔のことなのに、どこか懐かい匂いがした。

 


 ―――― あれから、もう2年か。



 月曜日から金曜日までの、朝7時15分から7時45分までの30分間。

 2年たった今は、前のように台所に立って、東雲が食事の準備をする様子を見なくなった。携帯をいじるときもあれば、学校の他愛のない話をすることもある。

 なんでもない30分間だが、今もどこかであり得ない30分間だと思っていた。


「なあ」

「何だ」

 カウンターキッチンの中で、東雲は顔を上げず答える。

「行くとこって、どんなとこなんだ?」

「何の話だ」

「明日」

「まあ、だいたい北海道と九州を合わせたほどの大きさだな」

 もうすっかり手慣れた手つきでフライパンを揺すりながら、東雲は答えた。

「そうじゃなくて何かあんだろ。観光地とか」

「さあな。両親がいるコロンビア大学くらいしか知らない」

「タイムズスクエアとか」

「それは知っているが、どんなところかは知らない」

「あそこ行きたーいここ行きたーい、みたいなの全然ねえんだなお前……」


「’Custom makes all things easy.’」


「何だそれ…」

「ただ知ることに意味はない。習うより慣れろ、だ」


 いつもと変わらない動作で、東雲は銀色のフライパンを持ってくると、黄色いオムレツを目の前の白い皿に滑らせた。

 

「最後のパーフェクトモーニングだな」


 ケチャップを持ってきた東雲は、特に感慨深い様子もなくいった。


 目の前にある食卓。

 バタートーストに、黄色いオムレツに、ソーセージ。ミニトマトが入ったサラダに、1杯の牛乳。


「どうした。食べないのか」

 それらをじっと見つめたまま、ナイフとフォークを手にしない俺に、東雲が不思議そうに訊ねた。

「具合でも悪いのか」

「いや……」

「パーフェクトモーニングのレシピが必要なら渡すぞ」

 向かいの席に座り、こともなげに東雲はいう。


 日常でもあり特別でもあった30分間は、今日で終わりを告げる。


 明日の夕方、東雲はアメリカの両親の元へ行く。

 留学し、そのまま向こうの大学へ通うことになったのだ。

 

 この朝食は、今日が食べ納め。

 

 俺は、心を込めて、力強く手を合わせた。


 「いただきます」


 俺は、オムレツにナイフを入れた。ぷつ、と滑らかな表面が割れ、中から半熟の卵が少しあふれる。フォークから落ちそうになりながら、俺はオムレツを口に放り込んだ。途端に――――


「…………ん?」


「?どうした」


 動きを止めた俺に気が付き、東雲が訊ねる。


「いや……ん?」


 ん?と何度も首を捻りながら、俺はオムレツを咀嚼する。

 そう、今食べたのはパーフェクトモーニングの主役、いつものオムレツのはずだ。


「どうしたんだ」


「…………しょっぱい」


 俺がそういうと、「何だと?」と東雲の表情が険しくなる。「馬鹿なことを言うな」

「いや、だってほんとに……」


 言い募ろうとした俺は、鼻をつく臭いに気が付いた。


「なんか……焦げ臭くねえ?」

 はっとしたように、東雲が席を立つ。そんな姿を見るのは初めてだった。


「お前、もしかしてパン焦がしたのか?」

「……正確には、パンをトースターから出すのを忘れていたというほうが正しい」


 キッチンカウンターから、いつもとはどこか違う東雲の声が聞こえる。


 そこで、俺はようやく気が付いた。


 そこにあるのは、完璧な朝食ではなかった。


 よく見れば、ミニトマトには土がついたままだし、いつも焼き色がついているウインナーは、恐らく焼くのを忘れている。


 俺は、席を立った。


 カウンターキッチンの中で、トースターの前に立つ東雲は、こちらに背を向けている。


「お前……もしかして、緊張してんのか」

 

 俺の言葉に、「ハッ」と笑いながら東雲が振り返った。

「まさか。馬鹿なことを言うな。この私が!この東雲瑠々葉が!そんなわけないだろう」

「なんでどっかの敵キャラみてえな口調になってんだよ。絶対緊張してんだろ」

「していないと言っているだろう」

「わかったよ。まあいいから、ちょっとそこ座っとけ」


 何だ、と訝る東雲をキッチンカウンターから追い出し、「ちょっと借りるぞ」と、俺は代わりに中に入った。


「俺が朝メシで唯一作れるものだ」


 俺は、卵を両手で割りながら言った。


――――『卵1個に、お砂糖はスプーン1杯。牛乳も少しだけ入れて。浸さなくてもいいの。食パンを4つに切って、両面につけて。マーガリンでもバターでも、こんがり焼けば美味しいから』


「母ちゃんが得意だったんだよ」

 母の姿と懐かしい声音を思い出しながら、俺は慣れない手つきながら何とか作っていった。

 バターを入れ、焦がさないように、慎重に両面を焼く。


「よしっ。完成」


 俺は、全体に香ばしい焼き目がついた、出来立てのフレンチトーストを皿に盛った。


「俺のフレンチトースト、出来上がりだ」


 東雲の前に皿を置き、フォークを渡す。

 無言のまま座っている東雲は、1つ、フォークで刺すと、口に運んだ。


 向かいにすわってその様子を見ていると、東雲は、少し目を見開き、小さく、「美味しい」と呟いた。 


「だろ。ちゃんとやらなくてもなんとかなるもんだぜ」

 そこで、俺は、あ、と気が付いた。

「これだったのか。俺がお前に教えられること」 


 そのとき、東雲が、確かに「ふふっ」と笑った。


 「フッ」でも「ニヤリ」でもない、初めて見る笑顔だった。

 その無垢な表情があまりにも強烈で、俺の心臓は大きく跳ねた。


 ―――― が、次の瞬間には、東雲はいつもの女王に戻っていた。


「お前に教えられる必要はない。フレンチトーストの名付け親は、ニューヨーク州の‘ジョーゼフ・フレンチ’という人物だと言われている。お前に教えられなくとも、本場の味が学べるはずだ」

「いつか、日本に帰ってくんのか」

「私が学ぶのは未来の農業だ。初めてここで朝ごはんを食べたときに言っただろう。私は日本の米離れを危惧している」


 どこまでいっても東雲瑠々葉だ。


 フレンチトーストを頬張りながら、俺は「さすが」と笑わずにはいられなかった。


「ごちそうさまでした」

「ごちそうさん!」 


 俺は、バチンッと両手を合わせ、そのまま頭を下げた。

 

 今までの感謝の気持ちと、新しく生まれた気持ちを抑えるようにして。


 そして、パーフェクトモーニングにまた会えることを期待しながら。



― 終わり ―












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