潤む瞳
阿良々木与太
視線
「見てた?」
3時間目が水泳だった日。4時間目は国語で、ラジカセからは淡々と、教科書の小説を読み上げる声が聞こえている。老齢の教師はそのカセットテープをかけておきながら、自分は教室の端で立ったままこくりこくりと舟を漕いでいた。
教室でほとんどの生徒が眠っている。顔をあげている優等生も、その目は閉じていた。教科書の先の物語が気になって読んでいた私と、その隣に座る男子生徒以外は、心あらずだ。
「見てたでしょ、さっき」
彼は机にうつぶせたまま、顔だけこちらに向けてそう問いかけてくる。どくんと心臓が高鳴った。ノートを書く音も、ページをめくる音も聞こえない教室がなんだかひどく静かに感じる。朗読の声に混じって自分の鼓動が聞こえてしまっているのではないかと心配した。
「ねえ」
彼の声は、やけに響いた。この教室で私以外聞こえていない声だ。私は教科書に夢中なふりをして、彼から視線を逸らす。きっと目があったら、嘘なんてつけないから。
さっきの水泳の時間、私は生理で見学をしていた。泳ぐのが苦手な私は内心ほっとしていた。でも水泳の見学というのは退屈なもので、ただひたすらに泳ぐ同級生をぼうっと眺めることしかできない。
自然と目がいくのは、気の知れた友人か、好きな人になるというものだ。
隣の席の彼は、私が一年前から好きな人である。別に仲がいいわけでもなく、ただかっこいいなと遠巻きに眺める程度の好きな人。水泳の授業中も、無意識のうちに彼を視線で追っていた。
水泳を習っていたという彼は、やけに綺麗なクロールで50メートルを泳ぎ切っていた。クラスメイトたちが途中で足をつけ、あっぷあっぷと歩きながら乗り越えるその長さを、彼は水が自分のテリトリーであるかのようにすいすいと泳ぐ。
同じクラスの女生徒が、こそこそと友達同士で彼の泳ぎを称賛していたのを1人分離れた場所で聞いていた。彼の泳ぎの綺麗さは私が最初に見つけたのにと思いながら。
太陽の照る屋外で、きらきらと光る水面を滑らかに泳ぐ彼は、さながら人魚のようだった。人魚なんて、現実に見たことはないけれど。
彼をこの目でじっと見れたのは、彼が水にいて泳ぎに集中しているときだけだった。彼がプールの縁に手をつき、地面に上がってきてからは、彼の方を見ないように努める。見ていたことがバレるのが恥ずかしいのもあったけれど、何より好きな人の裸を同じ地上で直視することはできなかった。
水から上がってきた生徒は、たいてい見学の子がいる場所の前を通って元の列に戻る。そこで見学の子にちょっかいをかけたり、少し会話をしてさぼろうとする生徒もいる。
彼の方は見なかったけれど、彼が私の前を通ったのはわかった。足の甲に小さな擦り傷があったのを見て、沁みそうだなと思ったのを覚えている。
「こっち見て」
回想に浸っていた心が急に呼び戻されて、思わず彼の方を向いてしまった。ぱちりと音がするくらいに視線が合う。
塩素のせいかプール終わりの眠気のせいか、彼の瞳はほんの少し赤く潤んでいた。髪はまだ湿っていて、なぜか濡れた子犬を連想させる。水泳をやっていたと言うわりに彼の髪は痛んでおらず、真っ黒だった。
このまま彼の方を見ていては駄目だと思った。教室の冷房が壊れているせいなのか、それとも彼と目が合って恥ずかしいのか、顔が熱い。早く目をそらしたいのにそらせない。心臓が痛いくらいに高鳴って、叫びだしたかった。
「ねえ、見てた?」
彼がまた同じ問いかけをする。唇が眠たそうにゆったりと動いた。今にも永遠に閉じてしまいそうなとろけた目で、じっと私を見つめている。
「見て……」
そう言いかけたところで、チャイムが鳴った。教師が大儀そうにカセットを止め、今日はここまで、と静かな声で言う。気づけば教科書を握りしめていた。ページの端がしわになっている。
眠っている生徒が起きだして、さっきまでシンとしていた教室は途端に賑やかになった。銘々に友人と話す声が聞こえる中で、彼はこちらを見ていた視線を腕の中にしまい込む。彼の友人が席に寄ってきたのも構わずに、その姿勢を崩さない。
私はしわの付いた教科書を、慌てて隠すように机に押し込んだ。彼の隣の席に座っていられなくて、廊下へと逃げる。
あの時私は、なんて答えるつもりだったのだろう。見てないと嘘をついていただろうか、見ていたと白状しただろうか。
彼は、どう答えてほしかったのだろうか。
私が見ていたと知っていたなら、彼も私のことを見ていたんじゃないかという考えがはっと浮かんで消えた。そんな都合のいい話があるわけない。そう思いながらも、期待するように胸がそわつく。
廊下は休み時間特有の喧騒で満たされていた。そこかしこから人の声が聞こえる中で、私は1人彼の言葉を反芻していた。
潤む瞳 阿良々木与太 @yota_araragi
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