003 新居生活初日(その2)
「さて……」
食事も終え、(姫香に半ば強制されて)着替え終えた睦月は、外出する支度を整えていた。適当なショルダーバッグに、事前に新居に運び終えていた荷物の中から数点入れ、ベルトを肩に掛ける。
準備し終えてから、睦月は姫香の方を向いた。
「じゃあ、ちょっと婆さんの所に行ってくる。留守番は頼んだぞ」
すると姫香は、食後に言われていたにも関わらず、睦月に対してものすごく不機嫌な様相を見せてきた。外出理由と目的地を聞いてから、ずっとだ。
別に置いて行かれるからじゃない。姫香にもまた、やるべきことがある。それでも、そんな表情を見せる理由はただ一つ。
「だから年寄り口説く趣味なんてない、っていつも言っているだろうが……」
……単純な嫉妬だった。
「帰りに買い出しもしてくる。何か必要なものがあれば、スマホに連絡入れといてくれ」
未だに不機嫌な表情を隠そうともしない姫香を放置し、睦月は今日から住み始めたマンションの一室から、外に出た。
新居であるマンションから少し歩くと、引越し前から利用することもあった、最寄りの駅がある。
そこからさらに歩くと商店よりも飲食店の数が多い商店街があり、睦月はその中を通って、目的の輸入雑貨店を訪れた。
――カラン、カラン……
「いらっしゃい……って、あんたかい」
カウンターの反対側に、睦月の言う婆さん、
完全に白く染まった髪を玉結びにした和服姿で、背筋の伸びた女性だった。年若い頃であれば、凛とした美しさで引く手数多だったであろうことが窺える程に。
睦月はカウンターの傍へと歩み寄り、未だに
「今日はあんた一人かい?」
「念の為な。
「なんだい、つまんないね……」
「あんた何で姫香のこと、そんなに気に入ってんだよ。あいつ、あんたにすら嫉妬するようなアホだぞ?」
「そこがいいんだろうが。私を『女』だって見てる証拠さ」
そう言って和音は、楽しげに笑った。
「年寄りにとっちゃあ、たとえ『悪感情』でも関心を持って貰える方が嬉しいものさ。おまけに、あの小娘は無駄に喧嘩を売らない分別もあるしね」
年の功か、ある意味器の大きさを示してくる和音に対して、さっさと話を済ませようと、睦月は口を開いた。
「ちょっと聞きたいことがあって来た」
「おや、引越の挨拶じゃないのかい?」
「『住所が変わる』以外、あんたに報告する義務も理由もないだろうが……そもそも
腕を解いた睦月は、そのまま肩に掛けたショルダーバッグの中に入れていた荷物……札束を一つ取り出し、カウンターの上に置いた。
「……親父の件、どこまで知ってる?」
目の前にいる女性は、この輸入雑貨店の店長であると同時に、旧知の情報屋だった。睦月の祖父と同年代であり、秀吉の紹介で知り合って以来、随分と世話になっている。
元々は睦月達と同じ地元出身だったらしいが、嫁入りと同時に村を出て
出身地に近い地方都市で、しかも数十年を経てもこの場所に拠点を構えている。それだけでも、和音の実力が本物だというには十分だった。
「親父……って秀吉の奴かい? あの小僧、今度は何やらかしたんだい?」
「それが分からないから聞いているんだよ」
睦月は簡潔に、父である秀吉から勘当されたこと、そして何かをやらかして公安に目を付けられ、そのまま逃亡したことを告げた。
「親父の奴、『一人の人間としてやりたいことがある』とか言ったきり、他に説明も一切しないまま消えたんだよ。何か心当たりないか?」
「心当たり、ねぇ……」
和音は睦月の置いた札束にも目を向けず、ただ手元の
やがて考えが纏まったのか、和音は
「あるにはあるが……あいつの個人的なことさ。それでも聞きたいのかい?」
「俺
睦月はさらに札束を並べて見せた。これで合計
「公安に目を付けられたら堪ったもんじゃない。とはいえ、知らない間に面倒事は困るしな……何かあれば、すぐ連絡頼む」
「……はいよ」
和音は笑うと、ようやく睦月の並べた札束に手を付けた。
これで一つの契約がなされた。札束の数に応じてその
「また確定申告できない保険、掛ける羽目になっちまったな……」
「裏社会の住人が、こういう時にケチケチするんじゃないよ。というか、何真面目に税金納めているんだい……」
「生憎と真っ当な運び屋業だ。犯罪者相手に商売する気はねえよ」
「この小僧が……ナンバープレートの偽造諸々に手を出しといて、よく言うよ」
縁を切られたというのに、わざわざ
「身を守る為の必要経費だよ。一般人いじめる趣味はないから見逃してくれ」
「そうかい……で、他にいるものは?」
「その偽造ナンバープレートの追加。いつも通り、登録のないやつで頼む」
ナンバーはただ、偽造すればいいものではない。千に一でも一般人に迷惑を掛けてはいけないし、万が一にでも犯罪組織の関係者に当たってしまえば、その後面倒なことになる。たとえ億を超える程の組み合わせがあろうとも、周囲に被害が及ぶ可能性は、少しでも避けるべきだった。
「はいよ」
そして、睦月の求めているナンバープレートの追加とは、偽造する際に表示する番号の情報である。表向きは輸入雑貨店だからか、仕入れに偽装して様々な物も用意していた。
とはいえ、和音に依頼するには時間も手間賃も掛かるので、できる範囲のことは基本、自分達でしているが。
「新しく登録されて使えなくなった分もあったら、ついでに追加しとくよ。一緒に確認しとくれ」
「助かる。残りは今度取りに来た時に払うよ」
前金として札束を一つ置いた睦月は、そのままショルダーバッグの口を閉じた。
用事は済んだので、さっさと帰ろうと身を翻そうとした時だった。和音が何かを思い出したかのように口を開き、睦月の機先を制したのは。
「……ああ、そうそう。あんた最近、うちの馬鹿孫と会わなかったかい?」
「馬鹿孫……って、
弥生とは、和音の孫であり、睦月とは同郷の昔馴染みだ。仕事や家庭の都合であまり顔を合わせる機会はなかったものの、幼馴染と言っても差し支えない間柄だった。
「いや……ここしばらくは引越しもあったし、用事もないから連絡してないけど。何かあったのか?」
「
「なるほど……またどこぞをほっつき歩いているのか」
そして、相手もまた放浪癖があり、会いたい時はわざわざ探さなければならず、また会いたくない時に限って周囲を引っ掻き回していく存在だった。そのせいで保護者である和音は、いつも手を焼かされていた。
「あいつももう
「馬鹿言うんじゃないよ」
和音は少し苛立たし気に
「あの
「ああ……たしかに」
睦月も旧知の仲な分、相手の異常さは理解していた。
犯罪に関しては多少の分別がある睦月とは違い、『自分が面白ければ何でもいい』と考えるような人間なのだ。
だから睦月とも商売柄関わることもあるのだが……競合するよりも商売敵になる方が多かったりする。そんな相手だからこそ、和音もまた色々な意味で警戒しているのだ。
単純に孫へする心配だけでなく、情報屋としての仕事にまで飛び火しないか、と。
「もし会ったら『一回帰ってこい』って、言っといてくれるかい?」
「言うだけでいいなら、な。それで帰ってくる奴じゃないだろう……」
とはいえそれで充分らしく、和音は
――カラン、カラン……
「……あれ、睦月さんは?」
「もう行ったよ」
奥の方から、肩甲骨まで黒髪を伸ばした、若い女性が出てきた。彼女の名前は
奥の方で事務作業をしていた智春は、睦月の来訪に応じてお茶を淹れていた。しかし支度を終える前に帰られてしまったので、お盆の上には三つの湯飲みが残る結果となってしまう。
「また
「あいつが来たからって、いちいちお茶を淹れてこなくていいよ。必要なら呼ぶといつも言ってるだろ」
「だって店長~」
「睦月さんと会える機会なんて、この店以外ないんですよ~しかも輸入雑貨の方には興味ないからって、対応するのはいつも店長だし……」
「だったらさっさと一人前になんな」
ついでに言えば、智春は和音の情報屋としての後継者でもあった。しかし、彼女は元々、ただの一般人である。
そもそもここでアルバイトをすることになった経緯自体ただの偶然であり、最初は情報屋になるどころか、この店がそうだということ自体、知らない位だった。
それなのに何故、智春は情報屋の後継者として和音に師事しているのか?
その理由は単純……Fラン大卒業の為、就職活動に失敗したからだ。
だからアルバイト先である輸入雑貨店に社員待遇で働かせてくれと和音に頼み込んだのだが、智春に返ってきたのは『情報屋として生きるか地元に帰るか』という選択肢だけだった。
それで彼女は前者を選んだのだが……残念なことに、この店で得られる対価が変わることはない。幸い、情報屋として学ぶ分にはお金を取られることこそないものの、輸入雑貨店での給金も増えることはなかった。
だから智春はフリーターとなり、こことは別にファミレスでバイトをする羽目に陥っているのだ。そんな中、彼女には数少ない癒しがあった。
……それが、荻野睦月という男だった。
「まったく……相手持ちの男に現を抜かしている場合かね?」
「お言葉ですけど店長、」
智春は湯飲みを一つ取って勢いよく呷ってから、和音に向けて言った。
「睦月さん、姫香さんだけじゃなく、
「あの小僧のどこがいいんだか……」
「そんなの、『甲斐性』と『器の大きさ』に決まっているでしょう? 玉の輿、玉の輿♪」
しかし和音自身、智春がそう言い切れるのを理解できる分、溜息しか出なかった。
「もうちょっと、貞操観念ってのを大事にしたらどうなんだい?」
「浮気や不倫が蔓延る社会の時点で
これも時代の流れかね、と和音は再び
「死ぬまでに刺激的な恋愛と一生心に残る結婚、そして平穏な生活さえできれば、相手が何処で誰と何をしていても別にいいでしょう? 相手が金持ちなら尚良し」
「今のこの国じゃ、
「そもそも愛国心なんて、持ち合わせていると思いますか?
飲み終えた湯飲みをお盆の上にまとめ、智春は和音に背を向けた。
「大体……大事なのは
そう言って店の裏手に消えていく智春。
「そりゃそうだけど……
また事務仕事に戻るのだろうが、和音は気にすることなく
自分の娘達が好き放題生きている分、それに反してか、どうしても思考が社会寄りになってしまう。まともに納税する殊勝さは持ち合わせていないとはいえ。
ある意味中途半端な立場だとは理解しているものの、この歳まで生きてきた和音に、いまさら別の生き方等、できるはずがなかった。国民の義務を軽く見ているとはいえ。
「あの旦那にしてあの娘共、そしてあの馬鹿孫あり、か……」
死別した旦那の家系とはいえ……『常坂』の人間に碌なのがいない。
和音は
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