仲直りのフレンチトースト

ハルカ

衝撃の料理動画

 朝から妻と喧嘩になった。

 原因は、最近ネットで話題になっている某料理研究家だ。


 妻はもともと料理が得意だったが、最近はとくに腕を上げた。

 どの料理も素晴らしく美味いのだ。

 俺が絶賛すると、彼女は嬉しそうに教えてくれた。


「実はね。最近、YouTubeユーチューブでお料理動画を見てるの。料理研究家の人が、手軽に作れる美味しいレシピを動画でわかりやすく紹介してくれるの」


 その料理研究家とやらは、最近ネットで話題になっている人物のようだ。

 ここのところ彼女はその動画をずいぶん熱心に見ていたらしい。

 そこまでは良かった。だが、問題はそのあとだ。


 彼女から聞いた話では、その動画の投稿者は「料理研究家」などともてはやされているのだという。

 これは由々しき事態だ。料理のためとはいえ、妻が他の男(の動画)を熱心に見つめるだなんて。


 しかも、俺は愛する妻の手料理を褒めたつもりだったのに、まさか他の男から教わった料理を絶賛していたとは。

 うまいうまいと呑気に喜んでいた自分が惨めになる。


 そもそも、妻はもともと料理が得意なのだ。

 わざわざそんな動画なんか見なくたって、料理くらい作れるはずなのに。

 それに、レシピだって他にいくらでもある。そんなどこの馬の骨ともわからない男の動画なんかじゃなくて、もっと、別のサイトを見たらいいじゃないか。


 俺はやんわりそう伝えたが、妻は「この人の動画がいいの」と言って譲らなかった。

 そんなにその男がいいのか。そう口を滑らせたのがまずかった。

 売り言葉に買い言葉。火に油。あとには引けない状況。たちまち言い合いの大喧嘩に発展し、そこから先は重苦しい沈黙の時間が続いている。


   🍞 🍞 🍞


 俺への当てつけだろうか。

 妻は「体調が悪い」と言って寝室にこもったまま出てこない。

 俺も今日は仕事が休みだから家にいるのだが、この様子では昼食どころか晩飯も作ってもらえそうにない。彼女の手料理が俺の人生の楽しみなのに。


 手持無沙汰になった俺は、喧嘩の原因となったその料理研究家の動画を見て粗探しをしてやろうと思った。そうでもしないと気が収まらなかったのだ。

 さっそくYouTubeを開き、例の男の名前を検索する。

 妻が何度も名前を呼ぶものだから覚えてしまった。まったく嫌になる。


 目的の動画はすぐに見つかった。

 なるほど、いろんな料理名が並んでいる。てっきり女を落とすためのオシャレ料理を小手先で作っているのだろうと思っていたが、予想に反して家庭的なラインナップだ。


 そういえば、あの料理も、この料理も、どこか見覚えがある。

 どれも以前妻が作ってくれたものだ。

 そうか。もともとはこの男が動画で紹介していた料理だったのか。はらわたが煮えくり返りそうだ。


 ひと通りの悪態をついたところで、適当に動画を選び再生する。

 最初に数秒、料理シーンのハイライトが映し出される。なるほど、今からこの料理を作るんだな。これはたしかにわかりやすい……いやいや、褒めてる場合じゃない。


 画面が切り替わり、キッチンが映し出される。

 その中央に料理研究家の姿があった。悔しいが、たしかにイケメンだ。認めざるを得ない。それがまた腹立たしい。


 だが、どうも様子がおかしい。


 開始早々、男は異様なテンションで「どうも~! 料理研究家の****です!」などとしゃべり始めた。いや、わめいているといったほうが正しいかもしれない。

 それに、なんとなく呂律ろれつが回っていないような気がする。しかも体がふらついていて、どう見ても真っ直ぐ立てていない。


「な、なんだ、これは……」


 呆然としているうちに、親しみやすいポップなアニメーションが流れ、タイトルコールが入った。半信半疑だったが、妻が言っていたのはこの動画で間違いないようだ。

 彼女はなぜこんな動画を見ていたのだろう。


 首を傾げているうちに、またキッチンの映像に切り替わる。

 すると男は突然ジョッキにかち割り氷を入れ始めた。しかも恐ろしく大雑把に氷を取り出すものだから、ジョッキに入る氷よりカウンターの上に落ちる氷の方が多いじゃないか。


 かと思えば、男は当然のように酒を注ぎ、美味そうに飲み始める。

 ……どういうことだ。俺の知ってる料理動画と違う。


 男はハイテンションでベラベラとしゃべりながら料理をしてゆく。野菜を下ごしらえし、刻み、レンジでチンする。なんなら、途中でさらに酒を追加している。その酒はお前の回復アイテムか。

 こんな奴が料理するだなんて、ふざけた動画だ。


 そうしているうちにも一応は料理が進んでいるらしく、次は肉の下ごしらえだ。

 男は肉をまな板の上に乗せ、その上にラップをかけ、おもむろにジャック・ダニエルの酒瓶を取り出し――、勢いよく肉をぶん殴り始めた!


 ガンッ! ガンッ! ガンッ!


 ジャック・ダニエルが! 泡立ってる! ちょっ、泡立ってるって!

 ヘッドフォンから流れ出す大音量に脳を揺さぶられながら、衝撃のあまりチベットスナギツネのような表情かおになる。妻もこの動画を見たのだろうか。


 動画の中では男が「こうすることで肉が柔らかくなります」などと説明している。その目がすわっている。まな板の上で肉がぺちゃんこになってる。

 そういえば、「酒で肉が柔らかくなる」って聞いたことがあるっけ。でも違う。俺の知っているやり方は「肉を酒に漬け込む」とかであって、「酒瓶で肉を物理攻撃」ではない。


 しかも、俺が呆然としているうちにいつのまにか料理ができあがっていた。

 えっ、俺、幻でも見てた?


 男はさっさと実食に移り、自分で作った料理を「うまい、うまい」と言いながら食っている。その手元には、当然のようにハイボール。男はジョッキにそれを注ぎ……おい、まだ飲むのかよ。


 結局、始終ハイテンションのまま動画は終わった。


   🍞 🍞 🍞


 俺は奮起した。

 あんな酔っ払いに料理ができるなら、俺にだってできるはずだ。

 美味い料理を作って妻と仲直りするんだ。


 料理は久々だが、大丈夫だ、問題ない。

 大学時代は一人暮らしをしていたから自炊もやったことがある。

 米は炊けるし野菜も切れる。肉だって焼ける。大丈夫だ、問題ない(2回目)。


 あの酔っ払いのレシピを作るのはしゃくだから、のものを作ろう。

 なに、切って火を通せばいいだけだ。楽勝、楽勝。

 そうだ、肉野菜炒めなんてどうだ?


 しかし、甘かった。

 意気揚々と料理を始めたはいいが、実際にやってみるとなかなか難しい。

 玉ねぎの皮をむこうとすれば指先がプルプルし、包丁で刻めば目をやられる。ピーマンは細かな種が取り切れずイラつき、ニンジンの皮をむこうとすればピーラーの刃が容赦なく襲い掛かる。


 作業を進めるほど、台所には野菜くずや汚れたボウルやまな板がまってゆく。己のあまりの要領の悪さに嫌気がさしてくる。だが、ここで諦めるわけにはいかない。


 気を取り直して材料を炒め始めるが、野菜にはなかなか火が通らず、肉ばかりがフライパンにこびりつく。ニンジンにいたっては生焼けのくせに焦げている。

 味さえよければと開き直って醤油をかけ、皿によそる。

 少し食べてみて悟った。これは肉野菜炒めなんかじゃない。俺は、醤油と炭の味しかしない「なにか」を錬成してしまった。


 ふと気付けば、清潔感があったはずのキッチンは野菜くずが散らかり、跳ねた油で鈍く曇っていた。キッチンが明るくて清潔だったのは、妻がそうしてくれていたからだ。

 あの料理研究家だって、キッチンは清潔そうだったし、べろんべろんに酔っぱらっているくせに野菜を切る手つきは鮮やかだった。


 俺はすべてに負けた気がした。

 いつだってそうだ。プライドばかり高くて、そのくせ実力が伴わなくて。

 見栄を張って失敗ばかりを繰り返す。どうしようもない男だ。


 大学時代の一人暮らしだってそうだった。

 自炊くらいできると高をくくって家を出たものの、結局続かなくて外食ばかりになり、そのうち金が足りなくなってレトルトばかりになった。それが親にバレて、母親がせっせと総菜を送ってくるようになったのだ。


 俺が妻と結婚できたのは奇跡だ。

 彼女は美しくて気立ても良く、今思えば高嶺の花だった。

 だが、身の程知らずな俺は猛アタックを繰り返し、優しい彼女はとうとう頷いてくれた。大切にしなくては罰が当たる。


 キッチンの惨状が俺の心をめつける。

 こんなんじゃ、いつまでも妻と仲直りできない。

 背伸びばかりしていないで、俺は俺にできることをしないと。


 スポンジをつかみ、がしがしとフライパンを洗う。

 己の失敗を洗い流すように。悔しさを成功に変えるために。

 そして考える。

 俺にでも作れる料理ってなんだ?


   🍞 🍞 🍞


 悩んだ結果、俺はフレンチトーストを作ることにした。


 以前妻が作り方を教えてくれたことがあって、それを覚えていたのだ。

 彼女の方法は少し独特だと言っていたから、YouTubeをすべてひっくり返しても同じやり方は出てこない。記憶を頼りにやるしかない。


 まずは、皿を一枚用意する。

 丸くて少し深さのある皿だ。うちではこれにカレーなんかをよそる。

 そこに卵を割り入れる。普通はボウルやバットを使うのだろうが、妻はこの皿で充分だと言っていた。


 卵を割り入れたら、しっかりときほぐす。

 ここでもまた彼女の工夫がある。卵をかき混ぜるときに菜箸ではなくフォークを使うのだ。たしかに、四股になっている先の部分を使えば菜箸よりも早くかき混ぜられる。


 卵が充分に混ざったら、そこへ牛乳を入れる。

 あまり入れすぎると水っぽくなるし、逆に少なすぎるとパンに液がしみ込みにくいらしいので、様子を見ながら少しずつ足してゆく。

 そこへ砂糖を加え、さらにフォークで混ぜる。彼女は甘党なので、砂糖を少し多めにしてみる。


 ここまでやって、ようやくパンの出番だ。

 彼女はいつも6枚切りの食パンを好むが、フレンチトーストのときだけは5枚切りのパンを使う。パンに厚みがあるせいか、そのほうがもちもちした食感に仕上がるのだそうだ。

 俺はいつも5枚切りを食べているから、我が家にもストックはある。


 パンを1枚取り出し、液に浸す。

 ここでカレー皿の形状が活かされる。片面をしっかり浸したら、ひっくり返してもう片面も液に浸す。このとき、またフォークが活躍する。ちょっと差して引っかければ、不器用な俺でもうまくひっくり返すことができる。それに、パンの表面を軽くフォークで刺してやると、じわじわと液がしみこんでゆく。


 パンにしっかり液をしみ込ませたら、フライパンを用意する。

 たしか彼女はテフロン加工の玉子焼き器を使っていたはずだ。これが食パンのサイズにフィットする。おまけに焦げ付きにくくていい。


 ここへ少量のバターを溶かし、液をたっぷり含んだ食パンを焼いてゆく。

 さっきの肉野菜炒めの苦い教訓を生かし、火加減には充分注意する。弱過ぎず、強過ぎず。

 両面ともこんがりきつね色に焼き上がる頃には、キッチンが甘い香りでいっぱいになった。


 新しい皿を出して、その上にフレンチトーストを乗せる。

 食べやすいように切り分けて、ホットミルクも用意したら、いよいよ勝負のときだ。


   🍞 🍞 🍞


 俺はできたてのフレンチトーストとホットミルクをトレーに乗せ、寝室へ運ぶ。

 悪戦苦闘しているうちに、すっかり昼を過ぎていた。

 きっと彼女も腹を空かせているに違いない。


 妻はパジャマのままベッドの中にいた。

 俺へのあてつけなんかじゃなく、どうやら本当に体調が悪かったらしい。


「お料理してたの?」

 目を閉じたまま、妻が尋ねる。

「うん、いつも君に作ってもらってばかりだったから」

「ありがとう。……でも、ごめんね。今はあまり食欲がないの」


 その言葉に、内心がっかりした。

 せっかく頑張って作ったのに。これじゃあ仲直りのきっかけも作れない。

 でも、具合が悪いのなら無理強いするわけにもいかない。


「わかった。じゃあこれは俺が食べる。君はゆっくりしてて」

 そう言って部屋を出ていこうとしたとき、妻がゆっくりと目を開いた。

「甘い匂いがする」

「うん。フレンチトーストを作ったんだ。前に君が教えてくれたから」

「フレンチトースト?」


 妻はゆっくりと起き上がり、俺を見て、それからトレーの上のフレンチトーストを見た。


「食べてみる?」

「うん。食べたい」


 その一言に、俺は妻の元へいそいそと歩み寄る。

 どうやら、仲直りのきっかけをつかめそうだ。

 彼女はベッドの上に身を起こし、トレーを受け取った。そしてフォークを取り、フレンチトーストを一切れ、口に運ぶ。


「どう?」

「美味しい。これなら食べられそう」

「よかった」

「ありがとう。作ってくれて」


 彼女はゆっくり味わうようにフレンチトーストを食べてゆく。

 俺はほっとしてその様子を見守った。


「体調はどう?」

 そう尋ねると、妻はふと食べる手を止め、俺を見つめた。

「実はね、最近とくに体調の悪い日が多くて。日常生活もそうだけど、お料理を作るのが辛いときがあるの」


 彼女の言葉に愕然とする。

 まさか、そこまで体調が悪かっただなんて。情けないことに俺はまったく気付いていなかった。

 彼女はなにか深刻な病気なのだろうか。


「病院には?」

「行ったわ。心配しなくて大丈夫よ」

「……そっか」


 大丈夫と言われても、不安になるばかりだ。

 もし彼女を失うようなことがあれば、俺は生きていけない。

 それなのに、妻は楽しそうに口元を緩めた。


「それでね、少しでも手軽に作れそうなメニューを探しているうちに、あの動画を見つけたのよ。あの人っていつも楽しそうにお料理してるでしょ? だから、なんだか私まで楽しくなってきちゃってね」


 たしかに、あの料理研究家はとても楽しそうに料理をしていた。

 そうか。そのことに彼女は救われていたんだな。


「やってることはめちゃくちゃだけどな。酒飲みながら料理したり、呂律が回ってなかったり、酒瓶で肉叩いたりさ」

「えっ、もしかして動画見たの?」

「……うん、まあ。どんな男か見てやろうと思って」


 素直に白状すると、妻は呆れ顔で笑った。


「焼きもち?」

「だってさ、仕方ないだろ」

「困るわよ。あなただって、そのうち子どもができてお父さんになるの。私が子どもにかかりきりになっても焼きもちを焼かないって約束できる?」


 愛する妻の口から「子ども」だの「お父さん」だのという言葉が飛び出し、俺は激しく動揺した。

 たしかに、愛する妻とのあいだに子どもは欲しいけれど。


「……んっ、そ、そうだね。俺達だって子どもができるだろうし。そうなったらきっと、焼きもちを焼いている暇もないほど互いに忙しくなるはずだ」

 しどろもどろになりながら頷くと、妻はふと優しい表情をした。 


「いつかじゃなくて。お腹に子どもがいるの」

「えっ」


 体調が悪いって、か!

 俺は慌ててベッドをよじ登り、細心の注意を払って妻を抱きしめた。何か気の利いた言葉でもと思うのに、口から出てくるのは「嬉しい」と「ありがとう」ばかりだ。


 彼女は腕の中でくすぐったそうに笑っている。

 この身体の中に、俺との子どもがいる。

 そう思うだけで、彼女のことがとめどなく愛おしく思えた。


   🍞 🍞 🍞


 その日を境に、俺はキッチンに立つようになった。

 まだうまくいかないことも多いけれど、妻も根気よく教えてくれる。


 参考にするのは例のイケメン料理研究家の動画だ。

 現金だと言われそうだが、夫婦の大喧嘩の原因となった男は、いまや俺達夫婦の結びつきを強くしてくれた恋のキューピッドに見える。


 妻と一緒にパソコン画面を覗けば、彼は今日も動画の中で酒を飲んでいる。

 たまに妻は「お酒が飲みたくなる!」と文句を言うこともあるが、それでもやっぱり楽しそうだ。

 俺達の食卓には、今日も彼から教わった料理が並ぶ。

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