No.5【短編】When you Knock on Heaven's Door

鉄生 裕

前編

「ねぇお兄ちゃん、お星さまってもう絵本の中にしかいないの?」


「お星さま?」


「うん。サヤね、本物のお星さまが見たいの」


確かに、都会じゃ星なんてろくに見えないだろう。


しかも、ずっとこんなところに閉じ込められているのだから、

この世から星が消えてしまったと彼女が勘違いするのも不思議ではない。


「でも、どうして急にお星さまなんだ?」


「う~んとね、それは秘密なの。でもね、どうしても本物のお星さまが見たいの」


こんなにも何かを必死におねだりする彼女を、僕は初めて見た。


「なぁサヤ、お母さんが昔していた話を覚えてるか?俺もサヤも、いつかはこことは違う場所に、お空よりもずっとずっと上の場所に行くって言ってただろ?」


僕がそう言うと、彼女はコクンと頷いた。


「これはお兄ちゃんとサヤの二人だけの秘密だぞ。実は、お空よりずっとずっと上のその場所では、お星さまが大人気なんだ。そこでは、皆がお星さまに夢中なんだよ」


僕の話を、妹は目を輝かせながら聞いていた。


あの時、どうしてそんなしょうもない嘘をついたのかは自分でも分からない。


べつにそんな嘘をつかなくても、

『それじゃあ、一緒にお星さまを見に行こうか』

の一言で済んだだろう。


けれどもその時の僕は、

“天国では皆がお星さまに夢中なんだ”

という自分でついた嘘を信じ込みそうになるほど、あたかもそれが事実であるかのように彼女に嘘をついた。


「今晩、迎えに来るよ。一緒にお星さまを見に行こうか」


それを聞いた彼女は、本当に嬉しそうだった。


あんなに嬉しそうな彼女を見るのは、随分と久しぶりだった。




面会の時間はとっくに終わっていた。


僕は病院の裏口から中へ入ると、忍び足でサヤの病室まで向かった。


「サヤ、迎えに来たよ。お星さまを見に行こうか」


僕たちは病院を抜け出すと、車で二時間半ほどかかる海を目指して歩き始めた。


最初はタクシーで海まで行こうと考えていたけれど、

よくよく考えたら、こんな時間に高校生と幼い女の子の二人だけで海へ行くなんて、

さすがにタクシーの運転手も怪しんで乗せてはくれないだろう。


だからといって、徒歩じゃどう頑張っても着けやしない。


当然終電も終わっているし、果たしでどうやって海まで行こうかと悩んでいたその時、「何してんの?」と突然後ろからそう声をかけられた。


振り向くと、そこには二十代後半くらいの二人組の男性が立っていた。


僕は妹の手を握ると、急いでその場から逃げようとした。


だが、二人組のうちのロン毛の方の男に肩を掴まれると、

「ちょっと待ってよ。こんな時間にそんな小さい子と二人で何してんの?迷子ってわけでもなさそうだし。とりあえず、すぐそこに交番あるから。一緒に交番まで行こうか」

僕の目を真っ直ぐに見つめながらそう言った。


交番なんて行ったら、すぐに病院に戻されてしまうだろう。


もしそうなってしまったら、たぶん僕は妹と一緒に星を見に行くことなんて二度とできない。


仕方なく、僕はロン毛ともう一人の天パークルクル頭の男に事情を説明した。


事情を聞いた二人は、コソコソと二人だけで何かを話していたかと思うと、

「よし、わかった。俺達が海まで連れて行くよ」

僕と妹に向かってそう言った。


「え?いいんですか?でも、もしバレたら、おじさんたちも相当怒られると思いますけど・・・」


「よし、まず最初に言っておくけど、僕たちはまだギリギリお兄さんだ。君からはおじさんに見えていても、どうにかまだなんとか僕たちはお兄さんだ。だから、これからはお兄さんと呼んでくれ。おじさんと呼ばれるのは、シンプル傷付く。それと、そんな心配はしなくても大丈夫。その時は僕たち、全力で逃げるから。僕たち、逃げるのだけは得意だからね。伊達に色んなものから逃げてきたわけじゃないから」


サヤの頭を優しく撫でながら、クルクルはそう言った。


そんなクルクルに向かって、サヤは、

「ねぇ、どうしてそんな頭なの?すごいクルクルしてる。触ってもいい?」

そう言いながら、彼の頭に手を伸ばそうとした。


すると、すかさずロン毛が、

「それはね、このおじさんの頭の中がクルクルだからだよ。危ないよ、そのクルクルは他の人にも感染するんだ。もしそれに触ったら、君の髪の毛もクルクルになっちゃう。それは嫌でしょ?」

と、ニヤニヤしながらサヤに言った。


ロン毛の言う事を信じたサヤは、慌ててクルクルから距離を取るように僕の後ろに隠れた。


「おい、そんなしょうもない嘘つくなよ。お前のせいで、絶対嫌われたわ」


そう言いながら、二人はゲラゲラと笑いあった。


今思えば、あれはサヤの事をからかったわけではなく、

きっと僕の緊張を少しでも和らげようとした、彼らなりの優しさだったのだろう。


「それで、どうする?海、行くか?」


ロン毛は僕に尋ねた。


「はい、お願いします。」


僕とサヤとロン毛とクルクルの四人は、海に向かって車を走らせた。


「海までは二時間半くらいかかるから、今のうちに寝ときな。着いたら起こしてあげるから」


「大丈夫です。運転までしていただいているのに。僕も海までちゃんと起きてます」


張り切ってそう言った矢先、僕はいつの間にか後部座席でサヤと一緒に眠ってしまっていた。




「ほら二人とも、着いたよ」

クルクルの声で、僕とサヤは目を覚ました。


「俺たちはここで待ってるから、ゆっくりしてきな」


ロン毛がそう言うと、サヤは二人の方を見ながら、

「おじさんたちは一緒に来ないの?」

と尋ねた。


「俺たちはここで待ってるよ。せっかくだから、お兄ちゃんと二人で行ってきな」


ロン毛はサヤに微笑みかけながら、優しくそう言った。


「すいません。それじゃあ、すぐ戻ってきますんで」


僕がサヤの手を握り車から出ると、クルクルが慌てたように、

「あ、待ってサヤちゃん。これ、お兄ちゃんと飲むんでしょ?」

そう言ってサヤを手招きした。


すると彼は駆け寄ってきたサヤに、『ミルクココア』と書かれた缶を二つ渡した。


いつの間にそんなものを買っていたのだろうか。


それから、妹はクルクルと何かをヒソヒソと話していた。

僕にも聞き取れないくらい、本当に小さな声で。


そして僕の方へトコトコと走りながら戻ってくると、笑顔で僕の手をギュッと握った。


「それじゃあ、行ってきます」


「俺たちのことは気にしなくていいから、ゆっくりな」


そう言ってロン毛はタバコに火をつけ、クルクルは僕らが見えなくなるまでずっと手を振り続けた。


僕らはそこから少しだけ歩くと、誰もいない真っ暗な夜の海辺に二人で腰を下ろした。


「車で二時間半走っただけで、こんなに綺麗に見えるんだな」


満天の星空を見て、思わず心の声が口から漏れ出していた。


するとサヤが空を見ながら、

「パパとママがいるところも、あんなに真っ暗なの?」

と僕に尋ねた。


父は、僕が小学生の時に事故で亡くなった。

その時には既に、母のお腹にはサヤがいた。


そして一昨年の春、サヤが四歳になる少し前、母は病気で亡くなった。


母が亡くなってから少しして、サヤの病気が見つかった。


母と同じ病気だった。


「うん。きっとあっちも夜なんだろうね」


僕もサヤと同じように真っ暗な空を見上げながら言った。


「ねぇお兄ちゃん、パパとママに会う時はお兄ちゃんも一緒だよね?」


そう聞かれて、言葉が出てこなかった。


綺麗事なら、頭の中に腐るほど湧いてきた。


でも、所詮は綺麗事なのだから、

結局はどれも中身のない嘘っぱちだらけだった。


なにより、サヤはあのことを知らない。


その時点で、僕の言葉は全部、

いや、僕自身も嘘っぱちの存在なのかもしれない。


黙ったままの僕にサヤは、

「お兄ちゃん、聞いて。昨日ね、先生と一緒にお絵描きしたの」

と、僕の知らない病院でのいろんなことを話してくれた。


大柄でモジャモジャ髭の、クマみたいな担当医のことや、

毎回苦い薬を運んでくる、サヤにとっては魔女よりも恐ろしい看護師さんのこと、

眠れない時にいつも手を握ってくれる、同じ病室の優しいおばあさんのこと。


僕は今までずっと、自分だけがサヤを守っているのだと思い込んでいた。


でも、今まで僕が見ていたサヤは、

僕がそう見たいと思い込んで見ていた、僕の中の小さなサヤだった。


けれど、本当のサヤはもっと大きくて、

それでいていろんな人に守られているのだと、

今更になってようやくそのことに気が付いた。


すると、今まで楽しそうに話をしていたサヤが突然、

「お兄ちゃん、なんだかすごく怖いよ」

と言いながら、僕の上着の裾を引っ張った。


そして、ギュッと目を瞑りながら、「怖いよ、怖いよ」と何度もそう言った。


「どうした?何が怖いの?どこか痛いの?」


僕が何度尋ねても、

「怖いよ、怖いよ」

と、彼女はそう言い続けるだけだった。


苦い薬を飲むときも、注射の時ですらいつも我慢して全く泣かないサヤが、

まるで赤ん坊のように大声で泣き続けた。


“お兄ちゃんがそばにいるから、大丈夫だよ”

“お兄ちゃんが一緒だから、怖くないよ”


そんな気休めで、今の彼女を救えるとは到底思えなかった。

なにより、僕もサヤと同じくらい怖かった。


だから、僕は自分のその怖さを少しでも紛らわすために、

彼女を目一杯抱きしめることしかできなかった。


上着の両ポケットに入っていたミルクココアがまだ少しだけ温かかったのが

その時の僕らにとっての、せめてもの救いだった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る