第4話 神たらし、海へ
「そうですね、この壁からそこの壁まで……その2.5倍くらいでしたかね」と、彼は言った。彼が指し示す壁と壁の間の距離はおよそ4メートル。彼が言わんとしている長さはおよそ10メートルだった。
【彼】とは、とあるお店のバーテンダー。僕が【神たらし】と評するその若いバーテンダーは、【氷壁から落ちて雪に埋まっていた時に、落ちてきたツララに身体を貫かれると覚悟していたら、ツララはたまたま自分の上を飛び越えようとした野ウサギを貫いて助かった】とか、【山にこもっていた時に、崖から落ちたか何かで骨折していて瀕死だった鹿を捕まえて解体して美味しく頂いて、その毛皮を防寒着として纏っていたらマタギにモノノケと間違われて猟銃を向けられた】とか、【北海道の坂道を必死で自転車漕いでいて、ふと目を前に向けたら2mほど先にヒグマが立っていて、回れ右して必死で逃げた】なんて逸話を持つ、神の為のエンタメのような人生を送っている冒険者だ。
そんな彼の今回の冒険は海だった。「二週間ほどお休みを頂きまして、無人島に行ってこようと思ってるんです」そう聞いていた僕は、彼の仕事復帰予定日にそのバーに行ったのだ。「大丈夫だったんだろうか? ちゃんと生きてるのか? 事故や災難に巻き込まれてやいないだろうか」と気を揉んでいたので、シレッと何でもない顔をしてカウンターの向こうに立っていた彼を見て、しっかりと僕の拍子は抜けた。
相変わらずひょうひょうとした表情で立っていた彼から、今回の旅の話を聞いてきた。冒頭に書いた10メートルとは、彼が遭遇したマッコウクジラの体長だ。
今回の旅の目的地である無人島は、旅客船の港がある島から直線距離で200km以上離れた小さな島。普段、山に一人で入って、食料も防寒着も現地調達することが何でもない彼にとっても、折り畳みのカヤックで一人大海原に漕ぎだす時は、流石に不安で一杯だったらしい。GPSもエンジンも積んでいない小さなカヤック。方角を知る術は太陽と星、カヤックを前に進める動力は彼の二本の腕、経験豊富な先輩が先導してくれる訳ではない一人旅のスタートは心細いものだったと彼は言った。
今回の冒険の舞台に持ち込む生活用品も、彼が山に入る時のスタンスそのままに、必要最小限のモノだけだったらしい。食料は今回ももちろん現地調達、前回の山ごもり時には持って行かなかった醤油を今回持ち込んだのはかなりのグッジョブだったらしいが、今回は海ならではの装備としてスキューバの機材とそのボンベを6本持って行ったのだそうな。
200km超のカヤック大海原一人旅の生命線は2リットルのペットボトルの水二本だったらしいが、その二本のペットボトルより遥かに嵩張る、海中以外では何の役にも立たないボンベを6本も積んで行くあたり、彼の肝の据わりっぷりが眩しい。
時計も持って行かなかったという彼の体感時間でおよそ20時間。彼のカヤックは島についた。ペットボトルの水はほぼ空になっていたという。
その島はおよそ平地と言える場所が無く、海から崖、崖の上には切り立った山が乗っかっているような島だったらしい。浜と呼べるような優しい地形は当然ない訳で、彼は満潮時に浸水しない岩場を居住地とした。「壊れたらイヤだから」と一切電子機器の類を持ち込まず、山に行く時も持って行かなかった紙やペンは当然今回も荷物に入っていない。山では木の皮を剥いで裏面にナイフで正の字を書いて経過日数を把握していた彼の今回のカレンダーはベースキャンプ地に並べられていく大きめの石だったという。不自然に立たせて並べた石の数で経過日数を把握して、帰る日を忘れないようにしたそうだ。
そんな彼の、その無人島での最も重要なルーチンワークは飲料水作りだったらしい。「前回の山に入った時みたいに川が簡単に見つけられたら楽だったんですけどねー」と彼は言う。テントのシートや大きめの葉っぱを用いて海水を蒸留して真水を作る事が何よりも大切で、「だいたい、水、作ってましたねー」と彼は笑ってた。「苦労して作った水は美味しかった?」と聞くと、「人が暮らす島に戻ってから自販機で買って飲んだスポーツドリンクが一番美味しかったです」と、また笑った。
ゴムで発射する銛で魚を捕まえ、貝を捕り、海藻を収穫したり、木の実を採ったりというワイルドライフを彼はしていた。若い彼は毒を持つ生物についての学識がある訳ではない。一目見て、安全な食材なのか危険なモノなのかを判断する図鑑が頭の中にある訳ではない。では、どうやって、一人無人島生活での安全と健康を維持していたのか。彼はそれらを口に入れるその前に、バッジテストをするのだと言った。腕の内側等の皮膚に食材(候補)を密着させて、15分程待つのだそうな。それが危険なモノならその触れていた肌が痒くなったり痛くなったりするらしい。そうやって判断して、もちろん、最初の一口は舌の感覚を研ぎ澄ませて食べだすのだ、と。そんな繊細さがあってこその独りワイルドライフ。よいこのみんなは簡単に真似が出来ると思わない方がいいスタイルだ。
彼の話を聞いていたそのバーで、隣に立っていた彼の上司のバーテンダーが「ぜんぜん日焼けしてないじゃないか。本当に行ったのか?」と言うと、彼は「日焼け止めは毎日念入りに塗ってたんです。日焼けって火傷で炎症ですから、しないに越したことはないですし、日焼けしちゃうとバッジテストもできなくなるんですよ」と説明していた。自分の身を守るその術は微に入り細を穿っている。
無謀に見えて繊細な彼の生活は聞いていてもまあまあ隙がない。6本持って行っていたボンベの内の2本はダウンカレントに巻き込まれた時用に海底に沈めて保管していたという。
ダウンカレントとは、海流の一つで、急激な速度で海底に向かうモノらしい。それに巻き込まれたらいくら抵抗して浮上を試みてもあっという間に30メートルとか40メートルの海底に身体が持って行かれるのだそうな。海を観察し、ダウンカレントが起こるならこの辺りだろうという海底に、もしもの時の生命線を配置しておくのだ、と。幸い、今回はそれを活用する場面はなかったらしいが。
食材を得る時にはスキューバダイビングの機材は使わずに素潜りだったらしい。スキューバダイビングの目的は、クジラだ。前置きが長くなったが、今回の彼の冒険のハイライトは間違いなくクジラとの邂逅であろう。
「おかえり。どやったん?今回の冒険は」と聞いた僕に、「マッコウクジラの出産を見てきましたよ」とサラッと答える彼。彼の冒険譚の引き出しはいつでも飛び道具だ。だいぶこちらの頭がついていかない。「マッコウクジラに接近してタッチもしましたし」青い海を頭に浮かべ、彼の冒険の追体験を試みようとする僕は様々な角度から彼に質問をぶつけ続けた。冒頭の10メートルのくだりはそうやって聞き出したクジラの体長である。
生命への畏怖と尊重からか、出産のその時は、彼とクジラの間に20メートルから30メートルの距離を保っていたらしい。クジラにタッチしたのはクジラの遊泳時の話だ。母親クジラの陣痛の始まりを彼が知っているはずがないので、出産にかかった本当の時間は分からない。でも、赤ちゃんクジラの頭が母クジラの身体から出始めてから、約五分。赤ちゃんクジラの全身は海中に産み落とされた。どうやらマッコウクジラの出産は母クジラ単独で行われる訳ではないらしく、並泳するもう一頭が産み落とされた赤ちゃんクジラを丸のみしてへその緒を噛み千切ったそのシーンを彼は見てきたのだ。産み落とされたおよそ1.8メートルの赤ちゃんクジラを丸のみ出来るマッコウクジラの口の大きさのダイナミズム。僕の頭の中の追体験は海の青とマッコウクジラの黒と泡の白で展開される。丸のみされた口の中の一瞬は、赤ちゃんクジラにとっての初めての空気を感じる場でもあるのだろう。肺呼吸の哺乳類なのに、海中という世界に産み落とされるのだ。生命の多様性はなんてワンダフルなんだろう。
「お父さんクジラですかね」なんて彼はその一頭を指して言っていたけど、その並泳していたクジラが【産婆クジラ】である可能性も否めない。彼が見てきたマッコウクジラ6頭による追い込み漁の話を聞くに、マッコウクジラはかなりの社会性をもった動物のようだし。
隊列を組んで魚の群れを追い込む五頭と、逃げ場を失ったその群れに後からサッと現れバクっと頬張る一頭の連携も彼は話してくれた。クジラは頭がいいとか、社会性を持った生き物だとかいう話はどうやら本当なのだな。
知らない世界に飛び込む事で初めて見えるモノがある……、行く先々で稀有な経験をしてしまう彼は、神を楽しませるエンターテイナー【神たらし】であろうとやっぱり僕は思うのだけれど、彼と僕を出合わせたのもまた神であるのなら、神は僕にこんな文章を書かせて、最初の一歩を踏み出せないでいるどこかの誰かに「知らない世界に飛び込んでみなよ」というメッセージを伝えようとしているのかも知れないな。
なーんて、僕の妄想でこの投稿を終わらせるにはもったいないか。
さてさて、彼に会ったのは昨夜。彼の冒険後の初出勤日も昨日。そして、彼が本来予定していた日程では出勤日の二日前には関西に帰ってきているはずだった。旅客船が一週間に一本の島がその無人島への足掛かりであったのだから、その予定が狂ったならば昨日の出勤日には間に合うはずがないのだけれど、彼が関西の自宅に戻ったのは昨日の朝だったそうな。
旅客便に乗りそびれた彼は、貨物船に乗って帰ってきたそうな。「いいぜ。そのかわり、お前も働けよ!」と乗船を許された貨物船で、荷物の積み下ろしと、船員の食事用意の手伝いをして帰ってきたのだ、と。
「冒険とは【言ってみる】と【行ってみる】で始まるもんなんですよ」彼はそんな事を言わないが、背筋がピンと伸びた彼の身体はそんな事を言っているように、僕には見えた。
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