運搬の魔女 ポルタ(後)


 ポルタは幼少の記憶を思い出していました。そう。初めて空を飛んだ日のことです。


 傾斜の浅い丘の上に立ったポルタの右手には、庭掃除に使うほうきが握られていました。ポルタは一つ息を整えた後に丘を駆け下りていきます。間もなくしてポルタは風と一体になりました。


 程よく勢いがついたところで、ポルタはほうきに乗りました。すると、風がポルタのことを運び空へと連れて行きました。何度も何度も転んで出来上がったたくさんのすり傷が嘘のように、とても簡単に体が浮き上がったのです。


 そのとき目にした景色のことをポルタは忘れたことがありません。毎日歩く通学路が、いつも買い物をする屋台通りが、生まれてから育ってきた家が、その手を大きく振って喜ぶ父と母が、目に焼き付いて離れないのです。




 ――ポルタの話を聞いた兵士はわずかに首を縦に振りました。


「ハハ…………そいつは……いいや」


 この頃になると兵士の呼吸がひどく荒いものとなっていました。息を吸い込む度に、まるで痰が絡んでいるかのようなゴロゴロという音が聞こえてくるのです。ポルタはまともに兵士の顔を見ることが出来ませんでした。


 ほとんどうつろな目を向けた兵士が詰まり詰まりに話します。


「荒野を……ずっと南に行ったところに小さな国が……ある。資源がなければ……金もねえ。治安は悪いし……法はまともに機能していない。クソみたいな……俺の故郷だ」

「兵士さんは……そこから逃げてきたのですか?」

「そうだ。ひたすら荒野を走って……ここで一眠りしていたところを…………こうだ」


 兵士は親指と人差し指を自身に向けました。


「俺は……故郷の外を知らなかった。正規軍として……戦場に立ってよ……戦争が終わったら……また別の戦争が始まってよ……誰かを傷つける生き方しか……知らなかった。それが……よ……それが、怖くなっちまった。このまま俺の……人生が終わるのが……死ぬことよりも………怖くなった」


 兵士は再び青空を見上げます。


「鳥はきっと……俺が……俺が知らねえ景色を知ってんだろうな……空を飛べたらよ……飛べたら……俺は……死んでもいい」

「……」


 ポルタには兵士の気持ちなんて、全く分かりませんでした。幼少の頃から空を飛び、大人になった今では空を飛ぶことが仕事となりました。雨の日も風の日も、東へ西へとほうきを向かわせる日々の中でポルタが訪れた街は数百にまでなりました。魔女ポルタは空に育てられたのです。兵士の思いなんて知る由がありません。


 ポルタは震える右手を自身の胸に添えました。思い出したのは同じく魔女である母の言葉です。母は「魔女に生まれたからには、その力を人助けに役立てなさい」と言いました。その言葉はポルタが空を飛ぶときに吹いてくれる“風”なのです。



 ――今の私に出来ることは何でしょうか。



 考えた後に、意を決してポルタはその口を開きました。


「……兵士さん」


 ポルタが提案したこと、それは空を飛ぶほうき配達員である魔女の考えです。魔女だから出来る精一杯の人助けでした。


 虚な目の兵士はわずかにソレを見開くと、くつくつと笑った後に言いました。


「……ありがとな、魔女さん……いい人だな……あんた」


 その後兵士はゆっくりと時間をかけてまばたきを一つ、したのです。




※※※※※




 眼下に広がるのは一面の大海原です。気をつけなければ、つば付きの帽子が吹き飛ばされてしまうほどに強い潮風が吹いています。生暖かいソレを肌に感じたポルタは満足げに頷きました。この風はきっと遠くまで運んでくれることでしょう。


 ロングコートの内ポケットから取り出したのは可愛らしい小瓶でした。誤って海へと落としてしまわないようにポルタは慎重に蓋を開きます。小瓶を傾けると中から出てきたのは少し黒みがかった白色の粉でした。


 華奢きゃしゃな手のひらに粉を乗せたポルタは、しばらくソレを眺めた後に風上へ向かって腕を差し伸べました。潮風がポルタの手のひらを捉えます。それはまたたく間に積もった粉を空の世界へと連れて行きました。


 ポルタはそれを見送ります。風に乗る白色の粉はサンサンと照る陽光に融けたかと思うと、すぐに見えなくなってしまいました。きっと今ごろ広がり続ける世界を満喫していることでしょう。 ……それはちょうど幼少期のポルタのようにです。


「そうだと、いいんですけどね」


 ポルタはつば付きの帽子を深めに被りました。太陽の光が少々眩しかったのです。


「これにて配達完了……です」


 到着日は不明、宛先も不明、お客様が喜んでいるかすら不明の荷物でした。ほうき配達員のポルタは確かにそれを配達したのです。二度と運びたいとは思えないほどにとてもとても重い荷物でした。




 ――魔女ポルタ・アルスタンが今朝運んだ荷物とは以上の通りでした。

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