make love
CHARLIE
make love
さびしい。
一人で大学の構内を歩いていたとき、そんな思いが湧いて来た。生まれて初めての感覚である。
秋の冷たい風が吹き、葉を落とした樹々をゆらした。
さびしい。
もう十月か。そう言えば空の青さも澄み渡り、太陽の光は白く午後の構内に射している。
何が変わったんだろう?
オレは軽音楽部の部室へと向かいながら考える。
彼女?
そうかもしれない。そうに違いない。
オレは高校時代からずっとモテてきた。一学期に一人ずつ、女の子から告白をされた。オレはみんなのことを好きになれそうだったから、一人も断ったことがなかった。気が付くとそれが二股、三股という状態を招いてしまい、女の子同士のけんかの原因になることもあった。それは大学に入ってからも変わらなかった。
半年ほど前。大学二回生になる直前の春休み。サークル内で四人の女の子と付き合っていることがバレた。そのうちの一人が、ある夜オレを部室に呼び出した。訪れると、そのときの彼女、四人が揃っていた。四人は口々にオレを罵ったあとで、せめて誰か一人に絞ってくれと言った。オレは返事ができなかった。四人とも同じくらいに好きだったからだ。オレは「選べない」と答えた。四人は顔を見合わせて、「やっぱり」と言った。オレを呼び出した女の子が、
「それは誰に対しても本気じゃないってことなのよ。そんなことだろうと思ってた」
と言った。ほかの三人との総意のようだった。
それきり。サークルに新しく入って来た新人の女の子たちからも、学部の新入生からも、一切告白をされることがなくなった。そうして気が付くと半年が過ぎていたことに、オレは今になってようやく気づいたのだった。
部室へ着く。灰色のコンクリートがむき出しで、八畳ほどの狭くて薄暗い部屋だ。一番奥で、春まで付き合っていた女の子のうちの二人がしゃべっている。
入口付近に座るアスカ先輩が、
「ユーキ、元気か?」
と、ハスキーな低い声で笑う。小柄で痩せていて美人な、一つ上の女性。力強いドラムの音を響かせながら、太い声で髪の毛を振り乱しながら、暴力的に叫ぶように歌う人だ。
「ええまあ」
「そーか? なんかいつもと違うぞ」
この人はしゃべりかたが男っぽい。
「コイツ、春から彼女がいないんですよ。オレたち、それがいつまで続くか賭けてるんです。アスカ先輩も賭けます?」
オレと一緒にバンドを組んでいる男の一人が言う。
「もう一生できないんじゃないですか? これまでさんざん女ごころを弄んできたんだから。罰ですよ」
奥にいた女の子のうちの一人は辛辣だ。
「でも」ともう一人の女の子は深刻な声で言う。「もし今度誰かと付き合うなら、本気で好きになる人とにしてくださいね」
この子は美和ちゃんといって、オレの部屋でセックスをしたとき、「make love」ということばが好きだと言ったことがあった。「愛を育むっていう感じがして好きなんです」と。でもオレには、セックスで得る快感も、マスターベーションの射精も、違いがわからない。だから彼女のことばがさっぱり理解できなかった。それは今も全く変わっていない。
「そんな賭け、意味ねーよ」アスカ先輩の口調はどこか尖っている。普段はそんなことはない人なのだが。「人の色恋でギャンブルするなんて、悪趣味だよ」
アスカ先輩は、部室の真ん中に置かれた、スチール製の長机の真ん中辺り視線を落としている。
「先輩、何かあったんですか?」
オレは、あまりにもいつもと様子の違うアスカ先輩のことが心配になった。
「アンタに心配されちゃあたまんねーな」
アスカ先輩は、まだ部室の入口でぼけっと突っ立っているオレを見上げ、大きな口を開けて笑う。その瞳はいつもより大きく見える。元々きれいな人ではあったけれど、この人の目はこんなに輝いていただろうか?
「先輩、もしかして……」
美和ちゃんが言う。
「ないないないない!」
アスカ先輩は両手を左右に激しく振る。
「え、あ、そうなんだ! ユーキさんが珍しくフリーだって知って、戸惑ってるんじゃないですか?」
もう一人の元カノのことばは、オレにも動揺を与える。どうか否定してくれ、と願う。アスカ先輩は、男女を問わず、オレたち後輩たちからの、みんなの憧れの人なのだ。
「だからないってば!」
「そう言えば」オレは思い出した。アスカ先輩は先輩と同じ回の男性と付き合っている筈だ。そのことを確認すると、
「いや。それは春に別れた」
と、バツが悪そうに、珍しく歯切れ悪く言う。だからってオレ、ってのは短絡的過ぎるだろう。オレなんてなんの長所もない、優柔不断なだけの女たらしなわけだし。
「アタシ帰る」アスカ先輩は突然立ち上がり、床からリュックを引っ張り上げる。ぼんやりと突っ立っているオレの横を通るとき、「絶対真に受けんなよな」
と、オレの耳元にいつもより低い声で囁いて、部室から去って行った。
そのときアスカ先輩の息はオレの耳を刺激した。オレは初めて声だけで勃起した。
そのあとしばらく部室で雑談をした。外が薄暗くなりかけてきたので、部室を出ることになった。
「ウチで飲まねえ?」
オレの仲間が言う。ほかのヤツらは賛同している。
「ユーキは?」
「オレは……」アスカ先輩のことが気になっている。テーブルの中央を見つめるまなざしも、耳元に囁いた低い声も、まだオレに動揺を残している。「やめとくわ」
そのとき背後から、
「アスカ先輩を泣かせたら、みんなでユーキさんのこと、ボッコボコにしましょうね」
美和ちゃんが言った。
オレの仲間も賛成し、嗤っている。
「なんでそう断言できるわけ?」
オレは心底不思議だ。
「お前がそこまで鈍感だとは知らなかった」
「まじそれ。よくそんなんでこれまで何十人とも付き合ってこれたよなあ」
「誰にも惚れたことがなかったからですよ」
美和ちゃんが真面目な顔で言う。オレを見ている。
「なるほどな」
みんなはその一言に納得してしまった。
およそ四か月後、二回生の後期試験が終わろうとする頃、二月の半ば。オレは初めてアスカ先輩へメッセージを送った。翌日の午後、部室裏で会う約束をした。その日、午後から雲が下がり始め、黒みを帯び、冷たい風も吹き始めた。オレは生まれて初めてアスカ先輩へ、「付き合ってください」と告白をした。アスカ先輩は返事の代わりにオレを抱きしめて、額に口づけをした。
make love
愛を育む
アスカと付き合うようになって、オレは初めてセックスから得る快楽を知った。マスターベーションとは全く違うことも、ようやく理解した。オレはアスカに夢中になった。アスカはオレの部屋へ住みついた。春休み。オレたちはサークルにも顔を出さずファミレスのバイトもサボり、ずっと二人で過ごした。セックスをすることもあれば、ただの雑談をするだけの時間もあった。たまに二人で近所のコンビニへ行った。あるとき、二人とも財布を持って来るのを忘れていたことに、レジで気づいた。オレたちは大笑いしたけれど、アルバイトの大学生らしい大きな男はねっとりとした視線で、恨みがましそうにオレたちを睨んだ。オレたちはコンビニを出て部屋へ戻りながら、その反応を思い出して大笑いをした。
何もかもが楽しかった。
真夜中。深い眠りからふと目覚め、隣で眠っているアスカの寝顔を確かめ、その微かな寝息に耳を傾けるとき、
「バラ色の日々」
そんなことばがふわりと、心の表層へ浮かび上がって来ることを感じることもあった。
オレたちは愛し合っていた。お互いにそれを疑うことはなかった。
四月。春休みが終わった。
アスカは四回生になり卒業を控えている。オレは三回生だから、まだそんなに忙しくはない。
七月に入ると、アスカは卒業論文の研究で忙しくなってきた。二人で過ごす時間が減る。オレはさびしくてたまらなくない。夏休みもアスカは研究のために、八月は丸々一か月、ゼミの人たちと合宿へ行かなくてはならないと言う。ひとつきもアスカと会えないのかと想像しただけで、オレは絶対に発狂してしまうと思える。合宿へついて行きたいとまで言った。アスカはそんなオレの甘えを、軽い口づけで慰めた。
八月がやって来た。アスカが合宿へ出かける前の夜、オレはアスカをオレの部屋へ泊まらせた。そして一晩中セックスをした。薄着をする夏。Tシャツから覗く鎖骨の下や二の腕の内側に、オレはわざとキスマークを付けた。アスカはオレのそんな我がままを許してくれた。オレは本当にアスカを愛していた。
だけど、いや、だから、アスカにはわかっていたのかもしれない。オレの弱さ、甘えを。
アスカのいない夏休み。週に三回ファミレスのバイトへ行くだけの日々。外は太陽が容赦なく照り付けるのに、心の中にはアスカに告白をしたあの午後よりも、強く冷たい風が吹きすさんでいる。今にも雪が降ってきそうに感じられる。アスカは朝晩メッセージをくれるし、ときどき話もしている。なのにこんなにもさびしい。こんなにつらい思いをするのなら、誰かを本気で愛することなんてしなければ良かった、美和ちゃんたちと付き合っていた頃のように、来る者を拒まず、気軽な関係でいたほうが良かったんじゃないかとさえ思えて来る。
そんな心を見透かしていたのだろうか。
「ユーキくん、最近元気ないね」
バイト先の主婦に声をかけられた。オレより八つ上の二十八歳と言っていただろうか。
オレはアスカがいないことを打ち明けた。
「わかる」その人は瞳を輝かせる。「ウチも去年からダンナが単身赴任でね、タイクツだしさびしいし」
嬉しそうに笑った。
どうしてこんなことになったのだろう。
その人の住むマンションへ誘われて……ネてしまった。
裸体を絡ませながら、オレはずっと、「違う、違う!」と心の中で叫んでいた。その人の胸はアスカよりずっと大きい。それもいやだ。その人の舌はアスカよりも器用にオレのムスコを這う。いやだ。その人の喘ぎ声はアスカよりもオレを責め立てる。それもこれも何もかも違う、いやなのだ。
やがてオレは射精した。以前と同じ、機械的な発射だった。
オレは「もう一度しよう」と甘い声を出すその人をベッドに残し、服を着て、そのまま自分の部屋へ戻った。
九月になってアスカが帰って来た。アスカは自分の部屋へ寄らず、真っ先にオレの部屋へやって来てくれた。オレたちは玄関先で長い口づけをし、そのままベッドへ倒れた。
「これだ……もう寄り道したりしない」
オレはアスカでないといけないことを痛感した。
そしてアスカに、あの過ち、さびしさから来た過ちを、初めて打ち明けた。アスカならわかってくれると信じていた。
「ネたの?」
「ああ。でもそのことがあったから一層、アスカでないとダメだってわかったんだ」
アスカは裸の半身を起こす。きつい視線でオレを見下ろす。
「怒った?」
オレはアスカを後ろから抱きしめる。その腕をアスカは払う。
「なんでだよぉ」アスカの声が滲んでいる。「こんなに愛してるのに。ユーキだって愛してるんだろ? なんでほかの人を抱くんだよ」
「抱いてない」
「でもネたんだろ?」
「あの人とネても、愛を育むって感じはなかった。こんな悦びを得られる相手はアスカしかいない。これまでの女の子たちとも違うって、ずっと言ってただろ?」
「じゃあなんでその人とネたんだよ」
「さびしかったから」
「アタシだってさびしかったよ。だけどユーキと同じさびしさを分かち合ってるんだって、信じて耐えたのに……」
「ごめん」
「罰だよ」アスカはすすり泣きを始めている。「これまで女の子たちを傷つけてきた罰」
「え?」確かにオレは甘えていたかもしれない。これまでの女の子たちが、同時に複数の女の子と関係を持っても、オレを許してくれることがあったから、アスカならその女の子たちよりももっと、オレを許してくれるに違いないと、甘えていたのだ。「オレのこと、愛してるんだろ?」
「愛してるから……特別だと信じてたから……もうユーキを信じられない……アタシは結局思い上がってたんだな」
アスカを引き止めることばを見つけられないうちに、アスカはひとつき分の荷物を背負い、黙って部屋から去って行ってしまった。合鍵だけを残して。
十月。枯れ葉の舞う構内を歩く。しかしオレの心はあれ以来ずっと、深い雪に閉ざされている。
「罰」
アスカが言ったとおりだ。
オレは、サークルもアルバイトもやめた。 了
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