ワーカホリックはごめんなのよ

 私は田舎町・チクフォーのオフィスで地道に働く会社員(四十代・女)。毎日ではないけれど、小さい会社は小さいなりに、いろいろな事件が起きはする。




津村つむらちゃん」

 PCの画面に注いでいた顔をあげると、松下まつした社長がカウンターの前に立っていた。私が立ち上がろうとするのを手で制して。「こないだ教えてくれって頼んだ、例のアレ──〈バーワッフル〉に送られてきたファイルの保存のやり方」

「ああ、今からお伝えしましょうか?」

「いや、おれ、これから出かけるんだわ。夕方まで戻らないよ。だからさ、画面のスクリーンショット撮ってドキュメントかなんかに貼りつけて、メールで送ってくれないかな? わかりやすいと助かる。昼飯のときに確認すっから」

 私は首肯しゅこうした。「わかりました。昼までに作って送っておきます」

「サンキュ」社長は去っていった。


 抽斗ひきだしに手を入れ、今日中にさばかないといけない伝票の量を確認する。うーん、結構多いわ。社長へ送るドキュメントを先にやっつけておいた方がいいな。

 私はビジネスチャット・アプリ〈バーワッフル〉のアイコンをクリックすると、画面を確認してから[Windows]キーと[PrtScr]キーを同時に押した。

 

 あれ?


 撮影されたら一瞬画面がピカッとなるのだけれど、ならない。私は「違ってたか、こっちだったか」と思い直して[Ctrl]キーとのセットに変えてみたけれど、やはりうんともすんとも言わない。[PrtScr]キーのみでもやってみたがだめだった。まあま、念のためエクスプローラーを開いてみようか。しかしそこに並んでいたのは過去に撮って削除し忘れていた画像ばかり。ゴミには消えてもらおう。私はそれらを次々選択して──[Ctrl]+カチッカチッカチッ──完全削除する[シフト]+[Del]。やはり画面キャプチャは一枚も撮れていない模様。

「おっかしいな……」


「ツムっち、どうしたん?」やってきたのは、同じ部署の須藤すどう君だった。口から棒キャンディーの棒が飛びだしている。

「社長にファイルの保存のやり方を伝えるドキュメントを送る約束なの。でも、画面キャプチャが全然撮れないのよ。今まではちゃんと撮れてたんだけどな」

「どれ、おれにやらせてみ?」

 須藤君が私の隣に来て、操作する。「あれ? ほんと、変だな……」

 須藤君の指の動きが段々荒々しくなる。彼はなにを思ったのか、[シフト]キーと同時押しにしたり、[タブ]キーにしてみたり[Alt]キーに変えたりといろいろ試しはじめた。

「なんだろ。うーん、わからん。再起動で戻るんじゃね?」

 再起動も虚しく、その後もなに一つ撮れはしなかった。須藤君は首をかしげ、しゃぶっていた飴を口から取りだすと、キーボードの左下から、すべてのキーを順番に押していくという意味不明の行動を取りはじめた。

「一体、それはなに?」と私は訊いた。「出荷前の検査ですか?」

「おいこら、新品の分際でいっちょ前に不具合起こしてんじゃねーぞ」須藤君はついに怒って、昔のテレビが不調を起こした際によく行われていたお約束のあの乱暴を、お笑い芸人コンビのツッコミ役がボケた相方によくやるお約束のあの乱暴を、デスクトップPCの薄型ディスプレイに対して行った。バシッ、とのである。


 私のデスクは他のデスクとくっついて島などは構成しておらず、なのでディスプレイの背後は空気あるのみ。鶴首だったので、ぐらっ──背面跳び。落下するとき、ケーブルでつながっていたデスクまで道連れにして、丸ごと「バッターン」と床に倒れてしまった。衝撃波のように飛び散る文房具たち。

「キャ────!」

「はあ? おれ、そこまで強く叩いてねえぞ?」

 須藤君の力より、薄型ディスプレイ! あんた小物のくせしてでっかいデスクをよくひっくり返せたな。そっぷが細腕一本(ケーブル数本)であんこ型横綱を下手投げかい。


 どした、どした、とわらわらと集まってくる仲間たち。部署のPCはすべて、ごく最近新しいものに取り替えられたばかりである。全員、被害総額が頭に浮かんでいるかのように真っ青になっている。「やばいよ、これ。壊れてないだろうな」

 三年先輩の矢野やのさん(女性)が全員の顔に順繰りに視線を送りながら言った。「幸い、ここには私たち部署の人間しかいないわ」

「まま、それは自明ですが……」

「これ、トンネルの霊のせいにしましょう」

 ソーリー?

「深夜のテレビでやってたのを観たの。ポルターガイストって言うらしいわ。誰も触ってなくても物が動くらしいわ」

「あのー、チクフォートンネルの霊の話は私が小学生のときに流行っていたのであって、今の子どもは誰一人話していませんよ」私はすかさず言った。「それにトンネルからここまで十キロは離れています。いろんな意味でディスタンスー」

「ツムっちはなんも悪くねえ」須藤君が言った。「おれのせいだ」

「違う! 二人とも悪くない」矢野さんの声が大きくなる。「これはヒューマン・エラーじゃないの、霊(ノット・ヒューマン)のせい、怪奇現象なのよ。社長が戻られたら、そう伝えましょう」

「社長、さっきここに来ました。PCもデスクも健在であったこと、見てます」

「それもなんとかなるよ」と一年後輩の山本やまもと君が言った。「後は僕たちに任せて。二人はここにいなかったことにしたらどうだろ?」

 自分の部署の自分のデスクにいない会社員? Two drifters!(二人の漂流者)

「そうね。しばらく第二会議室にでも行ってて。アドレナリンが収まるまで」

 矢野さんも言い、目が真剣そのものだったので、逆らえるわけもなく、私たちは部署から追いだされた。アドレナリンときたか。闘争or逃走かい。


 第二会議室にはPCがないので私たちは仕事ができず、休憩室に移動した。

 私はカップ式飲料の自動販売機に小銭を入れる。「はあー、思わぬ災難でもう夕方であるかのような疲れ具合。なんか奢ろっか?」

「おれはいい、飴があるし。それに、おれの失態なのに奢ってもらうのは」革のベンチにうなだれている須藤君。

 ミルクと砂糖の調整ボタンを押して、ブレンドコーヒーを選択する。すぐさまカラカラカラ、と音がして、カップにクラッシュ氷が注がれているのを知り慌てふためく。

「なにごと? 私、ホットを押したのに」

「『氷なし』のボタンは先に押さなきゃ」

「それはアイスの場合でしょ? ホット希望者に『氷は結構です』ってわざわざ申告させるの?」


 ポンコツ機械から顔を離すと、九十九つくも君がこちらへ向かって歩いてきていた。

「おれ、会議室に戻るね」須藤君は腰をあげ、行ってしまった。

 入れ替わりに九十九君。この人は若干二十歳の、〈変わり者〉と噂されている営業課の男性だった。態度を注意した課長に対して舌打ちをしたらしいし、昼食時にも一人ニンニクの効いた食べ物を平然と共用電子レンジに入れるらしく、同じく使おうとしている人に「お先にどうぞ」と言わないばかりか、昼休憩の十五分前にはもう仕事をやめて、五分前にはレンジの前にスタンバっているという凄まじさだった。「今どきの若いモンは」を脚光のように浴びて生きている、ありていに言って自由人で、迷惑人だ。

 その九十九君が目の前にやってきて、私の顔をじっと見る。私はその視線を避けるように取りだし口からカップをさっと取ると言った。「どうぞ」カップの中で氷がくるくる回っている。

「冬なのに、アイスコーヒーですか?」仏頂面で九十九君が訊いてくる。

「いえいえ、ホットを押しましたよ。しかし今日の私、不運がホットっていう感じ。私を中心にホットスポットができちゃってるかもよ? 気をつけなさいよ」

 九十九君は唐突に私の手首を掴んできた。手が揺れ、コーヒーが床にこぼれた。

「な、なにを……」

「津村さん、前から好きでした」

「嘘でしょ?」

「この世に嘘などない」

「いや、あるわよ!」私は声を荒らげた。「あなた二十歳よね? 知らないかもしれないけど、私、四十三歳よ。しかも結婚してます」

「旦那さんに愛なんてないでしょう」九十九君は言い放った。

「あります。これも知らないでしょうね、私、晩婚だったから、まだ結婚三年目なんですよ。アウトオブ倦怠期。いや、こんな説明必要ない。あなたと私、会話したの二か月ぶりくらいじゃない?」

 九十九君が顔を横に振りざま、舌を激しく鳴らす。「ずっと言葉じゃない言葉で会話してたさ」

「やめてよ、あなたも不具合を起こしてるの?」

 

 私は居たたまれなくなり、会社を飛びだした。もう嫌、ほんとやめて──。

 会社の斜め前には石炭記念公園がある。今日は学校がお休みなのだろうか、小学生くらいの男の子三人がスケートボードに乗って遊んでいた。私は公園の周りを走った。近くには自宅マンションもあるということで、嫌なことがあると私はよくここを走っている。嫌なことがなくても走っているランナーもいる。たまにはいいわよ。もうすぐお昼休みだし、一時間は休憩を取っていいことになってるんだから。


 あ、松下社長にドキュメントを送らなきゃ……。


 PCのこともすごく気になっていた。憂さ晴らしの、現実逃避のランはたった十五分で終了した。終了させたのだ。会社員だから、十七時半まではオフィスこそが私が走るトラックなのだわ。つらかろうと、不毛だろうと、グレーゴル・ザムザだろうと山口六平太だろうと、職務から逃げだしちゃいけない。どんなことがあっても──。


 部署に戻ると、PCは何事もなかったかのようにデスクに鎮座していた。文房具もきれいに定位置に復帰。倒れたという証拠写真を会社のデジタルカメラに収めたらしい。なにかあったら見せる、とのことだった。ドキュメントも、先に戻っていた須藤君が「おれが作って送っといたから」と言った。


 ああ、やっとこさひと安心かい。


 ほっとしたのもつかの間、松下社長から電話が入る。

「津村ちゃん、この送ってくれたドキュメント──」

「どうでした?」私は怖々伺う。

「これ、津村ちゃんが作ったんじゃないだろ」

 シュート!(Shoot!) ばれてる……。

 社長はまくし立てた。「このきったねえ画像の並べ方、揃ってないフォント、行頭インデントもしてねえ──どれもこれも津村ちゃんじゃない。津村ちゃんは図形の矢印使うときは必ず色を赤にしてくれるし、枠線なしにするだろ? この書類の矢印よ、どれも大きさがバラバラだわ、枠線はあるわ、影までついてるわ。なんで矢印の分際で影伴う必要あるよ」

「ごめんなさい」私は思わず目をつぶった。「須藤君が私の代わりに作ってくれたんです。私が悪いんです、へまをしてしまって、そちらに時間を取られてしまって」

「ああ、いいよー、別に。許してあげるよ」松下社長の穏便な調子がかえって不気味だった。きっと怒っているんだな。

「保存の方法については、伝わりましたでしょうか?」

「やり方はわかった。これでできてなかったら須藤のせいだから」


 私は廊下へ駆けだした。突き当たりまで来ると、開いている窓から顔を出して叫んだ。

「不運と不運の間隔もっと広げれー! 運命の神ー! あんたはワーカホリックかーい! 改革の必要性を訴えますー!」

 私の魂の叫びは聴かれていたし、見られていた。そばに立っていたのは、ビルの清掃を請け負っている「ピカハヤ清掃」の田代たしろさんだった。

 突然語りはじめる。「わたしゃ、今までいろんな会社を見てきたけどよ、ここの会社、たしかに変だで」

「ええ?」私は驚く。「じゃあ、私の身に降りかかった不運も、会社のせい?」

「お姉さん、スカートのチャック開いとるよ」

 それは一体、いつごろからでしょうか?

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