死ぬまでに会わなければならない、たったひとりの。
雲野古葉子
死ぬまでに会わなければならない、たったひとりの。
忘れられない。20年経っても。恋愛はその一度きりじゃなかったはずなのに。
20年も経てば人は変わる。考え方や容姿だけでなく、生活すら。
あのころ。あんなにも自堕落に過ごしていたボクが、今やふたりの子の親だ。昔の面影はどこにもない。あのころの知り合いと偶然出くわしてもきっとボクだとは気づかれない。そして。
あんなに執着した貴方の20年を、消息をボクは識らない。
一度きり、そうたった一度、風の便りで銀座の店で働いていると聞いた。セクシーなコスプレをして。いかにも貴方らしいと笑った。
それすらも、もう15、6年まえのこと。
あのころ貴方は20歳になったばかり。20年も経てば相応に様変わりしているだろう。男たちに傅かれ贅沢に慣れた女性だけが持ちうる若さ故の自信過剰。人を射るようなきつい眼差し。輝く美貌も、豊満な肢体も、衰えているに違いない。−−だけど。
ボクには自信がある。どこで会っても、きっと貴方だと気づく。人混みの中でも必ず見分ける。だって貴方はボクにとって発光体だ。街も人もすべてモノクロームに沈んだ中に貴方だけが輝いている。闇の中の夜光虫のように。
あのときも、そうだった。はじめて出会ったときも。
その日。事務所に着いた途端、マネージャーから駅まで女の子を迎えにいくように言われた。「え。仕事は」
念入りにシャワーを浴びて準備にかからないと…。
「とりあえず迎えいってきてよ。仕事はそのあと。面接の娘連れてきたら今日の段取り説明するから」
「どんな娘か知らないし。写真は」
「ん〜? なんか…なくした? とりあえず見あたらない。手元にない。…ねえ行ってきてよ、お願い。とにかく可愛い娘だから。五反田駅からココ目指して歩ってくる可愛い娘。雰囲気でわかるでしょ、ルイさんなら」
可愛いったって種類あるよなあ…。ボクの範疇の「可愛い」だったらストライクゾーンはものすご〜く狭いぞ。だいたいボクより可愛い娘なんつうのがそうそういるもんじゃなし…などと心の中で悪態つきながら、とりあえず西口に向かった。
横断歩道の向こう側。水色のスーツ。水色というどちらかといえば地味なはずの色がやけにビビッドに輝く。ビルも駅も人も店もすべてがモノクロ−ム。ビビッドな水色のスーツ。そこだけが輝いて弾んでいた。薄曇りの初秋の日に。
真っ直ぐ、ボクに向かって歩いてくる、水色のスーツ。短いスカートから突き出た真っ直ぐな長い脚。揺れる長い黒髪。ボクは横断歩道の手前、動けない。まるでピンを打たれた標本箱の虫。
ふいに声が降ってくる。
「K事務所からきたコ?」甘ったるい声に耳たぶが振動し、真っ赤になる。
そのとき、信号が点滅から赤に変わった。
「危ない」ふいに腕を掴まれて歩道側に引っ張られる。腕に触れた指先はあくまでも優しく柔らかく、でも有無を言わさない強引さがあった。
「事務所から迎えきてくれたんでしょ。だれか来てくれるはずと思ったけど、まさかキミがくるとは思わなかったな」
初対面と思えない馴れ馴れしい口調に、もとから口数の多くないボクはなにもいえない。
「背、低いんだね」
笑うとキツい眼差しが緩和され、少女のようにあどけなかった。
「アタシより低いかも。ね?」
ボクの頭をぽんぽんと叩き、微笑んだ。
「写真で見たときは、もう少し背が高いと思った」
「知ってるの?」ボクのことを?
「ウン。だってルイちゃん」
−−あたしがキミを指名したの。相手役に。
つまり、その日のボクの仕事の相手役というか「絡み」が貴方だったのだ。
面接というのは単なる口実。ボクの所属するK事務所が、AVデビューもしていて売れっ子の貴方を他事務所から引き抜いた。というのも表向き。貴方は自分の意思で在籍していた事務所を辞め、「弱小」事務所にやってきた。
彼女の言い分、マネージャーの口ぶりからしても、どうやら彼女は「ボクに会いたくて」わざわざココ、K事務所にやってきた、らしい…?
まるでキツネにつままれたような気分。「本当に? 冗談じゃないの?」
マネージャーは答えた。「うん。ホントにそうみたいよ? 彼女の話きくと。ウチの事務所にいきなり電話かけてきて、ルイさんいますか? ルイさんってただの宣伝写真の人じゃなくて本当にいるんですね? K事務所に実在してるんですね。じゃ会えますね。今からあたし、そっちの事務所に移籍します。今すぐいきますって…」
有無を言わさず、初対面でも馴れ馴れしくまくしたてる。電話口の貴方のお喋りが手に取るようにわかる。
売れっ子を引き抜けてマネージャーは嬉しそうだった。「というわけでルイさん。お仕事です」
信号で手を引かれたときの触れ方はソフトだったが有無を言わさない強引さがあった。馴れ馴れしい態度。そして、なにより熟しきった豊満な肢体。ボクは出会ってすぐ貴方を「若づくりの30女」だと推測した。ところが、案に相違して出会ったときの彼女はなんとまだ19歳だった。
肌を重ねてすぐ、彼女の若さを実感した。どこもかしこもはちきれんばかりの張りつめた肌はもちろん、行為が激しさを増し、じっとり汗ばんできたカラダは青い草のような若々しい香りを放った。それは、熟年女性特有のねっとり甘い汗の匂いとはほど遠かった。
事務所の意向で4歳もサバをよんでいたボクからしたら、実はあなたは3つも年下だった。
ボクは、実年齢を貴方に明かすことはなかった。弟のように貴方からあれこれ世話を焼かれることが心地よく、また年下女性にリードされるプレイは、かつてない鮮烈な幸福をボクにもたらしてくれたから。わざわざ年齢をカミングアウトしてそれを手放す気はボクにはなかった。
はじめての「仕事の」プレイのとき、貴方は囁いた。「不感症だって聞いてる」
ボクは焦った。「だれからの情報」
「マネージャーから。ねえ、男に犯られてばかりいるから、ダメになったの」
返すコトバがなかった。貴方がそう思うのなら、本当にそうなのかもしれない。
「だいじょうぶ。アタシ、ものすごく上手だよ。ちゃんと気持ちよくしてあげれるから…」
ボクの中心部に顔を寄せ、口づけてくる。熱い吐息、貴方の舌づかい。一生懸命だけど、テクニックがあるわけではなかった。もっと上手な舌づかいを、掠っただけで達してしまう愛撫を、ボクのカラダはいくらでも識っていた。
少し爪の長い貴方の指先はボクの秘所を少しだけ傷つけた。わずかの傷もゆるさぬよう、時間をかけて念入りに、しつこく愛撫されつづけることにボクのカラダは慣れきっている。
−−それでも。貴方の賢明さ、ひたむきさはボクにとって好ましく、涙が出るほどの幸福をもたらした。
ボクのカラダを甘やかし、常にあらたな性的実験を怠らず、毎回ベッドの上で極上の快楽と華やかなフィナーレもたらしたかつての愛人は、あっさりボクの心を虜にした貴方の存在にはげしく嫉妬し、あの手この手で陥れようとしていた。後日、そのことを貴方からも、さらにはその愛人自身の口からもボクはきくことになる。
かつての愛人がそれを告白したとき(彼女は一切謝罪しなかった。嫉妬は愛の深さゆえの証明と開き直っていた)、貴方はすでにボクの心になかった。
いや、本当はいたのだけど……。20年も澱のようにボクの心に留まって、いつも少しだけボクを傷つけるあの指先のように、消えない傷を残しているのだけど。
その愛人も、もうボクの近くにいない。消息も識らない。ボクの結婚がきまってボクの方から彼女への連絡手段を絶ってしまったからだ。
彼女とのセックスは毎回素晴らしいものではあったけど。彼女のことは、いまも単なるセフレとしか感じられない。死ぬまえにどうしても会いたいなどとは思えない。あんなに巧みな指と舌づかいは彼女のほか識らない。彼女の夫が眠るベッドのわずか数メートル先で声を立てないようにと彼女に口を押さえられながら、しつこく念入りに責められて快楽の高みに舞い上がったこと。そんなスリリングな体験を思い出せば当然いまもカラダの芯がジンとなるのに、−−心はやけに冷静なのだ。
自堕落で若い日々、ボクの最後の愛人だった彼女。
貴方のことに時間を戻そう。
貴方が仕事のプレイで着たセクシーなコスチュームのことを思い出す。チラリと垣間見ただけではげしく欲情した。仕事を放りだしてすぐさま押し倒したい衝動に駆られた。
その日の前日、はじめてプライヴェートで結ばれた。酔ったふりをして貴方の部屋で強引に貴方を押し倒し、服を引き剥がした。「なにしてるの」と貴方は不思議そうに呟いた。「我慢できないの? ダメだよ、キミの方からそんなことしちゃ…」笑いながらも戸惑っていた。ふいに見せた貴方の幼さがたまらなく愛おしくて涙が出そうになった。
ボクの方から奪えたのは強引なキスだけ。そのあとはお決まりの貴方のペース。
ベッドの上で何度もイかされた。数を数えていられないくらい。あいかわらず、上手じゃなかった。舌も指先もまるで初心者。爪で肌が傷ついた。でもひたむきで一生懸命で。泣きながら達した。何度も。
貴方は幼く、あどけなかった。おそらく義務教育時代から「そんなこと」ばかり浸っていたのだろう。たぶん、貴方は(貴方も)「愛される側」だったに違いない。識ったところでボクは能動的に動けない。動けたとしても、貴方の方はボクを写真で見初めたときから「愛する側になろう」と決めていた。いままで、自分がされていたように、ボクを愛そうと。そう決心してココにきた。
貴方のいったいなんだったのだろう。その決心は。
贖罪?
貴方は自分の生き方を少しだけ(実際にはかなり多く?)恥じていた。30女の不貞不貞しさを模倣しながら(30女も貴方の愛人のひとり?)、真実の貴方は、たよりなく不安げな幼子だった。
だから、セックスのときの舌づかいも指先も、あんなにも稚拙だったのではないか。
数をこなしている。そんなふうに装いながら。−−いや、実際に数をこなしていた。ボクと同じくらい?(実はボクの方が多く?)
でも。
きっと楽しんではいなかった。肯定してはいなかった。「仕事」を。「プレイ」を。「セックス」を。ボクのようには。
たまたまそんなふうに生まれついた。そんなにも「この仕事」のために恵まれすぎた豊満な肢体を持ってしまっていた。いくつかの出会いがあった。学校が好きではなかった。勉強が好きではなかった。家族が好きではなかった。でも、本当は…。
「家族に会うの」その日の貴方はいつになく真剣だった。けれど、目をそらしながら貴方はいった。「一緒についてきてくれる?」
「いいよ」とボクは即答した。
「ご両親に、この人と結婚しますって紹介する?」
「馬鹿なこといわないで」冷ややかな声だった。「ただ…、家族は私を誤解しているから、ルイみたいな子を連れてけば安心するんじゃないか、って」
安心させたいの。家族を。そう呟いた。
その日は、貴方の20歳の誕生日だった。
ボクを見た貴方の家族は少し驚いていたけど、眼差しは温かかった。慈愛に満ちてもいた。
彼女の態度は普通だった。普通というか、優しくも冷たくも、憎しみも愛もなにもなく。しいていえば、事務的だった。
16歳からひとり暮らししている娘がどうやって生計を立てているとか、金回りのやたらよすぎる娘を、どんな気持ちでご両親は見ていたのか。気性の激しい難しい娘を、遠くからただ見守っていたのか。
この人をしあわせにします。とあの日、ボクは貴方の両親に誓った。心の中で貴方を一生大事にします、と。
数ヶ月のち。ボクたちはもう一緒にいなかった。たった3ヶ月、一緒に暮らした。いっぱいセックスした。でも、一生分にはぜんぜん足りない。
死ぬ前に。どうしても言いたいの。貴方が、貴方だけが好きだった。
貴方をしあわせにしたかった。
ずっと一緒に暮らす。結婚する。どうしてダメだったの。それはボクが……。
20年経って。「ボク」なんて青臭い自分呼びはとっくにやめている。
今は。子どもたちからも、伴侶からも「ママ」って呼ばれてる。
あのころ。セックスの下手な貴方に愛されながら、ずっと貴方の、貴方だけの騎士(ナイト)になりたかった。
カラダばっかり成熟してて、セックスの超下手くそな、年下の、ボクの女王様。
ねえ。いま、どこで何してる?
死ぬまえに。一目だけでいい。ねえ会いたいよ。
死ぬまでに会わなければならない、たったひとりの。 雲野古葉子 @applestripe113
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。死ぬまでに会わなければならない、たったひとりの。の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます