第1話 プロローグ~

 天は知を映し、地は天を映し出す。

 そこにあるのは鏡。

 対面するかのように向き合わされた丸い鏡が、それぞれを互いに写し取っている。

 丸さは平面からおうとつを持ち立体的な丸みを帯びた。

 それらは一つの巨大なあるものを中心として、まるで卵の真っただ中にそれを囲い込むかのように、殻に閉じ込めるかのように締まっていく。

 世界は透明な幕に包まれ、幕は鏡と鳴り、鏡はわずかな光をどこかから取り入れ、まばゆいばかりの光源へと変化する。

 熱を帯び、激しく振動した内部の空気は幾度も幾度も揺さぶられて、白光のなかに数千の紫電を生み出した。

 雷とそれに晒されるだけでありとあらゆるものが灰と化す熱量を帯びた終焉の兆しが、情けというものをすべて取り払ったかのような幕のなかで、その中心にあるもうすぐ目覚めようとしていた化け物を灼殺する。

 数億の雷光が煌めき、それは天上天下のどちらかも鏡を通じて永遠に近い時間を、駆け巡るかのように思わせた。

「なんだ、この地獄は」

 蒼い獣人のたくましい腕に抱きかかえられ、黒髪の少女のような存在は目を見開いて驚愕の声を上げた。

 あの鏡の幕の向こう側では、死滅させることすら難しいと予見されていた伝説の魔獣があっさりと。

 それでいて、荘厳な雰囲気と静けさと共に、滅されていくのが見えた。

 普通の人間ならその光の奔流で目が潰されてもおかしくないはずなのに、不思議と幕のこちら側には熱も雷の気配すらも漂ってこない。

「なんだ、あの技は」

 再び、彼は呻いた。少女の声は、彼女ではなく低い少年のものだった。

「なんなんだ、お前は! アレックス‥‥‥!」

 その存在を咎めるかのように、腕に抱かれたまま黒髪の彼――イオリは呻くように疑問を口にする。

 こんな鮮烈な光景は、あまりにも凄惨すぎて他の仲間たちには報告できない。

「俺は俺だ。お前がお前だって言うように‥‥‥俺が、怖いか?」

 いくばくかの恐れを含んで。

 罵られ、忌避される未来を予想して。

 蒼い髪と青と白の獣耳とその尾をもつ獣人は問うた。

 まだ十代に見えるイオリとは対照的に、その顔にはすでに皺が深く刻まれており、彼が若くないことを示していた。

「いいや。いいや、ない。それは‥‥‥ない。私も同じものを見て来た。それはない」

「そっか」

 宙に浮かび、足元にはまだ灼熱の幕内で最後の断末魔を上げる魔獣のそれを耳にしながら、もう片方には自分の義理の息子を抱いてアレックスは空に立っていた。

 いままでの戦闘の後遺症で一時的に動けないイオリは、獣の母親に首元を咥えられ運ばれていく子供になった気分で、その状態に甘んじる。

 否定でもなく、拒絶でもなく、肯定よりもより強い受容の言葉。

 私たちは似た者同士だ、と言われたような気がして、アレックスは違いない、と頬を上げて笑っていた。


第一章 

第二話 塔の女


 二日前――。

 随分と、雨の多い夜だった。

 しとしとと降るその水かさは、やがて量を増し、ざあざあと音を立てて地面を打ちつける。

 まるで世界の不快さを音にしたかのように聞こえたその中に、一際、ドスっ‥‥‥ッと鈍い音が降ってきた。

 地面は固く石畳が敷かれていて、落ちてきたそれはどうやら硬さ比べには負けたらしい。

 柔らかく全身を覆っていた肌は打ちつけられた威力に耐え切れず、張り裂け、中身を辺り一面にぶちまけた。

 赤と白とその身にまとっていた布の色が、灰色の石畳の上に賑やかな彩を加えていく。

 肉体から漏れ出した大量の血液が、その場に雨と混じり合って血の池を作るのに、数分とかからなかった。

 しかし、あいにくの雨。

 天を薄黒く分厚い雲が多い、三連の月はその向こうに姿を現していても、地上まではその光を届けることすらできない始末。

 そこはカルサイトと呼ばれる、西の大陸の端にある、まだまだ文明の発展途上にある街だった。

 死体にまだ意識がもしあるなら、うつぶせの状態を起こして仰向けになれば、周りに何があるかが見えることだろう。

 左右にずっと続く灰色の石畳み。

 両側には高くそびえる数百から千年を数えそうなふるぼけた石壁と、その手前には最近この街にも及んだ文明というものがもたらした、ガス灯の高い柱が定期的な感覚を開けて立っている。

 しかし、その弱弱しい光では地上にまでその光をすべて届けるには、至らない。

 上を見上げれば両目の視界にはいるだけで高く天を突くようにそびえる尖塔の数々が見て取れる。

 カルサイトは別名、塔の街とも呼ばれ古くは千年前から建てられたという塔も、街の名物として知られていた。

 もし、まだ意識が残っているならば。

 彼女は自分が落ちてきた真上にある塔を見上げて、そして天に向かい手を伸ばしてこう救いを求めただろう。

「魔王、さま‥‥‥」

 と。

 地面を浸す血の臭いにつられてか、この地方に住むサソリが大量にそこかしこの岩の隙間や地面の穴という穴から沸いてでてくる。

 本来なら真っ赤なはずのその背中に珍しく、その一部が真っ蒼な種類も混じっていた。

 赤と白と赤と青の混雑。

 西の大陸の北部で名を知られた魔王の部下が死んでいくのを、塔の上から見下ろしている幾つかの目が合った。

 それらは互いにうなずきあい、彼女の――リタ・エゲナーという名を持つ魔王の部下の死を見届けると、静かに闇のなかへと消えていく。

 明日の朝には死骸に群がったサソリたちが肉片を跡形もなく食してくれていることだろう。

 他殺とも自殺とも、その区別がつかないほどに‥‥‥。

 しかし、消えていった影たちは見落としていた。

 そのいくつもの色どりの中からより、極彩色の小指ほどにしかないまばゆい輝きを持つ球体が飛び出したことを。

 数度、死体の上を行き来し、それからなにかを決めたのか、一瞬またたくとそれは北の空めがけて、静かに飛び去っていった。



第三話 蒼い獣人

 夜と朝のはざまで夢の微睡に溺れていると、近くでパタンっと物音が聞こえた気がした。

 遠くからパタパタぱたぱたと数人の足音がする。

 それは小さな体格で、そう――仔犬よりは大きい。

 ゴブリンよりも大きいが、それほどあくどいというわけでもない。

 中型犬が立った程度の背丈で、生まれてまだ数年という幼さを持つだけだ。

 ただ無邪気さという神から与えられた暴虐を尽くすだけであって‥‥‥決して、悪意あるものではない。

 しかし、朝早くはそろそろ勘弁して欲しい。

 アレックスは巨大なその体躯を乗せるには小さく見えるダブルサイズのベッドの上で、青と白のまだら模様に染まった狼の耳を前後させた。

 さあ、来るぞ。一、二、三‥‥‥。

 数えた通り、四になるまえに彼らは到来する。

 彼の家には扉を閉めるというルールはない。娘夫婦はそうでもなかったが、彼の自室にはそんなものは儲けていない。

 だから、「わーっ!」と明るいはしゃぎ声とともに飛び込んできて、そのままベッドの上に寝そべる祖父の腹や胸の上にジャンピングする孫たちを遮るものは何もなかった。

 三人。三つ子の兄妹たちは、同じように跳ね、同じように着地してから、口々にそれぞれ思っていたことを口に出す。

「おじいちゃん、おはよう!」

「おめでとう! 今日だよね」

「ばっか、違うよ。明日だよ!」

「あれ、そうだっけ?」

「そうだよ、エルゼは忘れ物ばっかり」

「そんなことないよ。アーシタの方が多いじゃない。先生だって言っていた」

「俺よりロンメルの方が多いよ!」

「僕は‥‥‥」

 と、一番気弱だが最初に生まれた長兄が次兄に口ごもると、末妹のエルゼが「そうそう」と次兄の肩を持つ。

「おいおい。俺の上でケンカは止めろ。それから、ロンメルが一番上のお兄ちゃんだ。年上にはちゃんと敬意を払うんだ」

「おじいちゃん、古いー」

「ほんとう。生まれた日は同じなのに」

「僕はどうでもいいよ」

 三者三様。一卵性三生児は本日も賑やかだ。

「あーはいはい。俺の定年退職は明後日だ。だから、もう少し寝かせてくれ、な?」

「それより、テレビ! なんかやっているよ。白骨死体って」

「白骨死体?」

 まだ眠いのに、それは無視されてしまい、アレックスはベッドから居間へと連行された。身長は百八十あるかないか。暑い胸板に、ぶっとい腕、上半身裸で下はスウェット一枚だが、その腹はきっちり八つに別れている。

「なんだ、今朝見つかったのか」

 ベッドの側に置いてあった腕時計のような何かを左腕に装着すると、それはパネル式になっていて数種類の波形を描き出す。

「正常だな」

 そう呟くと、頭上にある狼の獣耳。白と青に彩られたそれを後ろに向けたまま、三人の孫と共に長椅子に腰を据えた。左にアーシタ、右にロンメル、真ん中にエルゼが座りいつもの特等席が完成する。

「また起こしたの? この子達ったら」

「いいよ。エマも忙しいだろう。面倒は見ておく」

「ごめんなさい、お父さん」

 壁面のテレビの向こう側、キッチンから娘が顔を出した。その頭には獣耳はなく、黒髪と鳶色の目をしている。

 その向こうからは、「お父さん、すいません。もう出ます!」と、娘婿のフランが挨拶をしたが、そちらも枯れ草色の髪に苔色の瞳をしていて、人間だ。

 必然、孫たちにも獣耳も長い立派な狼の尾もない。

 エマは養女でフランはその夫。どちらも人間族だった。いま出て行ったフランを含めても、この家のなかで異質なのは‥‥‥アレックス。彼だけだった。

「今日のニュースです。塔の街として知られるカルサイト市の路上で、死体が発見されました。遺体は損傷がひどく、警察や総合ギルドではこの遺体の持ち主を‥‥‥」

「総合ギルド? なんでうちが」

 父親似の男ども、母親似の孫娘をあやしながら、八歳になる彼らと共に、アレックスは大きく首を傾げた。祖父の真似をして孫たちもまた、それぞれに首を傾げる。

 エルゼがふいっと立ち上がり、考え事をしていると右に左にと深く揺れる祖父の尾を撫でて「よしよし。お前は落ち着くのよ?」なんて言いながら抱きしめていた。

「総合ギルド?」「なんで? 警察は?」と、兄たちは不思議そうな顔をして祖父を見上げている。

「さて、なんでだろうな?」

 一番、俺が知りたいぞ。その理由を。

「どうやら死因は自殺と見られており、人通りの少ない裏路地に遺体があったことからも、飛び降りた日は数日前と見られている模様です」

 画面がナレーターから現場へと切り替わる。

 白黒の映像しか映らないそれだが、陰惨な事件現場まで子供たちに見せるのは教育上よくない。

「お前ら、そろそろ学校に行く支度をしなさい」

 アレックスはリモコンを手にすると、そっとチャンネルを変えて孫たちに促した。

「えー」

「はーい」

「なんでギルド‥‥‥?」

 と口々に言って孫たちは散っていく。

「どっかの国の高官でも死んだかね? 内務調査まで回って来なきゃいいんだが」

 しかし、一瞬だけカメラに映り込んだギルド職員の中には、見覚えのある同僚の顔があった。

「お父さん、明後日のことなんだけれど。早く帰宅できそう?」

 壁向こうからエマの問いかける声がする。

 明後日。

 アレックスは四十歳の定年退職を迎える。その記念を祝おうと、家族全員でささやかなパーティーをしようという話になっていたのだ。

「局に妙な調査が入らなきゃ、どうにかそうだな‥‥‥十九時には戻れると思う」

「なら、その頃に用意できるようにしておくわ」

 孫たちが食卓を囲み朝食を食べ始めたのを確認すると、アレックスは自室に向かった。

 ベッドの上を丁寧に整頓し、ブラシを取り出すと自慢の尾にそれをかけはじめる。

 寝癖であちこちが爆発していたそれがようやく整う頃、孫たちを連れてエマが先に出るわ、と玄関先で声を上げた。

「ああ、わかった。気をつけてな」

 そう一言返すと、衣装棚を開き、ギルドの制服‥‥‥ではなく、クラッシックスーツを取り出して、それをいそいそと身に纏い始めた。

 尾はお尻よりも少し上にあり、そこだけシャツの穴から出すとスボンにはかからずに済む。ジャケットを羽織り、ワイシャツの袖口を止め、ネクタイを結んでから用意は整う。

 そのまま革靴にスリッパから履き直すと、壁にかかったいまは亡き相棒と両親の写真に挨拶をして、玄関の施錠をする。

 おとといからの雨が綺麗に止んで、視界の空を初夏の入道雲が占拠していた。

「この初夏の時期に、死体が何日も発見されないなんてことはまずないだろうしなあ」

 そうぼやくと、中古で手に入れた四枚ドアの箱型の車をガレージから引っ張り出して街を流すこと十数分。中央通りにある総合ギルドビルの前は、朝のこの時間になるといつも混雑している。路面には線路が敷かれ、その上を蒸気機関車が止まった車の合間を縫うようにして走っていく。窓を開けていたらあの黒鉛が紛れ込んでスーツに煤が着くから、多少の暑さは我慢する必要があった。

「なんかおかしい‥‥‥嫌な朝だ。市内の魔力も曇ってやがる」

 蒼い狼の獣人はその身に風の精霊を宿している。

 彼らがよどんだ大気を嫌うように、アレックスの尾もまた不機嫌に揺れ、そこから漏れ出した魔力は腕に付けた装置の波形を大きく乱した。

 この装置はアレックスの魔力を制御する役割を果たしていた。

「俺は機械に制限されなきゃ生きられない獣人かよ、まったく」

 暑さと共に辟易するようにぼやく。

 しばらく待って渋滞を抜けると、ギルドビルの地下駐車場の車を押し込んだ。

 暑さで脱いだジャケットを片手に取ると、忘れていたと思い出し、腰のベルトに二つ、ホルスターを通す。そこには二挺の拳銃が収まっていた。

 そのまま窮屈な車体から大柄な肉体を押し出すと、地上へと向かう階段に足を掛けた時だ。

 仕事用ではなく、私的な用事に利用するための通信器具。

 俗に言われる双方向対話式携帯用魔道具。携帯が鳴ったのは。

 長方形の薄い金属板のようなそれの一部に発信番号が表示されている。

 相手は見覚えのない、というか公衆通信魔道具からの発信だった。訝しみながらそれに出る。

「はい、俺だ」

「アレックスか!」

「ああ、ドンか。どうした久しぶりだな」

「至急、会って話したいことがあるんだ。時間は空いてないか?」

「時間? いや、いま忙しくてな」

 相手は軍隊に所属していた頃の戦友だった。急いでいるようには見えないおっとりとした声で話すものだから、こちらとしてもそんなに急用ではないのかもしれない、と思ってしまう。

「どうだ、明後日は? 俺の引退する日だよ。良かったら家に来てくれ、招待する」

「いや、そうしたいんだが‥‥‥ああ、だめだ。また連絡する」

 それだけ言って、通話は切れてしまった。

「なんだ?」

 まあ、招待はしたし、また掛けてくるだろう。

 あと二日。

 何事もなく終わって欲しい。そう祈ると、アレックスは階段を上がり始めた。


 彼の職場はビルの高層階にある。

 華やかなギルドの受付嬢たちとは真逆の、堅実な捜査が売り物になるそんな場所。

 表の世界で華々しく活躍するギルドの冒険者たちが不正を働いていないか、その遂行した任務内容に虚偽の報告がなかったかなどを探索するのが、内務調査局の役割だ。

 アレックスはその中でも、外務部と呼ばれる外国から国内に持ち込まれた事件処理に関して調査をすることを専門にしていた。

 朝一のミーティング。

 その議題はもちろん、あの飛び降り事件だった。

「二日前だ。雨とサソリのせいで死亡推定時刻の判別に手間取ってな」

「サソリ? どうしてそんなものが」

「やつら、何でも喰っちまうんだよ。魔力も服も遺体も‥‥‥遺されたのは白骨死体だけだ」

「……惨いな」

 会議室の画面には立体的な映像が映し出されている。さまざまな角度の写真などもそこには含まれていた。

「誰なんだ?」

 その場の責任者が分からん、と告げる。

「サソリが魔力反応や痕跡ごと丸のみしちまった。当人かどうかの判別も怪しい。だが遺留品の持ち主は‥‥‥」

「なんてこった」

 アレックスはそこに投影された女性の写真を目にして呻いた。それは彼の知り合いで、さらに戦友の娘だった。

「メイル・バナーシー。市立図書館の司書をしている、二十六歳。昨日、遺留品の身分証明書に登録されている住所に警官をやったが、当人はいなかった。同居している家族の話では、二日前から戻っていないそうだ」

「つまり、当人で間違いなし。そういうことか」

 ならいいんだがな、と責任者は渋そうな顔をする。

 さっき彼から連絡があったのはこのことかと、アレックスは納得した。メイルはドンの、娘だ。父親としては‥‥‥いや、連絡してくる必要があるか? それも困ったこと? どういう意味だ、と眉根を寄せる。

 その答えは次の瞬間、明らかになった。

「姉がいる。リタ・エゲナー、二十六歳。メイルとは一卵性双生児で、見た目もうり二つ。魔力反応もうり二つ。二日前から行方不明らしい」

「ああ……」

 ドンの要件はそれだったかと理解する。

 くそっ、切らずに聞いておけばよかった。

 あの焦り方は、姉の方が行方不明になったままだからだったのだ。

 なんとなく手遅れだという感覚が胸の奥に生まれてくる。ここは犯罪も多い田舎町なのだ。女性が行方不明になって二日も戻らないとあれば、その多くの結末は――死が待っている。

 知人の不幸に顔を曇らせるアレックスに、上司は「悪いんだが」と前置きを付けて新しい命令を下した。

「このリタ・エゲナーは‥‥‥魔王フェイブスタークの部下だそうだ。知っていたか?」

 明らかに知っているな? という口ぶりだった。

 リタは内務調査局ではそれなりに有名人だ。魔王軍の将校として、このカルサイトの街で兵士募集などの事務所運営をしている。王国の中枢ともつながりが深い女性だった。

「ここに居る奴なら、誰でも知っていますよ」

「なら、話が早い。外交特権の問題で魔王軍に捜査権を譲ることになる。二日後だ。それまでに」

 なんだ?

 事件を解決しろ?

 そんな短期間でか、無茶を言うな。

 そう反論しようとしたら、違った。

「あちらから専任の捜査官が今夜、到着する。二日間でいい、街を案内してやってくれ」

「捜査は‥‥‥?」

「魔王ごときに好き勝手されてたまるか。ここはギルドの足元なんだぞ」

 つまり、どうにか口実を付けて捜査期間を引き伸ばしたいらしい。

 魔王軍の関係者を捜査に極力関わらせるな。

 それは残り二日間で引退するアレックスに課された、最後の任務になりそうだった。


第四話 魔装人形

 朝、と呼ぶにはまだ肌寒く、朝陽すらも注ぎ込まないその部屋で、イオリはくぐもった声を上げた。

「ふ? ぐぐっ‥‥‥ふぐ」

 なんだ?

 顔の前に何かいる――息が、鼻の奥に――なんだこれ。このガザガザとした毛ざわりこれは――。

「ってもう、フィービー!」

 目を開いたらそこにあったのは、真っ白な海原だった。

 いや、違う。雲の中でもない、これは飼い猫の‥‥‥長毛種の真っ白な猫の尻尾だ。

 そう気づくのに数舜を必要とした。こいつがベッドのうえにあがってくることなんてめったにないのに。驚きでそれを押しのけるのを忘れてしまったほどだ。

 猫はフッ、と鼻を鳴らし、ふあああっと大きく伸びをすると飼い主の胸の上で毛づくろいを始めた。

 こうなるとなかなか退いてくれない。

 ベッド脇にある置時計を確認すると、朝の六時をちょっと回った頃だ。

 起きるにはまだ少し早い時間だった。

「なんでそう私の夢見の邪魔をするんだ、お前は。悪い子だ」

 両手で掴み、上半身を起こすと、猫をゆっくりと床の上に降ろしてやる。彼女はちらっとこちらを見上げてから面白くなさそうにどこかに行ってしまった。

「……なにの夢を見ていたんだっけ」

 俯くと垂れてくる髪が面倒くさい。手櫛で後ろにやるも、細くて量が多い自前のそれは、また胸元まで黒々と上半身を染めてしまった。

 陽光を自然に取り入れるため、寝室の窓にはカーテンを着けていない。

 そこに映し出された自分の姿を見て、イオリは「はあ……」と盛大なため息を漏らした。

「もう少し、こう。男らしく胸板が厚くなったり、筋肉がついたりしないもんかな」

 種族、というよりは一族の習慣に倣い、髪は常に背中まで届いていなければならない。そのせいもあってか、女性に見られることも多い毎日だ。

 背格好も百六十とあまり高くなく、見た目だけならば、黒めに黒い瞳の美少女がガラスの向こうからこちらを見返している。猫のようだと形容される目元は二重で目もとが薄いせいか、たまにいつも怒っているようだと言われてしまう。薄い唇に透けるような白い肌、高い鼻梁もまた人を寄せ付けない理由のせいだろう。

 そして何よりその頬骨あたりから、顎にかけて二本の線が縦筋を引いている。

 両方に二つずつ。合計、四本のそれは、見ようによってはタトゥーのように見えないこともない。

 この容姿を持つ者は、魔族でも神族でも、精霊や妖精は愚か、人の世界でも忌み嫌われて蔑まれる。

「魔装人形、か」

 自分たちの種族と言ってもいい、その形容詞を呟くと、普段から寝るときは一糸まとわない生まれたままの姿で眠るイオリは、ベッドから起き出して、全身をドレスルームに置いてある巨大な鏡に映し出した。

 少女のような裸身。

 無駄な贅肉も無く均整の取れたその裸は、神が岩から削り出した天使たちのような美しさを見せていた。

 しかし、胸はなく男性か、女性かを決める性器もまたそこには見当たらない。

「もう少し男性と分かる容姿に設計して欲しかったよ。魔人様」

 創造主にそう愚痴をぼやくと、渋い笑みを鏡の自分に一つ残して、イオリは仕事に向かう準備を始めた。

 マンションのどこかにいる猫のエサを補充し、砂場を清掃して今朝が生ごみの収集日だったことを思い返し、指定のゴミ袋に燃えるゴミだの生ごみだのを詰めてから家を出た。

 黒髪を後ろで結いひとつにまとめ、魔法使いの被るような柄の部分が青く染まった黒のとんがり帽子を目深にかぶる。

 合成繊維の白いズボンに、上からワンピースタイプのチェニックのようなものを被り、その上からメッシュがついた防弾性の薄い胴衣を着込んで、さらにそれが隠れるように藍色のジャケットを羽織る。

 別にイオリが女性士官の制服を着ているというわけでもない。これが、魔王軍の制服だというだけだった。

 腰から細剣を吊るす大柄のベルトを吊るすと、あとは軍靴に足を入れて準備は完成する。

 上着の左胸部分に魔王軍の将校である階級章が縫い付けられていて、どうにも威圧的に見えそうなが、イオリは好きではなかった。

 魔族の生きる魔界は地下にあり、しかし、地上にも魔族は棲息する。

 イオリは地下の魔界で生み出された、数百体現存する魔装人形の一体だ。そして、自身で考え生きることのできる、独立した生命体でもある。

 主を変え、生きる場所を変え、いまでは西の大陸に生きる魔族たちの王、フェイブスタークの下に仕えることで、生計を立てていた。

「明後日は久しぶりに外食だね」

 玄関横の靴箱の上に飾ってある妻の遺影にそう告げてから、部屋を後にした。

 住んでいるマンションは軍の借り上げている高級将校用の寮になっていて、そこのロビーには魔都グレイスケーフ各地にここから往復する専用の車両が待機している。イオリはいつもと同じく、西の駐屯地往きに乗り込んだ。

「おはようございます。一等捜査官」

「おはよう」

 まだ若い運転手は、オーガ族の若者だった。

 額から突き出した二本の角が、まだまだ伸びそうなほどに艶で光っている。車内に常備されている飲み物から何を選ぼうかと冷蔵庫に手を伸ばそうとした時、イオリに一つの黒い革で装丁された冊子が渡された。

「司令部よりこれが届いております」

「……なに。いきなり‥‥‥」

「あ、いえ。さきほど転送されてきたものですから。その、自分の階級では開くことできません」

「ああ、そういうこと」

 軍事機密保持の為に、冊子にはそれを検めることのできる権限が付与された者しか開けない仕組みになっている。

 手をかざし、魔力を注いで権限を付与されていることを確認すると、冊子は自動的にぱらりと開いて空中に文字を並べた。

 そこには仔細を述べた命令書と、身分証明書、そして旅券が一つ‥‥‥これは紙製の物が挟まれている。

「なんで私なんだ」

 イオリは呻いた。

 そこにはグレイスケーフとは真逆の大陸の南側。

 オルブレイン公国と言う名前のまだまだ発展途上に近い、獣人や人が住む公国の名前がありカルサイトという田舎町に飛ぶように、との指示があった。

「明後日は命日なんだぞ? 上は何を考えているんだ!」

 呪いをかけるように上司の名を小さく叫ぶが、それは本気ではない。

「戻ってくれ」

「は? DASISには?」

「行かなくていい。戻れ、準備をしてくるから待っていろ。それから空港だ」

「はっ!」

 DASIS――魔王軍犯罪捜査局の捜査官、魔装人形イオリは、一時間後には空の旅人になっていた。


第五話 オルブレイン公国

 指令に従いオルブレイン公国に唯一ある、飛行船の発着場に到着したのが昼過ぎの事。魔都よりの定期便は日に六本しかなく、今夜までに現地の魔王軍出張場に入るようにと指示を受けていたから仕方なく特急を使用する羽目になった。

「……転移魔法を使えばすぐなのに」

 飛行船乗り場から、この国では多分、最先端。魔都においては半世紀以上昔に製造された車両の模造品ともいえるタクシーを利用して、さらに車に揺られること三時間。

 足場は悪く、悪路はイオリのお尻と精神と嫌というほど削ってくれた。

 ようやくカルサイトの街に入り、予約しておいたホテルの前まできて降りようとしたら、高額なチップを寄越せという。荷物を降ろして欲しいか、それともチップを払うか、なんならその美しい身体でも良い。嫌ならこのまま荷物をセダン型の車両のトランクに入れたまま去る、と脅すから差し出した手を軽くひねってやったら運転手は席を飛び出し、あわてて荷物をそこいらに放り出すと、悲鳴をあげて逃げ出してしまった。

「おーい‥‥‥チップは要らないのか?」

 素早い逃げ足に感心しながらタクシーを見送っていたら、犯罪の温床とも名高いこの街は、表通りの一等地にあるホテルの前ですら、昼間から平然と置き引きをするものがいるらしい。

 タクシーから降ろされた四つの旅行鞄は、ふと目を離した隙に搔っ攫われていた。

 そして、その辺りの路地に四人の男たちが各自、別々の方向に逃げ去っていく。

「さすが、田舎だ。ここまで治安が悪いとは思わなかった」

 見渡せば、四つ辻には必ず制服警官がいるし、ここは一等地だけあって各国の領事館やその出張場、役所や公営カジノ、総合ギルドのカルサイト支部ビルも周囲にはあるというのに、彼らは仕事をしようとしない。

「大した税金泥棒だな。おーい!」

 制服を着た男たちに「荷物を盗まれたんだが」と苦情を唱えたら見下したように、鼻先でせせら笑われた。

「魔王軍なら、自分で取り返されては?」

「差別をするのか。私はこの国へさっき来たばかりだぞ? それも正規の――」

 手順を踏んで、と言う言葉は手ぶりで却下された。もう聞きたくない、勝手にやれ、俺たちは知らない。そんな素振りだった。

「……依頼はしたぞ」

「知らないな。ここでは誰もが善人だ。悪人はいない。裁けるものなら好きにすればいい」

「その言葉、覚えておくぞ」

 見て見ぬふりがこの国の正義なら、こちらはこちらの正義を履行するまで。

 イオリは腰から細剣を引き抜くと、己を中心として半径百メートル、高さ二十メートルほどの半円状の結界を生み出す。

「おいっ待て! なんだこれは?」

 どこかで悲鳴が沸き上がった。

「心配ない。ただの索敵用の‥‥‥結界だ。無害だよ」

 陽光を遮るような薄く黒い結界のそれを不気味そうに見上げる警官を無視すると、イオリはその中にまだあるはずの自分の荷物たちを探り始めた。


 飛び降り自殺の現場に到着し、付近に未確認の遺留品などはないかと現場検証を行っていたアレックスたち、内務調査局のメンバーがそれを目にしたのは、昼下がりのことだった。

 大気にぴりっと電流のようなものが一瞬走った。敏感な獣人の尾はその気配を感じ取り、ぶわっと膨らんで持ち主に異常を伝える。

「なんだ?」

 誰かが「おい、見ろ!」と叫ぶのが聞こえた。そちらに向くと、市内に黑いドーム状のものがいきなり出現したように見える。その中を、剣を抜いた人が早足で逃げていく市民を追いかけているのが見て取れた。

 この街で剣を持ち歩くことが出来る者は限られている。

 警官か、衛士か、それとも冒険者だ。

 最後だとしたら、また自分たちの後始末が増える。

 班長が叫んだ。

「検証は一旦、中止だ。市民を守れ! どこのギルドの登録者だ、酔っ払いが!」

 瞬時の判断でメンバーは個々に銃を引き抜くと、犯人とおぼしき人物へと駆け出していく。アレックスもまたホルダーから二挺の拳銃を両手に持つと、獣人の能力を生かして高い跳躍とともに、隣のビルとビルの合間をコウモリが飛び往くように駆け抜けた。

 壁を蹴り、屋上を跨いで真っ先にその人物に追いついたのは自分だと気づくと、威嚇射撃をしようと銃口をそちらに向けた。

 ここでは警告なんてものは必要がない。

 怪しければ撃ち、足止めをしてから考える。それで大抵のことが済むくらい、カルサイトは治安が悪い。そして、いまもまさにそんなチンピラか、もしくは冒険者が犯罪を起こしているのだと獣人は空を駆け、銃を標的に向けながら、そう考えていた。

「――っ女?」

 しかも、冒険者じゃない。

 魔王軍のそれとわかる恰好をしていた。逃げているのはまだ若い男たちで、彼女の持つ細剣の腹で打ちのめされては地面へと倒されていく。

 その手並みは見事なもので、少女はものの数秒で追いつめた男たちを、叩き伏せていた。

「おい、動くな!」

 魔王軍の関係者だとわかると、話は違ってくる。警告を発し、それでも従わないようなら弾丸をお見舞いすることになるだろう。その際の、安全は保障しかねた。

「獣人か」

「なんだと?」

 彼女は特に珍しくもないというようにつぶやき、男たちが背負っていた荷物を回収していく。まるでこちらのことを意に介していないようだった。

「動くなと言っただろう! 撃たれたいのか?」

「……やれるものなら、やればいい。私は私の正義を履行しているだけだ」

 正義を履行している? まるで酒に酔った冒険者崩れの世迷言のように聞こえた。集めている荷物だって誰のものだか分かりはしない。相手がそう言うのならば遠慮は無用だ。

 アレックスは構えた銃口の一つから、威嚇の意味を込めて四発の銃弾を発砲する。二発は、彼女の足元付近に。一発は、これから取ろうとしている大きめの旅行鞄と彼女の手の間の空間に――それは地面に当たって跳ねた。もう一発は、彼女がこちらに向けている剣の柄を握るその手に向けて撃ったつもりだった。

 しかしどういう魔法を使ったのか、その最後の一発は空中で爆ぜた。‥‥‥というよりも、剣先で両断されてそう見えただけだった。

 自分の右わきにある石壁にそれの欠片が音を立ててぶちあたるのを見て、アレックスはおいおい、と脇腹に汗をかく。

 銃弾を弾くならまだしも、両断するような剣士がいるなんて、悪い冗談だ。まさしく、伝説の英雄や勇者が出てくる物語の世界の話に思えてくる。

「狙ったな?」

 誰何の声とともに、少女があっという間に距離を詰めてきた。走ったというよりも空間を短縮した、そんな感じに見て取れた。

 勢いよく迫るその剣先と彼女の顔はほぼ同位置にあり、その両頬にそれぞれ薄く二筋の線が引いてあるのを認識したところで、アレックスの身体は反射的に発砲していた。

 銃声は二発。しかし、彼女に向かった弾丸は六発を数える。

 優れた獣人の視力は三発を彼女が避け、二発を剣先で弾き飛ばし、一発を口にくわえて迫るのをスローモーションのように観測させた。

 首元に加速する銀光が揺らめく。片方の台尻りでその腹を受け止め、首を咄嗟にカバーして鬼気迫る剣先から逃れる。片方の銃口を相手に向けるでもなく、手のひらの上で引き金に指先だけを引っ掛けてくるくると回すと、それはアレックスの上半身をカバーできるような楕円形の盾へと変化した。

「っ――ふんっ」

 上半身をその内側に潜めたまま、回転させて相手に全力でそれを叩きつけてやる。普通の冒険者ならあっけなく吹き飛ぶはずのそれを、目の前にいた少女は余裕の表情で受け止め、あっさりと剣を中空に放り投げると、ぶつかってきた盾まるごと、勢いはそのままにアレックスを後方に放り投げた。

「うそっだろ!」

 その勢いはすさまじく、受け身を取る間もないままに獣人は壁に叩きつけられそうになる。

「くそっがーっ」

 怒声とともに短く呼気を吐くと、左足に込めたその一撃で岩壁を打ち砕いてどうにか衝突を防いだ。

「なんて破壊力?」

 驚きの声が少女の口から漏れた。

 相手は空から落ちてきた自分の剣柄を器用に受け止めると、その切っ先をこちらに向けて容赦ない一撃を加えようと腕を引き絞る。多分、今度はとんでもない一撃がくる。それを予見して、二挺の拳銃の双方を二つの盾に変え装着したとき、援軍が追いついた。



*ここまでが、プロット項目の5番目『悩みの時』中盤までの内容となります。*

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