恋心

綾月百花

恋心

 新米看護師の私は、日々の仕事に追われていた。そんな時行われた一泊二日の慰安旅行でした。

 外来患者さんに迷惑をかけないように、土日に組まれた旅は、2班に分けられ、ゆったりとしたスケジュールで組まれていた。


 日頃、残業が当たり前の職場で、正直な気持ちで言うと、その慰安旅行はけっこう迷惑と言われた旅行でした。

 旅行があるから仕事の調整ができるような職場ではありません。

 外来では、患者さんが押し寄せてくるし、午後からは普通に手術が組まれ、病棟ではいつ患者が急変するか分からない。命の瀬戸際の現場ですから、前日の仕事が残業だった者が殆どです。


 バスに乗り込むとき、お菓子とお茶をいただきました。

 皆で挨拶が始まり雑談も一区切りすると、寝落ちる者も多く、私も寝落ちていました。

 どこを回ったのか、よく覚えていないようなどうでもいい旅は、寄り道した山で、雨で足止めをくらいました。


 バスまで戻れれば、出発できるけれど、バスまで戻る間に濡れ鼠になるのは必至。

 傘を持っているのは、少人数で、私は持っていた少人数派でした。

 その少人数派で順にバスまで送って行くことになり、何往復したか……。


 旅に出るときくらい折傘の1本はバックに入れておくのは常識でしょうという派と今日は晴れの予想だったから傘なんて持ち歩かないでしょうという派。


 バスの中で語り合い、結局は、天気予報に従うという派に負けました。

 何往復もした私は、上着もスカートも雨で濡れてしまい見かねた友人が、多めに持ってきた洋服を貸してくれて、途中のトイレ休憩で着替えることになりました。


 優しい彼女は、とても痩せていて、着られるか心配しましたが、スリムなパンツもトレーナーも着られて、ホッと一息しました。

 普段着ないスタイルに、恥ずかしさを感じながらも、わいわいとバスに戻りました。


 踏んだり蹴ったりの慰安旅行は、早めにホテルに着き、冷えた体を温泉で温める事ができました。

 寝間着代わりの浴衣に皆が着替えて、大広間で院長の挨拶が始まり、食事が始まります。

 新米看護師の女の子は、かたまって座るつもりでいたのに、華がないと言うことで、適当に散らされ、知らない人の間に配置されました。


「今日は雨の中、大変だったね」

「そうですね」


 心の中で、折傘を持ってこないから、大変だったのよ?と思っても、見知らぬ男性は誰?

 新米の私は、意見を言っていいの?

 後で虐められるのは嫌だから、黙って、ニコニコしている。

 これも処世術ですよ。


「何往復も大変だったね」

「いいえ」


 先輩看護師かな?

 こちらでも、余計なことを言わずにニコニコしている。


「こいつが唯ちゃんのこと好きだって、前から言っているんだよ、どう?」

「へ?」


 私が唯って事は知られているのね。

 私を好きだと言った彼は、顔が真っ赤になっている。


「お酒注いであげてね」

「はい」


 先輩看護師に言われて、箸を置いて、ビールを持つと、彼に注いで、それから他の皆さんにも注いで歩く。

 話を聞いていると、放射線科の技師さんと医師、そこの看護師さんのようだ。

 病棟看護師をしていた私は、仕事では行くことはあるけれど、初顔合わせのように、ペコペコ頭を下げて、勧められたビールを飲んで食事をする。

 いつの間にか、席替えがあって、私を好きだという彼の横に座っていて、ぽつりぽつり話をする。

 仕事の話、私生活の話と様々で、彼は実家から通っているようで、私は寮に入っていた。

 出会ったばかりの彼を好きかどうかなんて、出会ったばかりで分かるはずがない。

 名前と顔を覚えて、少し話をしただけだ。


 食事が終わると、解散になり、私は友人と部屋に戻り、眠る支度をする。

 友人には言えなかった。

 告白されたこと。


 これは、きっと内緒にしないと、同期の子達が皆知る事になってしまう。

 友人と言っても、学生の頃の友人とは違う。

 社会人になってからの友人は、仲間でもあるけれど、ライバルでもある。全面的に信頼して、あれやこれやと話すと内容に尾ひれ背びれ胸びれまで着いた別物になっていく。

 妬みや僻みは受けたくはない。

 人の心は、時として武器になり襲いかかる。とても怖い。

 それに、本気かどうかも分からない。

 ちょっとからかわれただけかもしれない。

 気をつけなくちゃ……。

 これが私と彼との出会いだった。



 一度意識をすると、意外にもよく擦れ違っている事に気づく。

 仕事の合間に、挨拶をして、ちょっとした雑談もする。そんなことが慰安旅行の後から増えた。

 張り詰めた仕事の合間のオアシスのようになっていく。

 好意を抱いてもらっているのだと思うと、私もガードが緩くなる。

 仕事も楽しくなる。

 多忙な仕事に、温かな色彩が彩られていく。


 ある日、寮の外で、私を呼ぶ声がする。

 なんだろうと窓を開けると、慰安旅行の時に会った看護師さんだった。


「待っているわよ」


 彼女は私にそう言った。

 私は首を傾げた。


「今日、約束してたんでしょう?」


「え、なんでしょう?」


「言ってもいいの?」


「いや、ちょっと待って」


「それなら、早く行きなさい。待っているわよ」


「はい」


 放射線科の看護師さんは、私に手を振ると駐車場の方に歩いて行く。

 こんなところで、名前を出され、内容も告げられたら、病院中の有名人になってしまう。

 ちゃんとした約束をしていたわけではない。

 慰安旅行の時に誕生会をしてあげるという口約束だった。

 私はすっかり忘れていた。

 日付は私の誕生日だけど、時間も約束していなかったものだったから、その場の笑い話のようなものだと思っていた。

 急いで着替えて、病院に出掛けていった。

 放射線科の休憩室に入っていくと、数人が残っていて、私の顔を見て微笑んだ。

 テーブルにではケーキが載っている。


「さっそく始めよう。唯ちゃん、ケーキ切って」

「え、え!」


 私はケーキの切り方を知らなかった。

 包丁を渡されて、首をひねる。

 今なら分かるけれど、あの頃の、新人看護師の私は、まだ学生上がりで、やっと一人暮らしを始めたばかりだった。

 持たせられた包丁を、そのままケーキにグサッと押し当てて引くと、生クリームがずれて、ケーキが崩れていく。


「あらら、下手だな」


「初めて切るんだから」


「いいよ、いいよ、切っちゃいなよ」


「あはは」


 みんなが笑っている。

 切り終えたケーキは、見事に崩れて、クチャクチャだ。

 それをお皿に分けて、皆でケーキを食べた。

 家族以外に祝ってもらった初めての誕生日だ。

 見た目にクチャクチャになったケーキだったけれど、味は美味しかった。 

 失敗した誕生日会は、私たちの仲を急激に近づけた。

 使った食器を片付けると、当直者を残して、皆、帰って行った。

 私と彼は、病院の隣にある公園に入っていって、私はお礼を言った。


「今日はありがとうございました」


「約束していたし、楽しかったよね?」


 私は頷いた。

 初めてのケーキカットで失敗をしてしまったけれど、皆、優しくて楽しい時間だった。


「正式に付き合ってもらえないかな?」


「お願いします」


 私は、彼からの誘いを正式に受けた。


「良かった」


 彼はホッとしたように笑った。


「誕生日プレゼント用意したんだけど、もらってもらえる?」


 彼はポケットから小さな箱を取り出し、初めて見るような箱を私の掌に載せた。


「開けてみて」


「うん」


 ピンクのリボンに飾られた白い包装を丁寧に剥がすと、箱を開けた。

 まるで宝石箱のような箱に、ドキドキする。

 蓋を開けると、シルバーのネックレスだった。

 鎖の先端に、シンデレラのようなシルバーのハイヒールが飾れている。

 初めてのネックレスに、益々ドキドキする。


「いいんですか?高くなかったですか?」


「大丈夫だから」


 彼はネックレスを取り出すと、私に着けてくれた。

 指先が、肌に触れるたびにドキドキが増していく。

 きっと、私の顔は真っ赤になっていたと思う。


「今日から、彼女だよ」


「はい」


 私たちは、正式に連絡先の交換をした。

 それから、私たちは仕事の合間をぬって、デートの約束をして会うようになった。

 寮住まいの私の食事は、病院の食堂か自炊だった。

 仕事終の夜のデートの時は、彼がコンビニでデザートを買ってきてくれて、一緒に車の中で食べた。

 私の好物のシュークリームは疲れた体を癒やしてくれた。一日の疲れが飛んでいくようだ。

 昼間のデートでは、よく海に出掛けた。

 窓を全開にして、田舎の道を走っていく。

 吹き込む風が、綺麗にセットしてきた髪をクチャクチャにするけれど、爽やかで気持ちがいい。


 恋人岬……。

 素足になり砂の上を歩くと、サクサクといい音がする。

 海岸を散歩して、一緒に鐘を鳴らす。

 潮の香りと海風が、ゴチャゴチャとした精神を落ち着かせる。

 海の家で、大アサリを食べたり、時々、ホテルのバイキングランチを食べたりした。

 いつの間にか、手を繋いで歩いていた。

 けれど、職場の病院では、人前で話はしない。

 放射線科の皆さんが、引き合わせてくれたけれど、交際は誰にも秘密だった。

 擦れ違うときも、他の職員と同じだ。

 僅かに口角が上がる挨拶をして、擦れ違う。

 誰もが、彼がフラれたと思っているようだ。


 女性が殆どの看護師の中で、私が先輩看護師に虐められないようにと、気を遣ってくれているのだ。

 私の友人も知らない。

 デートは職場の近くでしない。


 付き合いだしてから、互いに会いたい気持ちが増していく。

 時間が許す限り、会って親睦を深めていく。

 好きという気持ちは、どんどん欲張りになっていく。

 もっと一緒にいたいと思えてくるからたちが悪い。

 仕事で疲れ果てて、一緒にデートしても、結局は一緒にお昼寝をしている。それでも、一緒にいたいと思えている。

 そういう気持ちがいっぱいいっぱいになると、きっと結婚したくなるのだろうな。

 今、私達は、結婚への階段を上っている。

 一緒に家庭を作ると決心した時に、職場の皆を驚かせるのだろう。

 幸せな階段を一緒に上がる。

 今の幸せを大切にしたいと思う。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

恋心 綾月百花 @ayatuki4482

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ