恋人の時間
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──恋人の時間
羽地が戦闘後戦闘適応調整を受けてからシェル・セキュリティ・サービスの本社施設に戻ってきたときには入れ違いになったのか、八木たちも戦闘後戦闘適応調整を受けに行っていた。アリスたちも姿が見えない辺り、真島の診断を受けているのだろう。
羽地はがらんとした割り当て区画で自室に向かう。
“ウルバン”か、と羽地は思う。
巨大な大砲をコンスタンティノープルを落とせると謡って売りつけ、結局はその砲の暴発によって命を落とした男の名。
現代の“ウルバン”は一体何を売って死ぬのだろうかと思う。
その時、部屋がノックされる音が響いた。
「どうぞ」
羽地はそう声をかけた。羽地の部屋には電子キーなどついていない。ただ、電子ロックの金庫は置かれている。普段はそこにタブレット端末などの機密事項の詰まったものをしまってある。
「羽地先輩。今、お時間よろしいでしょうか?」
「もちろんだよ、アリス」
来客は予想したようにアリスだった。
「真島さんの診断はちゃんと受けたかい?」
「はい。真島博士は差し迫った危険はないと」
「そうか」
そのいい方だと、長期的には爆発しかねないものがあるように聞こえる。
「先輩。今はプライベートな時間ですか?」
「ああ。そうだ。プライベートな時間だ」
羽地は精神科医の言葉を思い出す。
プライベートな時間を作って話をするように。
それならばもうやっているのだ。その上で心配なのだ。
だが、医者の忠告には従うべきだ。プライベートな時間をもっと取って、アリスと親しい関係を築き、彼女の悩みを聞いてあげなくてはならない。恋人だとかそうではないとかは今は関係ない。恋人だとアリスが思って安心するならそれで構わない。
「では、もっと聞かせてはくれませんか。先輩のことについて」
「いいよ。何が聞きたい?」
「先輩の付き合っていた女性とはどのような関係でしたか?」
また言いにくい話題だと羽地は思う。
やはりアリスは恋人というものについて理解していいないのだろう。恋人は恋人だ。関係性はそれだけで8割説明できたような者である。
「そうだな。図書館でデートしたり、一緒に映画を見に行ったり、お互いにお勧めの本を交換し合ったりした。そういう関係だ」
「……? 恋人とはそういうものなのですか?」
「ああ。一緒にいることで落ち着ける相手。相性が合って、コミュニケーションしていてポジティブな感情が生まれる関係。そういうものを恋人と言うんだよ」
「そうなのですか」
アリスは少し悩んでいる様子だった。
「先輩は私と話していてポジティブな感情は生まれていますか?」
「生まれているよ。アリスが俺と積極的に関わろうとしてくれていて、嬉しく思う」
「私も先輩と話していると自己肯定的な感情が生まれます。自分は存在する価値があるのだという感情が。無価値ではないのだという感情が。これは他者を交わらなければ得られない感情です」
感性はひとりぼっちでいては生まれない、か。
確かにその通りかもしれないと羽地は思った。
「では、お互いに相性はいいわけだな。次は俺が聞かせてくれ。何か俺に伝えておきたいことはないか? なんでもいいぞ」
「伝えておきたいこと……」
「何でもいいからな」
プライベートな時間と言った以上、仕事の話をするわけにはいかないが、アリスがそのことで悩んでいるならば、羽地は喜んで時間を取るつもりだった。
「真島博士が私はミミックの中でもっとも経験値が高いが、それがポジティブな経験値なのか分からないと言っていました。どう思われますか?」
アリスは羽地にそう尋ねた。
「なるほど。そう言う懸念があるか。確かにあまりポジティブな経験はさせてやれなかったかもしれないな。任務と訓練ばかりで、こうして過ごす時間も短かったしな。もっとポジティブな経験値が貯められるように俺も協力しよう」
「いいのですか?」
「もちろんだ。そのために俺たちがいるんだ」
羽地たちはアリスたちから奪ってばかりだった。彼女たちの貴重な時間。彼女たちのポジティブな経験を摘む機会。彼女たちが経験するはずだった希望に満ちた時代。
その分の埋め合わせはしなければならないだろうと羽地は思った。
「アリスの体験したいことはあるかい?」
「今、羽地先輩とこうして会話しているだけで今は十分です。もっと会話をしましょう。それで私は十分ですので」
「そうか。休暇が取れたら旅行に行ってもいいんだぞ」
「いえ。そのような必要は。本当に会話をするだけでいいんです。私は先輩の負担にはなりたくないんです。負担になってしまったら、先輩はきっと私にネガティブな感情を抱いてしまうでしょうから……」
こういうのが真島の言うネガティブな経験値故の発言なのだろうなと羽地は思う。
相手を好ましく思う反面、負担にはなりたくないと避ける。まるで虐待を受けた子供だ。いや、実際に日本情報軍は、羽地たちはアリスたちを虐待してきたのだ。
彼女たちをストレスの大きな軍の任務に就かせ、虐待してきた。日本情報軍が欲しいのは人間の格好をした無人機。人間による負担を減らし、無人機の手に戦争を、人的情報収集を行わせることが軍の目的なのだ。彼らにはアリスたちがどのような悩みを抱いていようと関係なく、ただ言うことを聞く機械が欲しいだけなのだ。
だから、こんなネガティブな経験値が蓄積してしまった。羽地が恐れた通りに。
「アリス。俺たちは恋人だ。恋人はお互いの悩みを解決するものだ。アリスが言ったように俺とのコミュニケーションでポジティブな感情が持てたのならば、もっとそれを深めていこう。俺はアリスのことを負担だなんて思わない。俺もアリスと一緒にいることでポジティブな影響を受けているからだ」
「そう、なのですか?」
「ああ。俺はアリスのことを絶対に負担だなんて思わない」
どうすれば証明できるだろうか? と羽地は考える。
こうして時間を割いてもアリスの不安は消えていないだろう。もっと確かにアリスの不安を解消するにはどうすればいいだろうか?
「でも、先輩にはお仕事が……」
「仕事よりも優先すべきはアリス、君のことだ。俺たちは恋人だろう? 恋人というのはこういう時に頼れる人間なんだ」
アリスはまだ不安そうな表情をしている。
「俺も自分の彼女を頼ったことは多々ある。勉強のことだったり、進路のことだったり。彼女も俺のことを頼ってくれて、いろいろな相談に乗った。部活のことだったり、人間関係のことだったり。恋人というのはそういうものなんだ」
アリスは少し俯いたのちに顔を上げた。
「では、私も羽地先輩を頼りにします。羽地先輩も私を頼りにしてください」
「もう俺はアリスに十分に頼っているよ。いつだってアリスはミミックたちを纏めてくれるだろう? 助かっているよ」
「あの程度のこと。もっと私に頼ってください。そうしたら、私も羽地先輩にもっと頼れると思うんです。お仕事でもなんでも手伝います。私を頼ってください。私は羽地先輩に頼れるように」
「分かった。これから仕事ではいろいろと頼もう。だが、プライベートな時間は仕事の話はなしだ。アリスは遠慮なく俺を頼ってくれていい」
「はい」
そこでようやく安堵したようにアリスは微笑んだ。
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