蛙、胃の中

燐火亜鉛(りんかあえん)

蛙、胃の中

 救急車のサイレンの音が、頭に反響している。

 急がねばならないほどに、人は脆くて、想像も出来ない程に簡単に死ぬのだと今更気付く。

 隣に立つ青年の、少し大きいジャンパーの面ファスナーの着脱。それさえも意味を持ってみえる。

 やり場のない心、傷ついた気持ち、溜まっていくような怒りなのだ。

 授業中に、ずっとペン先で指を刺していた。鈍い痛みはまだかじかんだ指に残っている。

 自分にも鋭い何かを刺して、声も出ない痛みで楽になりたいと思い続けている。


 痛くて、堪らなくなって、周りが見えなくなった。信号の赤を示す、ぼんやりとした明かりが、酷く自分の心が動揺していたことを知らせる。

 通行量の多い交差点で、周りの人が見ている中で、あと少しで変わる信号に気付かずに渡った自分を、片手間で注意散漫の学生だと他人が解釈してくれることを強く祈った。

 この後警察が来て、自分が叱責され、更には学校に伝わることが何よりも恐ろしかった。真剣にそう思っていた。

 自分が、取り返しのつかない間違いをするのを恐れていた。

 他人の筈の群れで、「ズレ」は死を招く。

 責められている。怒らせている。自分は他者でも無く、法でも無いカタチ無きナニカに殺されて、死ななければいけないのだと。


 時が経つにつれて、少し落ち着きを取り戻す。周りの視線と、張り詰めた緊張が来ないとわかる。すると、まるでそれを待っていたように、安息と共に、自責の言葉が突然、心を容赦なく抉る。

 内臓を直接ぐちゃぐちゃにかき混ぜられるようで、頭が、視界が、世界が軋むように痛む。

 それでも何も終わらなくて、何一つ変わらなくて。ずっと泣いて、ただ一人で苦しむ。誰かに迷惑がられることそのものを嫌っている訳では無い。自分の必要の無さを体感していたくない。その一心で、耳に無造作に音を詰め込む。

 

 その内、ふと、何もかもが地に落ちて、しっかりと平らに、綺麗になる瞬間がある。

 その瞬間、そこからが分かれ目なのだ。

 自分がいつか見た精神疾患の患者のように、刃物を、普段使わない包丁を首筋に近付ける。

 自分がこれからすることが、信じられないほどに怖くなって、反射的にそれを床に落としてしまう。そこで、自分も、今までの仮初の生活も何もかもが前触れなく崩れ落ちて、只々泣き続ける。そうすることしか知らないのだ。


 その時はそれでも良い。しかし、私はその後、あの鋭さが欲しくなる。死なないといけない、お前は必ずここで死ぬのだ、消してやるという圧倒的な力がどうしようもなく必要になる。そんな自分がこの世で一番醜くて、大嫌いで、堪えきれずに超えてはいけない一歩を踏み出す。

 

 迫る光に、滅多に聞かない甲高い悲鳴と危機を伝える音に、体が震えて、焼かれたように全身が急激に熱くなって、脳内の全てが熱で埋め尽くされた時、それに気付けた頃には、自分のしたことを必死に否定しようと鈍感な頭を叩く自分がいる。

 

 自分は自分でないと、先程の醜悪は私では無いと、慌てふためいた。帽子をとって、顔を伏せ、涙を堪える。迫る失敗の借金取りに体の震えが止まらない。辺りの関心が無くなれば、またはじめに戻り、自らを虐め続けるだけだと気付いても、悲しい逃避の言葉を自らに課し続ける。


 だから、一人でも絶対に音を絶やすことが出来ない。そうでなければ、怖くて堪らない。

 冷静でいられる筈もない。それでも、誰かを求められない。明確でなくても、相手の、目前の拒絶をみたくない。知りたくない。

 逃げたい。逃げたい。逃げたい。

 独りただ、遠く。

 

 自分と、誰でもないナニカは、やがて一つの体で同居し、はっきりと自己解釈が二つに分化する。急に周りが明瞭で、いつしか全てが『わかる』。そうして、生きる意味を、人生が明瞭且つ模範的な自分で作ろうと、前を向く学徒と、早く終わらせて欲しい自分の全てが、絡み合って、渦巻いて、互いの揚げ足をとり続ける。


「生きる」とは、語るに値しない。

 今生きていたとしても、この瞬間あるいは大人の枠に踏み込むその時に、生物として自分は死ぬ。そう確信している自分がいる。

 社会という生物の枠組みに生きる者は、あまりにも大き過ぎる集団に属する時、「自己」があるものは苦悩し、傷つき、支えられ、見違える程に強くなるようだ。私はそれを横目に意地を張るように頑なに死に急ぐ。


 その時、終着点で私は死にたい。

 誰かにたった一度の短い鋭い何かで、

 時に誰もが挙げるあの死に方で、

 ずっと一人で、『分かる』人のいない自分を、柵の外側でなく、哀れな羊として、


 ここから消してくれ。


 そうして今がある。ただあるだけなのに、そこに何かを見出すのはそれこそ意味がない。後に残るのは終わらなくて、かといって同じになれない惨めな自分そのものだ。


 いくらもがいても、自分は胃の中でただ自分を苦しめ続ける。

 身体の内側に在っても、外の世界に自分を見いだす。たったそれだけのことが苦しいのだ。


 残るものはない。跡形もないさっぱりとした、綺麗なものだ。


 今はただ、冷えた手を、震えた心を、やり場のないものどもを無理矢理内に秘め、気が狂わぬように願うしかない。

 

 了

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