僕と彼女の関係性

オカザキコージ

僕と彼女の関係性

 約束したあとに後悔する、予約したけど前日になると行きたくなくなる、憂鬱になる、そんな有り様で彼女の前に座っていた。彼女と言ってもまだ付き合っているわけでなく、こうしてカフェでただ顔を合わしているに過ぎなかった。マッチングアプリなら、どこか気に入ったところを見つけて少々不本意でも会いに行くのだろうけど、互いにアップした顔写真はおろか相手への予備知識が一切ないのだから、ファーストコンタクトと言えば、まさにその通りだった。

 だからと言って、段取りを踏んで初々しく映画に誘ってみようとか、うつむき加減に公園内を歩いてみたり、それこそ夜景を見ようと高台へ行こうなんて思いもつかなかった。たんに時間をつぶすだけなら、そういうプロセスもあり得ただろうが、そんなことをしている暇はなかったし、どちらかと言えば単刀直入にコトを済ませたい、言葉は悪いが処理しておきたい、そんな気分だった。

 変に勘違いされるのも心外だったし、そういうつもりはサラサラないとしっかり意思表示しておくべきだったのかもしれない。彼女は下を向いたまま一度も顔を上げなかったし、一言も発しなかった。でも、偶然というか、いや奇跡的に二人してこの空間を占めていたのは確かだし、時間の流れに沿ってか逆らってか、ここに居るのも間違いのないことだった。こうしていると気分がすぐれないのは僕の側に原因があるように思えたし、そう意識すればこの情況にうまくフィットできそうな気がして来ていた。

 そのときはまだ、名前を知らなかったとか、外見の視認に思いのほか時間がかかったとか、そういうのではなくて、もちろん相通ずるとまではいかなくても、大まかなところは初めて会った時に何となく分かってしまう、そんな感じがなくもなかった。妙に不安感を抱かせる、変に居たたまれなくなる。彼女だからそうなのか、何かそぐわない、ズレが生じている感じがほんの少し可能性を垣間見せてくれる、そんな感じといえばいいのか。

 かりに僕らにコトバがなくて、このままあと二時間、三時間押し黙ったままだったなら、もっと互いのことを分かり合えたのかもしれない。聾唖者のごとく、ではなくて言葉自体が欠如している、そうした体系とか概念がそもそも存在しないならば、もっと直接的に、内的に響き合っていたに違いない。論理を介さない分、誤解されることもなかったし、たとえ激しく交し合ったとしても互いに嫌な思いをしたり、こうして後悔することもなかっただろう。

 裸をさらすのが恥ずかしいように、しぜんとわき上がって来る、何にも囚われない思いや感情を表に出すにはそれ相応の心構えが要った。外見を気取るようにはいかないし、性懲りもなく着飾ってみたところで逆効果になることぐらい分かっていた。何かに触発されて、そう、この場合彼女を前にして、内側で流動するモノどもコトどもがどんなふうに動き出すか、しっかり向き合ってうまく捕捉しなければならなかった。特に、はみ出したものや、じっとして動かないものには注意が必要だった。

 彼女は、心持ち顔を上げて何か言おうとしていた。その口もとへ目をやったが、少し唇を震わした程度で吐息のごとく言葉にならなかった。内心で何かが揺れ動き、流れ出ようとしていたが、それを気づかせる素振りや表情を感じ取れなかった。たとえ内側をのぞき込めなくても彼女を前にしているだけで、何かが混ざり合い、溶け出していくのなら、そのままにしておくだけで、それを信じるだけで、よかった。誘われるように、僕の中にある、つかみ切れないモノどもやコトどもが流れ出し、渦動していくのを抑えられなかった。

 彼女がコトバにできないように僕もカタチにできない苛立ちを覚えていた。小さなテーブルを隔てて向き合っているだけでも、外殻というか皮膚を通して浸透して来るもの、多少なりとも内側へ入って来て影響を及ぼす、そんな動き、プロセスがあるような気がしてならなかった。放っておけば消えてなくなるような、微細で流動するものをしっかり捉えて、内側の襞に沿わせていけば、少しでも染み込ませられるならば、彼女への思いをある程度カタチにして伝えられたかもしれなかった。

 僕と彼女とのあいだに、たとえ媒介するものがなくても、物理的に距離を縮めていけばいずれどうにかなる、それと並行して内的・心理的にアプローチしていけば大体のところをつかめる、そう甘く考えてはならなかったし、そんなごまかしが効くはずもなかった。たとえ、そこまでレベルを下げてみたところで下卑たモノどもを引きつけ、辺りをぐるぐる回らせるのがせいぜいのところだった。この関係性を動かすにはやはり、両者を起動させる、向き合わせる、近くに呼び込ませる、何らかの媒体が必要だった。

 第三者というには他人行儀に過ぎたし、仲介者にしては少し遠い存在に思われた。はっきり姿を現すまでもなかったが、仄めかしとか何か兆しのようなものがあってしかるべきだった。目に見えないものが二人のあいだに漂っていた、それは双方から発せられた透明な浮遊物だったかもしれないし、一方的にどこからか舞い込んできた漂流物なのかもしれなかった。ただ、強弱は別にして、たしかに引きつける力をもっていたし、跳ね返す能力も備えていた。

 彼女は、冷めたコーヒーの入ったカップを口元へ近づけた。僕と彼女のあいだに流れているものが何であろうと、これからもこの関係性に変わりはないだろうし、この状態を維持しても何も問題はないはずだった。媒介者の変化に俟つ、そういう気配が漂うまで気長に構えていればよかったのかもしれない。もうここに止まっていられないと、苛立ちを覚えながら向こうからやって来るように仕向けるべきだったのか。先に動いたら負け、という底の浅いものではなかったが、ただこのままに、というわけにはいかなかった。

 その瞬間、僕は身構えた。意識よりも先に身体が動く、反射的に機能する、それは確かなものだった。彼女の方が先に反応した。媒介者の姿が見えたのか。僕に向かって、というより虚空に話しかけるように口を開いた。論理を超えて奇声を発するとか、それこそ分裂症者のように訳の分からないことをつぶやくとか、そんな感じではまったくなく、普通にしゃべっているようにしか見えなかった。ただ、発する音声と意図しているところ、いわゆる意味とが合致しているのかどうか、判断がつきかねた。

 僕は彼女に続こうと、辺りに漂い彷徨するモノどもコトどもにことさら注意を凝らした。集中したからと言って、見えたりつかんだり引き寄せたりできるものではなかったが、それでも手を伸ばしてみたり、内側へ取り込もうと懸命に試みた。“ないのにある、あるのにない”。そんなスペシャルな論理、二律背反に動揺しないのは無理な話だった。でも、手も足も出ない、どう転んでも心身をフィットさせられない、そんなふうには思えなかった。たとえ内心、ジタバタしたとしてもポーカーフェースは保てたし、彼女に気づかれないように押し殺せる自信はあった。

 彼女は、横のイスに置いていたバッグから何かを取り出そうとしていた。もちろん、こうして前にしているからと言って、彼女の内側を襞に沿ってたどって行けるとは思っていなかったし、そこから発する、漂ってくる、揮発した何ものかを感得するのは不可能に近かった。“いま、ここ”という時空間に拘束されているかぎり、彼女という対象、有機的でありながら、いやそれだからこそ意味を排した、神秘に満ちた、ズレを伴う、余白を残す、そんな心身、内と外、精神と肉体に理解が及ぶはずはなかった。

 それでも関係性を取り結ぶ、こうして向かい合えばヒューマンにつながっていく、きわめて曖昧だけれども、そのあいだに何かが生じて来る、それは得体の知れないものであり、同時に掛け替えのないもの、そう信じるほかないのだろうか。でもそんな確かめる術もない、きっと実のない、虚ろで虚しいモノどもコトどもにどう関わっていけば、いかに対処すればいいのか、途方に暮れるばかりだった。だからと言ってあきらめ、放っておくわけにも行かず、それらの傍らにただ、佇むほかなかった。

 彼女は、申し訳なさそうに軽く頭を下げてスマホをいじり始めた。僕とのあいだで少し立ち込めかけていた、ぼんやりとした関わり、感触もなく不確かなものに過ぎなかったが、気配というか兆しのような、そういう覚束ないものでさえもこちらへ返却するかのように、彼女はその内側へ戻っていった。僕は追いかける術もなく、同じようにふたたび内側へ閉じこもるしかなかった。やっと同じ方向へ進みかけていた二つのベクトルが、踵を返すようにそれぞれの古巣へ帰っていった、振り出しへ戻った感じだった。

 こんなふうに一からやり直すこと、繰り返しに馴れていなかった。ただ既視感を覚えるだけなら何も問題はなかったが、時の刻みに太刀打ちできず、隔たりの軋みに逆らえず、心身ともに持って行かれる、異なる次元のトビラを前に引き戻される、そんなふうだからリフレーン、無様な屍をさらすしかなかった。残余に生きようと、余白を頼りにしようと、でもけっきょくズレを活かし切れず、元に引き戻されるほかなかった。一進一退というには力が入らず、何も兆しが感じられない、気息すら漂わない、この無機質に嘔吐する始末…。

 彼女はスマホから顔を上げて、視線を外しながらも僕の方を向いていた。この情況、この関係性をやり直す、もう一度積み上げていく気構えなのか。僕とのあいだに漂う、たんに意味なく行き来するモノどもコトどもをかき集めて掬い上げ、いまさらながら親しみの表情で、慈しみ育むつもりなのだろうか。仮にそうであっても互いに響き合える、双方向で過不足なく、しかも均一に浸透し合う、そう期待するには持ち駒がそろっていなかったし、打つ手がないに決まっていた。

 それほど根気よくもなかったし、思いやりがある方でもフォローアップがうまいわけでもなかった。醸し出す雰囲気に敏感でなかったし、相手の些細な動きに歩調を合わせて寄添うなんてこと、端からできないと諦めていた。かりに細心の注意を払ったところで先方の意に添う自信はなかったし、そもそもその意を見定める眼力があるかどうか。ましてやそれをカタチにし、確かなものにする能力があるなんて、おこがましく口にするのも憚れた。

 いつからなのか、彼女はテーブルの横に立っていた。外形的な変化に伴う内的な推移を見逃すのは仕方のないことでも、それがもとに内心が揺れ動くのはみっともなく、嫌悪感すら覚えた。正確に感じ取るのは酷な話だったし、もとより彼女の意を汲んで看過すべきだったのかもしれない。都合よく大まかに見積もって目をつむり、流れに従ってやっていくこと、いちいち立ち止まり振り返っては貴重なプロセスを無駄にしてしまう。思考の網にかからない、論理から逸脱した、そこいらに散在している塵のごとくに跡形もなく吹き飛ばされて、そうしてはじめて心身を維持できる、というのなら。

 掃き清められた、つるつる滑る、殺風景で無機質な境面に足を踏み入れたところで、彼女が思い直してくれるわけでもなく。ここぞとばかりに声をかけても場面を一転させるにはもうすでに機会を逸していたし、なによりも力不足だった。念力とか神通力とか、次元の異なるエネルギーに恵まれていたら展開も変わっていただろうに、流動する力は内側をぐるぐる空回りするだけだった。このままを、現状を維持しようとする流れに逆らうほどに、手足を縛られ身動きが効かなくなった。

 彼女はいない、僕の前から姿を消していた。残像を追い求めるほど執着してはいなかったが、こうして去られてしまうと、ひとり取り残されてみると、内側のどこかに小さな穴が開くのを感じた。せき止められていた時間が流れ出し、歪められていた空間が融けだして解放されたような気分になっても、もう前のようには、何もなかったかのように、元に戻れないことに気づけなかった。否応にもそれを介したことで、ほんの短いあいだ浮遊しただけで、取り返しのつかないことに、後戻りできなくなるとは思ってもみなかった。

 たとえ目の裏側に彼女の残像がなくても、不思議にもこの内側にその断片があるような気がしてならなかった。何かの端緒とか、ちょっとした示唆とか、それこそ先駆けとか、多様化・複雑化する前に何ものかがそこに潜んでいる、蠢いている、そんな感じがしないわけではなかった。にべもなく振り払おうとか、頑なに拒むつもりはなかったが、当たり前のように招き入れるのも少し違う気がして、身の置き場に困ってしまう有り様だった。

 テーブルにはコーヒーカップとソーサーが残されていた。ついさっきまで彼女がそこにいた感じがしなかったし、実際どこかにしるしを付けて足跡を残しているようにも思えなかった。そこに存在していたこと自体、彼女にとっては重荷であったに違いないし、それこそ居なかった、無かったことにしたかったのかもしれない。時間の経過とともに流動してなくなる、というのはなく、空無でいたかった、そんな声が、残響が聞こえてきそうだった。

 少しの余韻も残さずに跡形もなく消えてなくなる、そんなことが果たして可能だろうか。よく言う残像なり何らの心象が内側に映し出される、無数の襞が刺激を受けて感応する、こうした内的な事象をたんなる幻影・幻想として、取るに足らないものとして片付けてしまう、たんにリアルでない、カタチを伴わないからといって何もなかったことにする、それは懲罰に値する行為ではないか。この内側に漂う曖昧にして確かに感得される、気息のような、精霊かもしれない、そう僕の精神のカタチ。その中で彼女と寄添っていたとしたら。

 水の入ったタンブラーグラスひとつ、手を伸ばせずにいた。内と外を合わせて起動させるにはまだ少し猶予が要ったし、たとえ動き出しても足元が覚束なかったに違いない。イスから腰を上げようとしても、彼女の幻影を振り払おうにも、上から押しつぶされるような感じがして立ち上がれなかった。しだいに内側の闇が濃くなっていく、流れが穏やかに涸れていく。張りめぐらされた襞に生気がなく、吸い上げる力どころか息づかいも荒くなり、虚空に沿って漂いはじめる始末だった。

 そのままテーブルに突っ伏すわけにもいかず、まだ力が残る上半身を頼りにそのままの姿勢を保とうとした。そこで光明に期待するわけにもいかず、ただ内心に向き直って祈りを捧げる、何の根拠もなくメシアの到来を待つしかないのか。たんなる媒介に、いやあいだをつなぐ陳腐な生命線に頼るしか。僕は内側をのぞき込む、静かに辺りを見回す、その片鱗が、華麗なる流動体が、兆しなりと囁きはじめるのを。僕はそっとイスから腰を上げた。心配していた、ふらつきも覚えずに足を一歩、前へ踏み出した。

                ◆

 いつまでこちらを見ているのか、振り返って確かめようとは思わなかった。このまま進んでいけばきっと終わりになる、取り返しのつかないことになってしまう、もう会えなくなることぐらい、この僕でさえわかっていた。彼女に対する勝手な思い込み、ネガティブな感情を打ち消して、瞬時に気持ちを反転させ、もう一方の極へ強引に持って行っていれば…。でも、そのときはそうするほかなかったし、もう引き返せないと思っていた。ただ、僕の中には相変わらず彼女がいたし、前を向きながらも彼女のことを考えていた。

 「この前のこと、気にしている?」。僕はつぶやくようにそう言った。聞こえていなくても構わない、できればその方がよかった。「そういうつもりじゃ…」と言いかけて止めた。言い訳がましく聞こえただろうし、なにより彼女に対して失礼に思えた。聞こえないふりをしているのか、彼女は反応らしき素振りを見せなかった。もうこれ以上、話す必要はなかったのかもしれない。でも僕は次の言葉を探していた、たとえそれが彼女の心に響かなくても。

 身支度をしていると、彼女がこちらへ視線を向けているのに気づいた。朝のルーティンを妨げるほどではなかったが、僕は一瞬動きを止めて向き直った。セミロングの髪が微かに揺れただけで、その表情は確かめられなかった。彼女はキッチンの流し台の前に立っていた。シンクには食器が無造作に重ねられていた。僕はその後ろを通り過ぎて玄関先へ向かった。「気をつけて」。シューズボックスを開ける手を止めて振り返った。彼女はうつむき加減に前を向いたままだった。

 彼女はリビングにいた。家を空けていた、この十時間ほどのあいだ、本当にここにいたのだろうか。気もそぞろで心ここにあらず、という内心の話ではなく物理的にこの空間を占めていたのかどうか。何か気息のような、気体と液体のあいだの何ものかのように、ただ漂っていただけではないのか、と。「何もなかった?」。イレギュラーな、変わったことはなかったのか、そう聞いたつもりだったが、言ったあとで後悔した。時が流れているかぎり変化を伴わないわけがなく、もっと言えば有機物として死へ向かっているはずだった。彼女が醸し出す、その全体に纏わりついている、オーラというには無機質な、彷徨うモノどもコトどもを掬い上げられなくなって、久しかった。

 「さあ…」。僕は彼女を促した。こちらの意向が伝わっているのか。言葉どおりに振る舞うだけなら彼女も気が楽だったに違いない。僕が求めているもの、彼女が探しているもの、重なり合わせようにも…。すれ違いとか、もともと無理な話だとか、諦めが肝心とか、かんたんにそうして思考停止すれば済む話ではなかった。いつまでも、どこまでも、最後まで、このあいだに流れている、けっきょく理解できない、つかみきれない、感じられない、この関係性から逃れられなかった。

 部屋を出るとき、彼女を感じた。五感のどれかに引っかかった、それが作用して、というのではなく、だからと言っていわゆる第六感みたいな、手垢のついた頼りにならないものでもなかった。気配を覚える、気息が薄っすらと纏わりついている、そんな感じだったのかもしれない。空間を横切ったときに覚える、抵抗感というか、風を切るときのような、はっきりした分かりやすいものではないにしろ、たんにそこを抜ける、時間の経過とともに微かに触れる、そんな種類のものだったのかもしれない。

 「ついさっきまで、そこに…」。たんに区切られたスペースにひとり取り残されていたとしても、疎外感とか隔絶感とか、ましてや関係性を絶たれて絶望感に苛まれている、そんな大仰なものではなかった。彼女が壁の向こう側で、表情を変えずとも心中穏やかでない様子でこちらを窺っている、そう感じたとしてもいまさらどうしようもなかった。こうした情況に慣れていたわけでも、だからと言って初めてでもなかったが、その違和感に寄添う心積もりがまだ出来ていなかったし、彼女の存在を消そうにも心身がついて来なかった。

 向き合って食事をする習慣がなかった。いつも横に並んで、互いに前を向いて淡々と箸を運ぶのが常だった。ただに向き合って、というのが気恥ずかしいとか、間が持たないというのではなく、たんに食を満たすだけならば、と思っていた。話すのに横を向こうとは思わなかったし、同意するときも軽くうなずくだけで前を向いたままだった。「ごちそうさま」。そう言うとすみやかに席を離れた。たとえ彼女がまだ食べ終えていなくとも、ひとり残された彼女が悲しそうな顔をしていたとしても。僕は振り返るつもりはなかった。

 きっとベランダにいるのだろうと思った。洗濯物を干しに出たのでも、ふとんを取り入れるためでも、ただぼんやりと空を眺めるでもなく、彼女はそこにいた。否応にもリビングからその後ろ姿が目に入ってくる。弛緩していた身体が硬くなっていくのを感じた。もちろん声をかけることも、静かに傍らに寄添おうとも思わなかったし、ましてやその内側へ踏み入るつもりはなかった。開けた視界を前に一点だけを見つめる彼女をどうしろというのか。その後ろ姿が逆光に照らされてぼやけていくばかりだった。

 玄関先で躊躇する、一瞬足が止まってしまう、中へ入ってしまえばどうってことないのに。たんに隔たりから隔たりへ、狭い広いがあるだけで、視認に左右されているに過ぎないのに。取り立てて意識に上らせる、こうして構える必要なんてないのに。「ただいま」。低い通らぬ声でつぶやくように。「お帰りなさい」。リビングにいる彼女がこちらへ顔を向けるも視線を外して。僕はそのまま寝室へ入り、ベッドの端に腰を下ろした。耳鳴りがしているのを意識し、気分がさらに萎えていく。力なく立ち上がりクローゼットの扉を開けた。重たいものが身体にのしかかって来るのを待ち構えていた。

 倦怠感や虚脱感、徒労感が容赦なく襲いかかってくる、覆い被さってくる。だから、意識が立って対象へ向かう、迷いもブレも少なく投企している、有機的に安心をたずさえていく。そんなときの方が心身を維持しやすいのは皮肉だった。日常の中へ、しだいに感覚が麻痺していき、もはや抵抗を感じず、心と体が合わさってくるような錯覚に陥っていく。たしかに彼女が横にいる。リビングのソファーに並んで座っている、コーヒーカップを手に前を見つめている。僕は組んでいた脚をほどき姿勢をもどした。

 「そろそろ…」。どちらから言うでもなく腰を上げるには、うまくタイミングを計る必要があった。いっしょにとか、同時にとか、なかなか間合いをつかめずにいた。相手を慮って、その身になってというのでなく、たんに先を行くのが嫌なだけで、互いにけん制し合っている、様子を見ている、そんな感じだった。合わせるのに、従うのにやぶさかでなかったし、その方が楽だし責任を取らなくて済む、そう考えていた。だからと言ってこのまま座りつづけるわけにもいかず、凡庸なきっかけが訪れるのを俟つしかなかった。

 この身を運ぶ、トランスポートする、そこに魂を残して、先を急ぐ。たんに空間を移動する、時間に沿って進んでいく、乖離が広がる、後に継ぐ。ただ物質として運ばれる、枠の外へ向かって、闇に抗い、間をゆく。立ち上ってくる、ひとりガイストが、内側に漂い始める、彼女の陰影に沿って。埋め合わせるように、積み上がっていく、相貌が浮かび上がってくる、重畳していく。彼女を感じる、まれにそういうときも、こんなことも。「どうしたの、大丈夫?」

 少し遅れて、微妙に距離を保って、若干ずれながらも並んで歩いていく。前後や上下に左右されず、この関係性を維持していく、その過程で増減があろうと、余白が広がっていこうと。駅の改札を抜ける、プラットホームへ向かう、急行電車が入ってくる。斜め後ろに気配を感じる、彼女がいる、カタチになっていく。僕は一歩踏み出す、白線を越える。手に触れる、彼女の柔らかい、冷たい手が、僕を包む。勢いよく電車が通り過ぎる、僕と彼女を揺らす、余韻にとらわれることなく、ただ。

 「少しいい?」。彼女はまばゆい光の中へ入っていく。駅から歩いて一分もしないところで、きれいに並ぶモノを前にして、彼女の後ろ姿に誘われ導かれて。距離をとろうとしても、猶予をもらおうにも、取り囲まれて為す術もなく、立ち尽くすしか。動くたびに拡散する、目を背けてしまう、知らぬうちに後ずさりしている、身体の置き場がなくて。「これ、お願いします」。カウンターの端へ目をうつす、彼女が出て行く、コンビニの明かりを後にして、僕を残して。

 彼女がエントランスに佇んでいる、幻影にしては、過去の出来事にしては、はっきり現れ出ている、目に触れてしまっている。「あっ」。僕は意識より先に声を上げていた。何をしている、誰を待っている、その表情からは窺えなかった。かろうじて身を携えていても、稀薄な感じがする、かんたんに透過しそうな、寂しげに漂っている、気息にしか見えなかった。明るいその中へ、彼女を求めて、メールボックスの前で、振り返ってみても。

 彼女を意識するには十分だった。そのうえ動いている、景色を運んでくる、この狭い隔たりの中で。息づかいまで聞こえて来そうで、内側の襞が敏感に反応して、ハンドルを持つ手に力が入って。振動とともに伝わってくる、そのニュアンスから、逃げるわけにもいかず。言葉に頼らなくても、身振りに注意を払わなくても、分かる気がして。そのリアルを前に、このスペースをそのままに、延ばすほかなく、僕はそこにいた。

 「わたしね」。その距離でなく、物理的なディスタンス、遥か遠くにいる彼女を、視認できるギリギリのところで。一々場面を切り取って、非連続の連続に事寄せて、彼女と向き合おうにも、少しのズレが気になって。けっきょく修正もかなわず、元に戻ることも、先へ行くことも、いずれも拒むしかなくて。「そんな…」。隔たりを、余白を、あいだを埋めようにも、介在するものに頼るわけにもいかず。かりにハザードがこれ見よがしに、待ち受けていたならば、少しは変わっていたかもしれないけど。

 「別に構わないけど…」。稜線を見渡す、その横で、ダイレクトに、引き寄せようにも。逃げ道を残さず、枠にはめて、立ち往生も厭わずに、と言っても。細部が目に入り、振り払おうにも、もはや改める術もなく、ナチュラルの中にあって。せめて正面を見据えて、できれば少し前屈みに、彼女を意識することで、歪みを正せるかと。彼女を伝う、微かな風の流れに、沿わせようと、身体を投げ出してみたところで。ガイストが、魂が、追いかけて来るのを、待つしかないのか。

 枯葉を踏みしめるのも、痛々しく感じ入って、お地蔵さんがいるのを気づかずに。「あらっ」。風雨にさらされ、顔かたちが曖昧になった、ペアの菩薩を前にして。彼女が屈み、僕が従い、ともにこうべを垂れて、手を合わす。あいだに生じたものを、お地蔵さんを介して、身体に馴染ませ、心に取り込んで。道が開けていく、参道に沿って真っ直ぐに、神に近づく、彼女と僕を導くように。ひととき生から離れて、神の御もとに誘われ、死へ沈み込むことで、回復する、いまここに。

 清々しさに、石畳のうえで、彼女を意識する、精霊にいだかれながら。薄暗がりに、緋色をみとめ、彼女の手をとり、冷たくも硬くもなくて。有機から出でて、無機をも過ぎて、あいだに佇む、生じてくるものに。重ね合わせようと、焦らずズレをそのままに、馴染んで来るのを待ちながら、長い影に寄添って。「こんなふうに…」。穏やかに下っていく、微かに残る皮膜を払い、浄化された気になって、麓にさしかかるころには。僕と彼女は、その角を曲がって、広い道を前にして、一瞬顔を見合わせた。

 露天の夜空に吸い込まれる、じんわりと解き放たれる、ごつごつとした岩を背に感じて。親和の兆しにそわそわと、星々を近くに感じながら、伸ばした身体を信じて。「ごめん、遅くなって」。彼女が先に、冷水を手に、艶かしくて。柔らかな手が、温もりを呼び込み、表層をかすめて。「わたし…」。無限に見える暗さの中で、時に従い隔たりに沿って、腰にまわす手を意識して。僕と彼女は端緒から、やっとプロセスへ、こんなにも自然に。

 遅ればせながら、邂逅というには、もったいぶった感じもなく、すんなりと合わさって。このタイミングを逸すると、差し向かう機会も、訪れないだろうと、思わず会話がはずんで。すみやかに消化して、エネルギーを蓄えるには、情緒が先へ行きすぎて、タイムラグも意識できずに。「ほんと、おいしいね」。ほんのり紅く頬を染めて、箸を口元へ運ぶ仕草に、欲するものを感じて、目をそむけるしか。「うん、おいしい」。あいだを成り立たせる、いまここに、僕と彼女は充溢を、いや減衰を。

 緩く時が流れ出し、歪んだ隔たりも修まって、掛け布団の上に、ゴロンと転がって。幼きころの、知る由もない、互いを想像して、無邪気に戯れるも。ピタリとはまった、四囲の建てつけに、余白を感じず、内と外が一致する。「こんなことって」。規則正しき天井板の、その間隙を突いて、夜空へ届く、僕らは無と愛に。彼女を通して、ガイストが、魂が、精霊が僕の内側へ響いてくる。ただ環をめぐるだけで、螺旋に上がるでもなく、ひとところを、ぐるぐる回って。永遠を意識するも、死が迫っていることに、気づかぬふりをして、僕と彼女は。

 握っていた手が、融け出すほどに、血潮が、気息が駆けめぐる。皮膜を透過して、摩擦のない、真空で自由な、その拡がりの中へ。一つになれずとも、微かに打ち震えて、流動するだけで、相乗し昇華していく。二つの極から双方向に、唯一無二の、絶対無を信じて、重畳し凝集していく。たとえ死が待っていようと、時が止まり、隔たりが消え失せるのなら、そこへ飛び込んでみようかと。握る手を緩めようにも、彼女と重なり合って、どうにもこうにも、一体化するだけで。「そう、もう諦めるしか」。

 拡散し飛翔する、水平に垂直に、心身へ浸透する、全体を満たす。残余を慈しむ、余白を埋めていく、新たなコンテンツに、喜びをもって。彼女が内側へ入り込む、気づかぬうちに、外側をなくして、境界を消し去って。奥底で痕跡を残さず、揮発して昇っていく、暗闇へ、天界まで。「これでいいの?」。無底の底に、全速力で、急降下していく、自由に戯れる。彼女を感じる、何ものにも囚われず、ただその前で、愛を、無を。


 「…………………」。何となく気分が塞ぎがちになってしまう、その場から逃げ出したくなる、早く一人になりたい、そう思ってしまうことに罪悪感を覚えるようになっていた。長く付き合っていればこういうこともあるだろうと、当初は安易に構えていたが、今では前のような思いや感覚へ戻すのにそれ相応の時間と労力が必要だったし、たとえ彼女へ意識が向いたとしてもそう長くは続かなかった。

「そろそろだと思うけど…」。唐突にそう言われても、なんのことを言っているのか、どうして今なのか、それこそどういう答えを期待しているのか、さっぱり見当がつかず答えようがなかった。僕はテーブルの端へ目をやり言葉を探したが見つかるはずもなく、目が泳ぐのを見透かされないようにするのが精一杯だった。聞き流す以外に選択肢はなかった。

 「まあ、いいけど。どうする?」。彼女はリビングの掛け時計をチラッと見て、苛立ちを抑えるように低いトーンになっていた。休日の昼下がり、中途半端な時間だった。少なくとも二、三日前に連絡してくれていたら、どうにかなるものも、急に電話してくるものだから。女ともだちとの約束がキャンセルになったからと、たんに空いたスケジュールを埋めるだけなら僕でなくても、とそんな思いだった。昨日の今日でうまく対応できないことぐらい、彼女も分かっているはずなのに。

 「とりあえず、買い物でも行く?」。駅前の商店街へ行こうとしているのか、郊外のショッピングモールへクルマで、なのか。この週末、一人のんびりと過ごすつもりだったのに、近くのコンビニならまだしも、わざわざ着替えて外出なんて、おっくうもいいところだった。僕がぐずぐずしているものだから、彼女は業を煮やしたように奥の部屋へ行き、着て来たベージュのジャケットを取って戻ってきた。僕はせき立てられるように寝室へ向かい、クローゼットを開けて一番手前にあるグレーの上着を無造作に引っ張り出すほかなかった。

 「なに食べたい? できるもの、限られるけど」。彼女はそう言って、めずらしく少し自信なさげな素振りを見せた。ショッピングモールに入っているお店でかんたんに済ませようと思っていたが、ファミリーレストランに毛の生えたような感じが嫌なようで、本人得意とは言えない手料理にこだわった。それに、いっしょに食材選びをするのが楽しいようで、どんどん進んで行く彼女を僕が買い物カートで追いかける、という具合だった。

 「先に上がっておくね、ゆっくりお戻り、あそばせ」。こうした冗談っぽいニュアンスが出るときは要注意だった。何か魂胆がありそうで、さらに振り回されそうで。駐車場にクルマを止めて、メールボックスを確認しようとエントランスへ降りていった。ダイヤルを回して開けようとしたとき、最少音量にしているはずのメールの着信音が鳴り響いた。静寂に浸されたこの空間だからこうもはっきり耳に届いたのだろうと思ったが、どうもそれだけではないような、そんな気がしてならなかった。

 「お帰りなさい。ソファーでゆっくりしててね」。彼女は少し滑稽なぐらい上機嫌に僕を迎え、小さな声で「よしっ」と気合を入れて料理に取りかかった。こちらはリビングのテーブルに投げ置いた郵便物を確かめるのも面倒で、テレビを付けてただぼんやりと眺めていた。でも、ボーとするのも長続きせず、先ほど着信したメールが気になり出してケータイを手に取った。きっと迷惑メールだろうと開いたが、驚いたことにほとんど忘れかけていた昔の彼女からだった。別れて五年以上も経っていたが、連絡して来たのは初めてで、僕はそのままケータイを閉じた、何ごともなかったように身体を硬直させた。

 「お待たせしました。少し時間、かかり過ぎたかな」。彼女にしてみれば文字通り悪戦苦闘の末、不得手な料理を何とか仕上げた、そんな成し遂げ感、充実感があったのだろう。テンションは上がる一方だった。僕は、おいしいとうなずきながらもポケットのケータイが気になって仕方がなかった。ズボンのふくらみが、身体にそぐわないその感じが、いつになく意識されて心ここにあらずとはこのことだった。そのあいだも彼女はしゃべり続け、来週末どころか、ずっと先のことまで話を進めようとしていた。

 「えっ、もうこんな時間? どうしよう…」。こちらへ判断を委ねるやり方にいつになくムッとしたが、表情を変えずに気弱に困っているふうを装った。明日は日曜日、ということなんだろうけど、このまま無抵抗にあっさり受け入れるのもしゃくに障るので、彼女が不機嫌になるのを覚悟してクルマで送ろうかと探りを入れてみた。こちらが思っているほどお泊りに執着していないかもしれないし。一縷の望みを託してみたが、けんもほろろにかわされて、このあともけっきょくケータイを開けるいとまもなく、しばらくのあいだ彼女と向き合うはめになった。

 「後でいいのに。そう、それじゃあ」。あれから、録っていた恋愛映画を二時間半ほど観て午前一時前、互いにウトウトし出していた。シャワーでもよかったが、彼女にはゆっくりしてもらいたい、それよりメールをチェックしたいばかりに、わざわざ湯を入れて先に入るよう促した。彼女は少しうたた寝して生気を取り戻したのか、鼻歌を口ずさみながら足取り軽く浴室へ向かった。かけ湯の音に耳を澄ましながら、僕は厳かに、そう緊張感をもって“彼女”からのメールを開いた。

 「お先でした、気持ちよかった」。お湯にじっくり浸かって英気を養ったのか、リビングのラグの端で軽くストレッチをはじめる始末だった。僕はケータイが気になって仕方がなかったが、浴室へ持っていくわけにもいかず定位置のローチェストの上にさり気なく置いた。彼女の、行ってらっしゃい、にため息をつきながら浴室に入り、重い身体を湯にしずめた。目をつむっていると、すっかり忘れていたはずの、五年前のことが、いやさらに遡って出会ったころの“彼女”が思いのほか鮮やかに頭の中に広がっていくのを止められなかった。

 「ビール飲む? 先にやってるけど」。もともと彼女のように強いわけではなかったし、ましてや寝る前にお酒を飲む習慣はなかった。こうして勧めるのは、先にやってる自分への照れ隠しなんだろうけど、僕はこれ見よがしに、というわけではなかったが冷蔵庫からソフトドリンクを取り出して彼女の横に座った。もう午前二時をまわっていた。愛を交わす気力も体力も残っていないようで、あとはただ寝るだけだった。たとえ早めにいい雰囲気になっていたとしても行為に集中できたかどうか、特に今夜は自信がなかった。

 「どこで寝たらいい? ここでもいいけど」。いまさらながら、変なところで気を遣うというか、そんなつもりもないくせに、彼女は悪戯っぽい、窺うような目つきでソファーを指差した。彼女の寝相を考えれば、こっちがベッドの下にでもふとんを敷いて寝たいぐらいだった。彼女を壁際に寝かせて僕は端っこに身を寄せた。寝息を立てるのを見はからってそっとベッドを抜け出した。彼女の寝返りで一瞬動きが止まったが、枕もとのケータイを手に、忍び足で寝室を出た。リビングのソファーに腰を下ろしケータイを開いた。

 「えっ、もうこんな時間?」。彼女はローチェストの上の置時計に目をやり、驚いたふうな仕草を見せた。遅いブランチを済ませて、休日午後の気だるい感じが漂っていた。せっかく二人でいるのだから、時間を無駄にしたくない、少しでも楽しみたい、そういう普通の彼・彼女感覚を持ち合わせていないわけではなかったが、どうにも気持ちがついて行かなかった。昨夜は、彼女のハイテンションに助けられて僕の気が上がらないところを埋め合わせてくれた。でも、今日は彼女ばかりに頼るわけにはいかなかった。

 「そうしよう、けっこう楽しいかも」。彼女は遅ればせながら僕の提案に反応し、やっと目の前の皿を重ね始めた。そうと決まれば早かった、ブランチの後片付けも身支度もさっさと済ませて午後二時前に家を出ていた。当初はもう一つ納得できないような表情をしていた彼女もしだいに意図するところが何となくわかってきたのか、乗り気になっていた。本来なら嫌だろう、電車でのお出かけもおっくうがらずに線路沿いの側道を並んで歩いた。二人分の切符を買って改札口を抜け、反対側のプラットホームへ出た。

 「なんか新鮮、昼間に乗ることないもの」。彼女はそう言って、流れる車窓の景色に見入っていた。僕は吊り革に軽く指をかけながら“彼女”のことを考えていた。過ぎてゆく街並みも、話しかけてくる彼女も、意識の端を通り過ぎていくだけで、内側へ入って来なかった。調子よく走っていた急行電車が各駅に停まりだし、否応なく現実へ引き戻されていく。気がつくと彼女が不安そうにこちらを見ていた。僕はしぜんな笑顔を彼女に、いや、心のうちの“彼女”へ向けていた。

 「やっと座れたね、ちょっとしんどかった」。このあと田園風景が延々と続くだろうローカル線に乗り換えて出発を待っていた。二両編成のディーゼル車が鈍い音を響かせて動き出した。彼女は驚いたふうに一瞬身体をピクリとさせると僕の方へ軽くもたれ掛かってきた。一両目には何人か乗客がいるようだったが、この車両には僕と彼女二人きりだった。僕はただ、雑然としたところから離れたかった。成り行き上、彼女を連れてはいたが、意識のうえでは一人、いや“彼女”とともにいた。

 「ええっ、こんな山の中、入っていくの?」。彼女は不安そうにこちらへ顔を向けた。列車は心細げに鉄路の軋む音を響かせて山の縁をたどっていく。途中、小さな鉄橋をわたって、短いトンネルをくぐり、川の流れに逆らって上っていく。三つ、四つと駅を過ぎて行き、少し長めのトンネルを抜けると急に視界が広がった。上り列車が駅に停車し、この下り列車が入るのを待っていた。僕は彼女を促し、扉の辺りまで進んでいった。彼女は少し不安そうな表情を浮かべて僕に従った。無人の改札口を通って駅舎を出ると、タクシーが一台、寂しく停まっているだけだった。

 「なんか、凄いとこ。ここどこなの?」。これからどうなるの、それこそ今日中に帰れるの? そんな不安感が表情に表れていた。僕は、そうした彼女の心配をよそにタクシーの横を通り過ぎて、十㍍ほど先のバス停へ向かった。僕が促す仕草を見せないものだから、彼女はしばらくのあいだ、その場に立ち尽くしていた。勝手にさっさと行ってしまうのでムッとしていたのだろう。でも、彼女にしてみればここで置いてきぼりを食うわけにもいかず、仕方なくついて行くしかなかった。

 彼女は、ふて腐れたように少し距離を置いて後ろに立っていた。わたしをこんな片田舎に連れて来て、どういうつもりなの? さらに不満が募っていくのがその仕草からも手に取るように伝わってきた。一方、僕は一時間に一本程度しか運行していないバスを待ちながら“彼女”から送られてきたメールのことを考えていた。こうしているあいだも“彼女”の身に起きていることを想像すると、居ても立っても居られないほどではないにしろ、どうも身の置き場がないというか、焦燥感にかられ胸の辺りに軽い痛みを覚えた。

 「だんだん暗くなっていくけど。ほんとうに大丈夫?」。バスは僕と彼女を乗せてさらに奥へと、夕暮れの山道をたどっていく。たしかに辺りは薄暗くなって来るし、少し冷え込んできていたし、彼女でなくても心細くなるだろう。こんな山奥から帰りの交通手段を確保できるのか、心配になって当然だった。対向車が来れば困るような狭い上り坂が続いたあと、下りにさしかかるとやや視界が開けてきた。彼女は、つかんでいた僕の腕から手を放し、深く息をついた。

 「こんなところに神社があるなんて。でもそうか…」。一時流行っていたパワースポット巡りということで一応納得して付いて来たのだろうけど、さすがにこんな山奥まで連れて来られるとは、そう顔に書いてあった。でも普通に考えれば、多くの神社仏閣は山間地にあるわけだし、こちらとしてはいまさらながら、と言いたいところだった。僕と彼女以外に参拝者の姿はなく、小さな社務所も閉まっていた。人影のない境内で寂しくなってきたのか、彼女は僕の腕を強くつかみ、身体を寄せてきた。

 「なんか、ぞくぞくする。こんなの初めて」。神様を前にして不思議な感覚にとらわれたのだろう、放心したように前を向いていた。神妙な、この感じをうまく言葉にできない、そんな彼女の戸惑いが伝わってきた。僕は表情を変えず改めて一礼して、その場を離れた。参道を戻りながら“彼女”のことを考えていた。僕に何ができるだろう、こうして祈ってあげることしかできないのか。鳥居を過ぎても現実へ戻るのに少々時間がかかりそうだった。

 「帰りのバス、あるかな。こんな時間だし」。晩秋の山あいはとっぷりと暮れて暗闇に包まれていた。でもまだ午後六時を過ぎたところで、そんな心配は要らなかったが、僕は駅前のタクシー会社へ電話を入れた。十分ほどで来てくれるという。彼女は安心したような表情を浮かべて腕にそっと手を差し込んできた。タクシーが来るまでのあいだ、そのままの姿勢で動かなかった。タクシーは二、三分早めに着いた。ドアが開くと、彼女は待ち切れなかったというふうに絡めていた腕を振りほどき、駆け込むように中へ入っていった。僕はゆっくりとした動作でそのあとに続き、運転手に行き先を告げた。年配の運転手は一瞬間を置いてこちらへ振り向いたが、僕がうなずくと軽く頭をさげて発進させた。

 「あ~ぁ、ほんとホッとした。ところで、なにお願いしたの?」。僕が言葉を濁していると悪戯っぽく顔をのぞき込んできた。言ってしまったら神様に想いのほどが届かない、というようなニュアンスで返すと、そんなものかと納得半分、まあいいけど、という感じで引き下がった。タクシーはさらに北へ向かっていた。山あいを走っていることに変わりはなかったが、さすがに彼女もどうやら来た道ではないようだと気づきはじめたのか、不安そうな表情を浮かべてこちらを見ていた。僕はかまわず車窓の暗闇を眺めていた。

 「えっ、ここなの? 何もないじゃない」。タクシーが停車し、料金を精算し始めると、彼女が横で不安げな声を上げた。僕は追い打ちをかけるように一人で帰るように告げた。最寄り駅まで料金を払っていること、特急の上りに乗ると見覚えのあるターミナル駅まで運んでくれること、そして、これでお別れであること…。僕は淡々とそう伝えてドアに手をかけた。彼女は、いったいぜんたい何のこと? 意味わからない、とキョトンとした表情をこちらへ向けるとすぐに険しい表情に変わって僕の腕をつかんだ。僕は振り切って外へ出ようとしたが、彼女は手を放そうとしなかった。どうしてわたしがこんなところでこんな仕打ちを受けないといけないの? 怒りの形相に変わっていく彼女を残して僕は強引に車外へ出た。

 「どういうことなの? ちゃんと…」。そこで彼女の声は途切れた。僕はタクシーのドアを閉めて窓越しに運転手へクルマを出すよう促した。このあと、車内で手のつけられない状況になって引き返して来る可能性もあったが、彼女のことだからきっと、瞬間的に頭に血がのぼって“あんなやつ、もうどうでもいい”とか吐き捨てて、後部シートに踏ん反り返るだろうと予想した。僕は人家の見当たらない山道にひとり佇んでいた。暗闇の中へ消えていく自分自身を想像し、気分が和らいでいくのを感じていた。


 僕はこれと言ってやりたいこともなく、ただこの仕事を続けていた。彼女との関係性もそうだったが、心身ともに満たされる、充足するというには程遠く、つねにしっくりしないものを感じていた。でも、目の前のルーティンをこなしていれば退屈であっても日常は無難に過ぎていくものだし、どのみちその程度の生き方しかできないのだろうと諦めがどこかにあった。こうしてラインを流れていく商品をチェックしていると、ときに時間が止まり空間に奥行きがなくなっていくような不思議な感覚にとらわれた。妙に心細くも少し解放された気分になった。

 「よく頑張るねぇ。まだ若いのに…」。パートのおばさんたちがあいさつ代わりに声をかけてくる。愛想よく振る舞っているわけではなかったのに、同じ年ごろの息子でもいるのだろうか、どういうわけか気安く接してくれた。こちらも不思議とうっとうしく感じることなく、ぎこちなくも笑顔を返した。そうした環境だから、というわけでもないだろうが、僕にしてはめずらしく一年近くもそこに勤めていた。地味な単純作業を飽きずに数年続ければ正社員になれると面接の時に聞かされたが、もちろんそんなことはどうでもよく、ただ辞めるタイミングをなかなかつかめずにいるだけだった。

 小さめのキャリーバッグ一つで工場近くの寮に入った。もちろん、何か積極的な理由があってここに来たわけではなく、かといって逃れるように、という悲壮感もなく、少し格好つけて言えばノマドのように定期的に移動している、漂流者を気取って恥ずかしくもニヒルに構えている、でも結果的に取るに足らない自身を哀れんでいる、そんな感じだった。六畳一間の部屋にはユニット式のバス・トイレのほかに小さなキッチンが備え付けられていて、たんに生命を維持するだけなら十分だった。

 朝八時十分に寮を出て、同十五分にタイムレコーダーを打刻する。かんたんな朝礼を済ませて同二十五分ラインの配置につき、ちょっとした点検・調整のあと同三十分から一斉に機械が動き出す。十時から十五分間の休憩を挟んで正午まで単純な流れ作業が淡々と続く。工場に併設された広い食堂で一斉に昼食をとる、栄養を効率よく摂取する、午後からの労働に備えてエネルギーを充填する。一時ちょうどにチャイムがなる、ラインがふたたび流れ出す。目の前を半製品が次々と過ぎていく、不具合の、欠損のある、他と違うものを横へやる、はじき出す、取り除く、排除する。午後三時の中休みまでその作業をただ繰り返す、雑念を振り払うかのように、無意識を誘い込むように。ただラインに向かう、おのれを滅する、無の中へ。そんな格好のいいものでは、もちろん、ないけど。

 作業中、視線を感じるときがあった。気のせいだろうとその度に受け流していた。不良品が見つかる確率からしても、五秒、十秒とよそ見しても何にも問題はなかった。でも、ラインから目を離さなかった。常時監視カメラがまわっているから、ミスをしたくないから、というわけでは当然なくて、万が一にもラインの向こう側の誰かと目が合ってしまったら、そう思うと顔を上げられなかった。それと、内へ内へ、意識を穏やかで凡庸なところへ収めておくにはラインに沿うのが一番だった。

 「ここ、いいですか」。ラインや空調から生じる鈍いベース音と違い、人息に満ちた食堂の不規則で暑苦しい雑音になかなか慣れずにいた。聞き取りづらかったし、声をかけられるはずがないと思っていた。それ以前に隣の席が空いていることすら気づいていなかった。呼びかけに反応せず定食に向かっていると、左腕のあたりに人の気配を感じた。それでもまだ、箸を止めずにいるとふたたび話しかけてきた。「すいません…」。僕はようやく声の主の方へ顔を向けた。少し照れたような表情で彼女がこちらを見ていた。

 僕は軽く頭を下げてすぐに前へ向き直った。ただ空いている席へ座るための、たんなるあいさつに過ぎない、普通はそう思うだろう。黄色いたくあんだけを残してトレーに手をかけて立ち上がろうとすると、彼女がまた声をかけてきた。「あの…」。そう言ったきり黙ってしまうので、さすがに無視して立ち去るわけにもいかず “どうかしましたか”のニュアンスを漂わせながら「はい」と答えた。彼女は目を伏せて身体を硬くしているように見えた。

 それから僕は作業中、けっこうな頻度で顔を上げるようになった。ラインの向こう側に、あの彼女がいた。そのときはまだ、朝の配置時に目を交わしたり、昼の食堂で近くに座り合ったり、終業時に頭を下げて「おつかれさま」を伝え合う程度だった。退屈なルーティン尽くめの作業場で、心地よいルーティンが付け加わるとは思っていなかった。僕が意識している以上なのか、以下なのか、それとも同じ程度なのか、そのあたりは分かるはずもなかったが、いずれにしても彼女も僕のことを意識しているようだった。でもお互い、一歩踏み出すにはまだ時間がかかりそうで、そんな感じが悪くなかった。

 でもよく考えてみれば、作業時にはお互い、目の辺りしか見えないのに、昼食時に偶然隣り合わせた男が、ラインの向こう側の僕だとよくもわかったものだ。たとえ覆面を被っていても、ずっと下を向いていても、毎日顔を突き合わせていれば何となく雰囲気でわかってしまうものなのか。機会があれば彼女に聞いてみたかった。併せて、なぜ僕に声をかけたのか、ラインの向こう側にいる男とわかってのことなのか、ただ空いていた席の隣に偶然いただけなのだろうか。いずれにしても、この僕である必然性はそれほどでもなかったのだろう、きっと。そう思うとしっくり来るとともに、上がっていた気分がぐっと下がっていった。

 二週間も経たないうちに、僕は顔を上げなくなった。ラインの向こう側にいる彼女をまだどこかで意識してはいたが、もう気分が上がることもなく、ただ流れ作業に身を委ねていた。昼食の時もひとり窓際に座って、終業時間になると早々とラインから離れて、五分も立たないうちに寮へ戻って、という味気ないデイリーに戻っていた。午後五時すぎに帰っても、横になって少し仮眠をとったり、ぼんやりとテレビを眺めてみたり、それこそ夕食をどうしようかと頭をめぐらす、その程度しかすることがなかった。

 寝るまでの六、七時間ほどのあいだ、いろいろと考えるのが煩わしかったし、身体を動かすのもおっくうだった。壁にもたれ掛かり、膝を立てて、やや窓側に顔を向ける、そうして一時間、二時間を過ごした。たんに生命を維持するだけに必要な一日のエネルギー量は何カロリーなのか、その三分の一程度を摂取すればいいのだろうと、夕食が近づくと考えた。冷蔵庫には飲料以外何も入っていなかった。あとは外食するか、近くのコンビニかスーパーに行って何か買ってくるか。そんな選択しか、いまの僕にはなかった。

 コンビニの辺りには同じ工場で働く若い子らがたむろしていそうで、惣菜とか大袋のロールパンとか多めの買い物をする時は少し足を延ばしてスーパーまで行った。午後七時ごろになると、会社帰りのおじさんも混じり、三十半ばの男が買い物カゴを持ってウロウロしていてもそれほど違和感を覚えずに済んだ。最近では値引きシールが貼られていても気にせずカゴへ入れたし、ちょっとした甘いものも意識せずに買えた。ただ、レジに並ぶのはなかなか馴れなかった。自意識過剰であることはわかっていたが、買い物カゴを提げて列に並んでいる姿を想像するとぞっとして気分が悪くなった。

 「あの…」。こんなところで誰が声をかけてくるのか、と身構えて振り返った。怖い険しい顔をしていたのだろう、そこにいた彼女は怯えたような表情を浮かべて次の言葉を探しあぐねていた。なにか申し訳ないことをしてしまったような気がして無理やり笑顔を作って明るめのトーンで答えた。「こんなところで会うなんて、奇遇と言うか」。言ったあとすぐに“きぐう”なんて、と思ったがもちろん言い直しするのもおかしく、その代わりに少々引きつった締まりのない顔を返すことになった。

 彼女はちゃんとエコバッグを持って来ていて、隣で手際よく野菜やパック詰めの肉や魚を入れていった。「大家族みたいでしょ。一人分なんですよ」。そう言って笑い、「一週間分、まとめて買うようにしているんです」と続けた。聞いてもいないのに言い訳がましく答える姿が妙に可愛らしく見えた。「料理が得意そうで」。僕はしぜんと会話を進めていた。「いえ、買い物が苦手なんです、それに何度も行くのが面倒で」。だから一回でこの量の食材を、ということなのだろうが、僕は別のところに引っかかっていた。エコバッグに詰め終わるまで、こうして傍に突っ立っているのもどうかと思ったが“それじゃぁ、また”と言って立ち去るのもどういうわけかできずに、手持ち無沙汰に立ち尽くしていた。

 「待たせてしまって。すいません」。彼女は心なしか頬を紅くして申し訳なさそうな、それでいてうれしそうな感じだった。「持ちましょうか、重たいでしょう」。しぜんと言葉が突いて出る、こんな感じは久しぶりだった。「いえ、大丈夫です。いつもはもっと重たいもの、持ってますから」。屈託のない笑顔を返してきた。二人してスーパーを出て前の歩道にさしかかった。「どちらですか」。僕は、顔を左に、そして右にぎこちなくも交互に振って尋ねた。彼女は一瞬動きを止めて小さく左方向を指差した。

 寮へ戻る道と反対方向だったが、僕は彼女を促し歩き始めた。線路沿いの側道を駅へ向かって進んで行った。彼女は終始うつむき加減でひと言もしゃべらなかった。同じ方向でよかったけれど、何を話したらいいのか、どこまで一緒なのかしら…。胸中そんなところだったのかもしれない。七、八分で駅に着いた。僕と彼女は立ち止まり、顔を見合わせた。改札をくぐるよう手で促すと、彼女は軽く頭を提げてカードを通し込み、中へ入っていった。僕が後に続かないことに意外そうな表情はみせなかった。でも心残りだったのか、振り返ったままプラットホームの方へ、なかなか進もうとしなかった。

 次の日からまた、流れ作業の合間に顔を上げるようになった。タイミングよくラインの向こう側の彼女と目が合うと、恥ずかしくもうれしい感じが十代の子のようで、独りはにかむ始末だった。“お疲れさま。お昼、いつもの辺りで”。メールを交換するようになっていた。こうして確認しなくても、一つしかない食堂の、奥から二列目の、窓を背にした同じ席か、その近くに決まっているのに、そういうやり取りが肝心なんだと思った。“了解です”。もっと気の利いた言葉で返したかったが、変に書き加えてデイリーのひとこまを台無しにしたくなかった。

 工場では各自、日曜日に加えてウイークデイに休みを一日取ることになっていた。僕と彼女は互いに用事がない限り、週半ばに合わせて休むようになった。寮で会うわけにもいかず、たいていは喫茶店で待ち合わせて近場のどこかへ行く、そんな普通で代わり映えのない休日を過ごした。好奇心の乏しい僕にはこうした繰り返しが退屈どころか安定した感じがして心地よかったが、うまく合わしてくれている彼女がどう思っているのか、やはり気がかりだった。彼女が何を望んでいるのか、どんなところへ連れていってほしいのか、彼女の身になって想像をめぐらしてみても、彼女について何も知らないことに気づかされるだけだった。

 “今度の水曜日、どうする?”。月曜日の昼食時に聞いてもよかったが、あえて、いやそう深い意味もなく日曜の朝、メールした。いつもあまり間を置かず返信してくるのに今回はなかなか返して来なかった。何かの理由でメールを開く状況にないのか、たんに忙しくてすぐに送れないのだろうと気に止めないでいた。これまで休みのことでメールしたためしがなかったので “今回はどうして、また”と、たんに戸惑っているだけかもしれない。たしかに優柔不断に思われないようにこちらから先に先に、と無理に意識していたところがあった。それが彼女にとって都合よく心地よかったのか、それとも…。けっきょく昼過ぎになっても彼女からメールは来なかった。

 遅いブランチをとりながらテーブルの上のケイタイに何度も目をやった。まだ深い関係ではないにしろ、こうして一定のペースで会っているのだから浅くとも付き合っていることになるのだろうか。一応別れを告げたとは言え、彼女のいる身として問題には違いなかったが一線を越えなければと、身勝手に都合よく解釈していた。なかなか別れられない彼女との関係性いかんなのだろうけど、並行してこのまま半年、一年とこんな感じで穏やかに、曖昧に進んでいくのだろうか。どこかの色男のように端から二股をかけようなんて、これっぽっちも考えていなかったが、結果としてそういう方向へ進んでいることに嫌悪感とまではいかなくてもやはり違和感は覚えていた。

 “メール遅れてごめんなさい。この週末、実家に帰っていたので”。母親の入院で帰省し、いま戻る途中だという。上りの特急電車の中からメールしてきたようだった。 “大変だったね。疲れたでしょう。大丈夫?” “ありがとう。お陰さまで大した事はなくて”。彼女のほっとした感じが伝わってきた。今週の水曜日はゆっくり休むよう、こちらから提案した。“せっかく予定してくれていたのに。ごめんなさい”。先週の水曜日は僕の都合で会えなかったので二週続けて、ということになるが、工場のライン越しとはいえ週五日会っているのだから、と思い直した。“今夜はゆっくり休んで。またあした、月曜日に”。僕はケータイをテーブルの上へ戻しながら、彼女の控え目な笑顔を思い浮かべていた。

 ラインの向こう側にいる、目元しか見えないフルフェイスキャップの彼女がいつもより近くに感じられ、視野に入って仕方なかった。単純作業だからこそ集中力が必要、と言い聞かせようとしたが、どうしても手元が疎かになりがちだった。どういうわけか顔を上げるたびに彼女と目が合った。奇跡的に同じタイミングで、ということなのか。僕が顔を上げる以上に彼女がこちらを見ているのか。限られた表情からでも彼女の思いが伝わってくるようだった。“けっきょく逃げるように、ここへやって来た僕が…”。なんだか目頭が熱くなるのを感じた。“大丈夫、わたし、ここにいるから…”。彼女の声が聞こえて来るようだった。


 僕は、その子が前に座っているのをしばらくのあいだ、気づいていなかった。通勤時間帯を少し過ぎたころ、普通電車の中にいた。二、三駅先の私立の小学校へ通う女の子たちの、かわいい制服と指定のランドセルという出で立ちとは対照的に、その子は地味な、もっと言えば粗末な感じのするワンピースを着ていた。女の子らが賑やかに下車したあと、彼女はひとり取り残されて寂しそうに、いや、そんなこと気にするふうでもなく、表情を変えず静かに前を向いていた。小学一、二年の年ごろだろうか。母親など近親者がまわりに居そうもなく、電車で一人、どこへ向かおうとしているのか。僕はその子が気になり出していた。

 そういうこちらも、平日のこの時間帯に行き先も知れず、ぼんやりと電車に乗っているのだから、彼女のことをとやかく詮索する立場でないのかもしれない。とりたてて幼児に興味があるとか、小さい子に慕われた楽しい経験があってとか、そんな子どもに対する思いやエピソードがまったくと言っていいほどないのに、どうしてこの子だけ気になるのだろう。たんなる彼女が醸し出す周りとの違和感からなのか、潜んでいた感情の襞に何かが触れて、ということなのだろうか。子どもだから、というのではなく、この女の子、彼女だからなのか。僕は彼女の動きに合わせて腰を浮かせた。

 女の子は次の駅で降りるようだった。扉の脇にある支え棒に手を添えて停車するのを待っていた。扉が開くと、ほかの乗客が降りるのを待って、その後に続いた。ひとりプラットホームで戸惑う素振りも見せず、迷いなく出口へ向かって階段を降りていく。かわいい手のひらにずっと握っていたのか、切符を駅員さんに滞りなく手渡して大人のように軽く会釈して改札を通り過ぎていった。僕は慌てて乗り越し清算を済ませ、彼女の後を追った。女の子は駅前の小さなロータリーを半周して商店が連なる大通りへ入っていく。あらかじめ決まったルートを淡々と歩いているような、機械仕掛けの人形のような、その後ろ姿に何か無機質な、加えてどういうわけか無慈悲なイメージすらいだいた。

 彼女は、ある一軒の店の前で立ち止まった。ショーウインドウの中に何があるのか。十㍍ほど後方にいる僕にはうかがい知れなかったが、しばらくのあいだ興味ありげにながめていた。二軒手前の店の前で同じように、でも僕の場合は不自然にのぞき込むような格好になりながら、横目でその様子を見守っていた。でも、少し目を離した隙に彼女の姿を見失ってしまった。不意を突かれてしぜん身体が歩道の方へつんのめるかたちになった。普通に考えれば店の中へ入っていったのだろう。そう心配することはない、お目当てのものを手にしてすぐに出てくるだろう。店の前まで行って中をのぞき込みたい衝動にかられたが、その場で彼女が出てくるのを待つことにした。

 これと決めて中へ入っていったのなら、せいぜい十分程度、長くて十五分もすれば出てくるだろうと構えていた。でも、彼女はなかなか出て来なかった。何か理由があって、それこそ不測の事態に遭遇して外へ出られない状況なのか。気がつくとその店の前へ進み出ていた。ショーウインドウ越しに中をうかがおうとしたが、彼女を含め人影らしき姿は認められなかった。それよりも店構えをよく見ると、開店しているのかどうかさえ疑わしいほど廃れた感じがして、さらに心配が募っていった。

 扉に手をかけて押してみた。見かけによらず頑丈でびくともしなかった。引いてもみたがやはりだめだった。閉まっているのだから彼女は中へ入っていない、僕の目をぬすんですぐ先の角を曲がって見えなくなった、そういうことなのか。いや、脇見程度で次の角まで行けるはずがない、大人が走っても無理そうなのにましてや小さな女の子が…。狐につままれたように店の前で呆然としていると、中から微かな音がしたような、ものの気配を感じた。もしかりに彼女が中に入った途端、内側から鍵をかけられていたのなら、良からぬ意図、悪意をもってそうされていたのなら…。僕は扉を何度も叩いた。

 「誰かいますか。中に小さな女の子が…」。僕は扉越しに大きな声を出していた。通りを行き交う人たちが、何ごとかあったのかと怪訝そうに振り返ってもお構いなしだった。そのとき僕は、なにか事が起こった、それこそ事件性があると思い込んでいたし、中でとんでもないことが起こっているのではないかと本気で思っていた。どうにかして彼女をそこから救い出さなければならない、滑稽に見えてもその一心だった。どのぐらいのあいだ、こうして扉を叩いていたのだろうか。しばらくすると内側から鍵を開ける音がして、怒りを含んだ険しい表情の中年男が顔をのぞかせた。一瞬怯んで一歩後退するも、意識して姿勢と声のトーンを戻して、女の子について尋ねた。

 男は黙って聞いていた。表情に変化はなかったが、おもむろに「その子なら裏口から出て行ったよ」と返してきた。“なるほど、はい分かりました”と引き下がることもできたが、状況として不自然でありない話ではないか。「そんなはずが…。女の子はどこに」。男の顔がどんどん険しくなっていくのがわかった。「そう言われてもなぁ。いい加減にしてくれよ」。表情ほどに荒い言葉遣いではなかったが、鬱陶しさが全面に出ていた。男の方からみれば難癖をつけてきやがる、妙に食い下がってくる、頭のおかしい奴に見えたのだろう。埒が明かないとばかりに扉を閉めようとするので、僕はそのすき間に無理やり足を挟み入れた。

 「なにをするんだ、この野郎」。脅すような目つきで見返してきた。僕にとってはバイオレンスな、これまで経験したことのないシチュエーションだった。でも不思議と怖さや恐れはなく、さらに腕をねじ込んで扉を開けようとしていた。今度は男の方が怯んだように一瞬力を抜いた。僕はその隙に強引に中へ押し入った。ついさっき見かけたばかりの、誰だか分からない、ただ気になるだけの女の子のために、そう彼女がそう望んでいるとはかぎらないのに、こうして激しい行動に出るとは、一体どういうわけなのか。もちろん、そのときはそんなことを考えず、ただ彼女を救おうと必死になって、理由もなく突き進んでいた。彼女を、いや彼女に象徴される何かを求めていた、放したくなかった、そういうことだったのか。

 店の中は薄暗く、商品棚に何がおいてあるのかも定かでなかった。「どうぞ、お好きなように」。男は呆れたふうに腕を組み、あごを軽く突き出して促すような仕草をした。この狭い店内を見渡すのにそう時間はかからなかった。「これで満足ですか」。今度は皮肉たっぷりに丁寧調で言ってきた。男の言う通り、女の子の姿はどこにもなかった。でもなぜ、女の子はこの店に、何の用で、奇妙にも裏口から…。面倒がられるの承知でしつこく尋ねてみた。「知らねぇよ。おしっこしたいって言うからさ、中へ通してやったんだよ。もういいだろ」。これ以上付き合っていられない、いい加減にしてくれよ、とばかりに手で追い払う格好をした。

 勢いよく扉が閉められ、僕は歩道へ押し出された。店の奥に女の子が隠れているかもしれない、いや監禁されている可能性もあったが、ああ見えても男が嘘をついているようには思えなかった。店の裏側にまわってもよかったが、もうそこに彼女はいないだろうし、きっと足取りを示す痕跡もないに違いない。見失った時点でゲームオーバー、という感じだった。だからと言って、とぼとぼと駅へ引き返してしまうのもどこか違うような気がしたし、ただぼんやりと歩道に立ち尽くしているわけにもいかず、商店街をさらに進んで行くほかなかった。

 大通りをはさんで両側に続く商店街には、雨避け程度のアーケードが歩道に沿って架けられていた。見たところ半分以上の店が閉まっていたので昼間でも薄暗い感じがして気分が上がらない。歯抜けのようにぽつりぽつりと営業する店には、老夫婦か、冴えない中年の男か女、たまにアルバイト風の、やる気のないお兄さんのいずれかが座っていた。僕は立ち止まることなく商店街を通り過ぎていった。庇とたいして変わらないアーケードでも尽きてしまうと、何か心細くなり戻った強い日差しに身構えた。

 遠くT字路の突き当たりが、蜃気楼のごとく二重にぼやけていた。目の錯覚に違いないだろうが、その中に女の子が浮かび上がって見えた。僕はそこへ吸い寄せられるように進んでいった。あの子かどうか、確かめようと前のめりになるが、気が焦るばかりで脚が思うように出てこない。そうしているあいだに女の子はスライドするように静かに離れていく、一定の距離を保ちながら滑るように逃げていく。回転数を上げようと両脚に力を入れるが、その分空回りしてしまい、ただ焦燥感だけが募っていく。あわせて彼女への思いが強まり抑えられなくなっていく。僕は足を止めなかった、いや止められなかった。女の子を必死に追いかけた、たとえキャッチアップできなくても、あの子と信じて…。

 僕は、小さいころに生き別れた妹のことを思い浮かべていた。よくある話かは別にして、両親の離婚とともに僕ら兄妹は離ればなれになった。父親に手を引かれて家を出て行く妹の後ろ姿が目の裏に焼き付いていた。トラウマには違いなかったが、日ごろは内側へ押し込んで表面へ出ないようにしていた、いやそう制しているつもりだった。意識的にコントロールできるとは思っていなかったが、とにかく考えないように、それこそ妹なんて居なかったことに、意識の外へ押し出そうと懸命に強いていた。

 脳の一部を機能不全にしようと心がけても、自己暗示にかけてみたところで、けっきょくこの内側から妹を消し去ることはできなかった。血のつながりがそうさせているのかもしれないが、一方でそうした執拗な関係性というか、いわゆる絆みたいな、どこか白けた束縛的なものに対し、嫌悪感を懐いていた。だからなのか、このことで必要以上に気を病まずに済んでいたのかもしれないし、天涯孤独と言ってもいい境遇だったが、そう寂しく感じなかった。こうしてドライに、怜悧に構えることで何とか外側へ押し出していた妹の存在が、あの子の出現、いや降臨によって内側へ、それこそ中核へ、ぐっと入り込んで来て心的なバランスを揺す振り始めていた。

 まだあの子と確認できていない、浮遊する彼女は変わらず一定の速度でトランスポートしていく。僕とのあいだを等間隔で保ち、まるで停止しているように二人して滑るように進んでいった。動いているけど止まっている、時間も空間も意味をなさない、それこそ無限軌道に入っているように、生と死が並行して迫ってくるというか、絶対的な感覚とはこういうことを言うのだろうか。女の子は僕を誘い、どこへ導こうとしているのか。彼女に付き従っていく理由はどこにもなかったが、ただただ受け身に、為されるがまま、浮遊していた。いつ追いつけるともわからないのに、妹であるはずもないのに、どうして、また…。

 気がつくと河川敷に出ていた、ふらふらと土手の上を歩いていた。どこへ行ってしまったのか、目の先に女の子の姿はなかった。開けた空間を嫌うようにまたどこかへ身を隠したのか、それとも天に召されるように飛翔してしまったのか。川沿いの広場では、草野球に興じるおじさんや、真剣にサッカーボールを追う少年たちの姿が見られた。僕は土手の草むらに腰を下ろし、ぼんやりと遠くを眺めていた。女の子が消えてしまったのだからどうしようもない。このまま夕陽が沈むのを待つことぐらいしか思いつかなかった。いつの間にか、グラウンドから掛け声や歓声が聞こえなくなっていた。

 薄暗闇のなか、月の光に誘われるように身体を浮かし進み出た。どこへ行くとも知れず、周りの輪郭が定かでなく、それこそ自分自身も流動しているような、周りと融解してなくなってしまうような、そんな心もとない感じだった。どこともわからず、ただ漂っている、彷徨っている、たんに環の中を廻っている、そう虚無の中へ沈んでいくような、何とも身の置き場のない情況にいた。小さな児童公園の前を通りかかった。なんとなく見覚えのある、どこか懐かしい感じのする公園だった。奥のベンチに女の子が一人、座っていた。電灯の薄明かりに照らされて、身動きせずうつむき加減に、彼女はそこにいた。

 どこまで近づけば、それとわかるのか。僕が追いかけてきた、求めていた女の子ではないのか。思い込みを戒めるように、ときに後ずさりしながら、確かめようとゆっくり近づいて行った。辺りに漂っているもやのような白みがしだいに濃くなっていく。距離感がつかめず、方向も定めきれず、ただ彷徨うばかりで、なかなか彼女へたどりつけない。これまで蓋をして抑えつけてきたもの、内側に張りついた澱のようなもの、剥がそうにもそうかんたんにはいかなかったもの、そう僕と彼女の関係性を阻んできたもの。目を逸らさずにしっかり向き合うべき時が来ているのかもしれなかった。

 これ以上、踏み込むと消え失せてしまうのではないか。僕はおそるおそる距離を詰めていき、それこそ祈るような気持ちでベンチのそばまで進んでいった。彼女は静かにベンチに座ったままだった。たんに気づかずにいるのか、もう消え去る必要はないと思っているのか。僕と彼女の距離は一㍍を切っていた。ベンチの端にそろりと腰を下ろし、彼女の横顔をそっとのぞき込んだ。女の子はそこにいなかった、見知らぬ女の人が座っていた。いまのいままで気づかなかったのが不思議でならなかった。気まずさを通り越して申し訳なく、人違いだったというふうに頭を下げてその場から立ち去ろうとした。

 「あの…」。女の人は仰ぎ見るようにこちらへ顔を向けた。僕は踏み出していた足を止めて振り返った。初めて顔を見合わせた。すでに一㍍ほど離れていたが、彼女は透き通るような清らかな肌をしていた。僕は、その純化した偶像、透明な対象の前で何かが氷解したような、答えのすぐそばまで来ている感じの、そうストンとどこかが抜けたような感覚にとらわれていた。「はい?」。僕は彼女に次の言葉を促した。しばらくのあいだ、下を向いて押し黙っていたが、彼女は意を決したようにこちらへ顔を向けた。「わたしです」。身体の芯の辺りに激烈な何かが走った。

 僕はこのあと、彼女の方へ顔を向けることも、話しかけることもできなかった。彼女がその場から消え去ってしまいそうで怖かった。きっと、幼いあの子が、ここまで、僕を誘い、連れて来てくれたのだろう、この女の人に、そう彼女自身に、僕の中に潜んでいた、求めていた、あの子に、僕を会わせるために。面影を確かめようとも、彼女だと見定めようとも思わなかった。そんなこと、する必要はなかった。横にいるだけで感じていた、間違いなくあの子だと、彼女だと。穏やかなものが内側を満たしていった。

 かわいい小さな子が清らな女の人へと移り変わっていく、その穏やかな過程が内側をめぐっていった。僕はあの子のこと、彼女のこと、妹のことを考えていた。これまで、考えるだけでもう後戻りできなくなるのではないか、何かが壊れてしまうのではないか、そんな恐れにおののき、この内側に封印してきた。いつ溢れ出てくるかもしれない負のイメージを抑え込むにはそれ相応なエネルギーが必要で、そのために日常の多くの部分を削ってきた。だからと言って、それらを取り除こうとか外へ排出させようとか、そんなことは考えず、あえて内側に温存させて、いやそれを糧にして生き永らえてきたのかもしれなかった。

 あの子に誘われ、彼女に導かれ、そうして妹に引き逢わされて。たとえ幻想であっても、超次元の、たんなるイメージの中であっても、僕はこの日常から救い出された。心身が合一していくような、めずらしくも明確な、しっかりとした手触り感に導かれて。たとえ、あの子がいなくなっても、彼女が消えてしまっても、妹が天上へ昇っていっても、僕はここにとどまるしかなかった。ひとりベンチに座り、星空を見上げた。


 いまから考えれば不自然な、ありそうもない話だったし、あとで振り返ってみれば少々顔が熱くなる、できればもうこれきりにしたい出来事に違いなかった。そのときは何の疑いもなく、すんなりと受け入れていたのが不思議だったし、それだけファーストコンタクトが心地よく、それこそ運命的なものを感じていたのかもしれない。僕は、「彼女」を好感以上の感情をもって迎え入れた。

 「どうする、延長する?」。午後十時を過ぎたころだった。女の子たちが慌しくも優美に立ち振る舞っていた。輸入車のディーラーをしている友人がこちらへ顔を向け、ニタリと目配せした。僕がどっちつかずの苦笑いを浮かべていると、馴染みの女の子へ向けてサインを送るように軽くうなずいた。彼はふたたび、水を得た魚のように大きな身振りを交えて隣の女の子に話しはじめた。二時間も座っているだけで二、三万円はとられる、こうした店に連れて行ってくれるのは有難くも、正直迷惑だった。居並ぶ二十歳過ぎの女の子に興味がないわけじゃなかったが、ちょっとした恋愛ごっこを楽しめるほど無邪気でも大人でもなかった。

 「今日はお仕事の関係で?」。延長後、入れ替わって前のスツールに座った彼女は、これまでの女の子とどこか違う感じがした。よく言えば落ち着いた感じ、正確に言えばけっこう歳がいっている、ように見えた。二十七、八といったところか、この店の性格から言えば、かなりお姉さんだった。それと、声のトーンが年相応、いやそれ以上に低く、三十半ばといってもおかしくなかった。さらにもう一つ。それははっきりと感得できなかったが、たんなる違和感を超えた、どこから来たのか分からない、もやもやとしたものだった。もともと若い子は苦手だったので、逆に構えることなく話せて、こういった店ではめずらしく楽しめた。めったにお店の子とメールアドレスを交換しなかったが、彼女とは躊躇なくできた。

 “どうしてますか? また会いたいですね”。普通なら翌日にでもお礼を兼ねてメールを送ってくるものだが、あれから二週間が過ぎていた。それも同伴ねらいの夕方ごろなら分かりやすかったが、その生業にしてはめずらしく午前中、それも中途半端な十時すぎに送ってきた。いずれにしても営業メールに違いなく、開いただけでそのまま放っていた。昼休みにメールのことがチラッと頭をよぎったが、だからと言って返信しようとも思わず、終業時間に近づいていた。それよりも今日の夕飯をどうしようか、面倒くさいけどスーパーに寄って惣菜でも買って、というようなことぐらいしか意識に上らなかった。

  “今朝はすいません。でもどうしても…”。居間で腰を下ろし、テレビをつけて、ビールを開けて、惣菜のパックに手をかけて、という陳腐な日常が極まっているときだった。彼女からの、二度目のメールは少々言い訳がましく長かった。営業メールという先入観からか、冷たく突き放すほどではないにしろ、受け止め方が厳し目になり皮肉めくのは仕方なかった。“いや別に気にしてませんから。また気が向いたら…”。もちろん、余ほどのことがないかぎり一人で店へ行くつもりはなかったが、とりあえず営業メールへのお付き合いとして無難に短く返信した。すると一分も経たぬうちに“いや、そういうつもりではなく、ただ…”。仕事抜きで会いたいというニュアンスを漂わせていたが、きっと高度な営業トークなのだろうと疑心暗鬼を振り払えず、缶ビールに口をつけた。

 これも、日常の中ではけっこうなトピックス、そう頻繁にあることではなかった。一人の男の子に声をかけられた。もちろん、同性愛的に誘われて、というのではなく、ただたんに後ろから「あの…」と呼びかけられて。本屋を出たばかりだった。声のトーンは少年を感じさせたが、振り返ってみると二十代半ば、線の細い、なよっとした感じの青年だった。彼は、僕の傘を持って佇んでいた。雨が上がり青空がのぞいていたのですっかり忘れていた。「あっ、どうも、すいません」。僕がそう言うと、彼は照れたようにモジモジしながら傘を差し出した。その仕草が滑稽というか、妙にかわいらしくて思わず微笑んでしまっていた。そういう性癖はなかったが、僕は好感をもって彼に対した。

 本屋を出て、どこへ行くともなく歩き出したが、方向が一緒のようで彼は僕の後を付いて来た。間隔にして三㍍ほど、付かず離れずどこまで付いて来るのか、次の角を曲がるとそのまま真っ直ぐ通り過ぎて行くのか。僕は背中に感じていたものを振り払うように立ち止まり“それでは”という素振りを見せて左へ折れようとした。「あっ」。彼が言葉にならない声を上げてこちらを見ていた。「えっ」。僕は引き戻されるように前のめりになりつつも彼の方へ向き直った。依然三㍍の間隔を保ったまま、彼は必死で次の言葉を探しているようだった。「よければお茶でもいきましょうか」。僕は、抑え気味にフラットなトーンで声をかけた。彼はぺこりとうなずき小走りに近づいてきた。僕と彼は並んで駅前へ向かった。

 街中で女の子に声をかけたことも、もちろんかけられたこともないのに、どうして見も知れぬ青年男子をお茶に誘うはめになったのか。後悔も嫌悪もしていなかったが不自然には違いなかった。結果的にそうなっただけで、何度も言うように同姓愛的な感覚はこれっぽっちも抱いていない、つもりだった。たしかに小柄で細身の体躯、それとはなしに少女っぽい仕草、優しい声のトーンもその手の人に好まれるのかもしれない。だからと言ってこの僕が? あり得ない話だった。駅前の通りから少し入ったところに純喫茶風の古めかしいお店があった。二人で入るのは初めてだった。奥の四人掛けの席に壁を背にして座った。彼は逆光の中にいた。僕たちは同じくブレンドコーヒーをたのんだ。互いに下を向いたまま一言もしゃべらず二、三分が過ぎただろうか。なかなか話を切り出せなかった。というか、何の話題があるというのか、いまそこで出会ったばかりの僕と彼とのあいだで。

 「この近くなのですか、ご自宅は」。やっと絞りだした問いかけがこれだった。彼はうつむいたまま首を横に振るだけだった。すぐに会話は途切れた。ここは年かさのいっている僕が、ということで少し身を乗り出し気味に、この近くに住んでいること、休みにはこうしてぶらぶらしていること、最近ではスーパーで一人買い物するのも気にならなくなったこと、この歳になっても独りでいること…。気がつくと余計なことまでしゃべっていた。おじさんの取るに足らない話に少し緊張がほぐれたのか、余計な力が抜けたように彼も、同じように一人暮らしをしていること、都心に近いがその分部屋が狭いこと、そこに移ったころから猫を飼っていること、時にどうしようもなく寂しくなってしまうこと…。こちらに引っ張られたのか、けっこう深いところまで話してくれた。

 喫茶店を出て、駅の改札口で彼を見送ったあと、名前も連絡先も聞いていないことに気づいた。というより、暗黙の了解みたいな、そういうことには触れない、あえて肝心なところは外しておこう、そんな合意事項が二人のあいだにあったかのように。それこそ、行きずりの、その場かぎりの、短絡的な男女の逢瀬を思わせて、ひとり苦笑した。顔が不自然にほころぶのを抑えながら、彼と出会った本屋の前を通り過ぎた。入口横の傘立てに五、六本ほど無造作に突っ込まれていた。この中からなぜこれだと、僕の傘だとわかったのか。偶然、僕が本屋に入っていくのを見かけて、ということだろうか。だからと言って、見ず知らずのおじさんを呼び止めてまで傘を渡すだろうか。何か魂胆があって、少なくともある意図をもって、と訝しく思うのが普通ではないか。いやそうではなく、ただシンプルに流れるプロセスの中で彼を感じ、素直に向き合えばいいのか。さすがにそんな境地に達するには、まだまだ時を経る必要があった。

 何の根拠も確信もなく、兆しのようなものもなかったが、彼とあれっきりになる、もう会えないという感じは不思議と、なかった。ひとり駅へ向かっているとき、プラットホームに立っているとき、改札を出るとき、ふと顔を上げるとあの照れた表情の彼がこちらを見て佇んでいるような気がした。いずれどこかで、そう遠くない日に会えるだろうと思った。休みの日に本屋の辺りを歩いていれば、また同じように、今度は偶然ではなく何かの導きで引き合わせてくれるのではないか、そう運命的に。不確かでも心地よい予感に包まれながら時が過ぎていくのも悪くはなかった。でもその一方で、否応なく現実へ引き戻され、もう会えないのではないか、やはり確率論的には、と暗い気分になってもいた。

 きっとしばらく経てば、そう半年もすれば、本当にあったのかどうかも疑わしい、そういう類の、ちょっと気恥ずかしい出来事になってしまうのだろう。ほんの二時間ほどしか顔を合わせていないのだから、そう長くかからず彼の顔かたち、細かい造作が曖昧になり、背格好など全体像もおぼろげに薄れていくに違いない。ただ、あのときの香りの記憶とともにぼんやりと身体の内側に残っている、奥底に沈殿している妙なイメージ、不思議な感覚まで消えてなくなってしまうのか。香水というには緩やかで稀薄な、それでいてちょっと体臭をも感じさせる、どうにも引っかかってくる、どこか懐かしい香りと、それが引き起こす心地よい、穏やかな感覚。こうして嗅覚が意識に上って前面に出てくること自体めずらしかったが、それらがいつ表層に現れ出てくるかも知れず、当分のあいだ不確かな彼のイメージを抱きながら日常をしのいでいくしかなかった。

 “お疲れ様です。いまから行ってきます”。午後六時すぎ、ちょうどスーパーで買い物しているときだった。ラウンジの、例の彼女とメールをやり取りするようになっていた。八時過ぎの出勤に備えて、いまから美容院へ行って、もしくは同伴の客と待ち合わせして、という慌しい時間のさなかに送ってきた。僕は値引きシールの貼った惣菜を躊躇なくカゴに入れ、どれも同じような食パンを見比べて時間を無駄に費やしていた。住む世界が違うとは言え、あまりの違いに苦笑するほかなかった。いま彼女が日常の、どの辺りのプロセスに、どんな表情で、何を思って過ごしているのか。遠い存在のゆえにか、無意識にそう考えている自分に多少の戸惑いを感じていた。

 “お疲れ様です。いま帰って来ました”。午前一時前、これから寝ようとしているところだった。返信を期待しているわけではないだろうが、こちらとしてはそんな時間でも着信を確認したくなるし、開けば一言二言返そうかな、と思ってしまう。けっきょく当たり障りのないやり取りを交わしたあと、僕はベッドの上でなかなか眠れず、彼女は明け方までぼんやりと膝を抱えて過ごしている、らしい。金曜日の深夜から土曜日の朝にかけてこんなことを繰り返した。彼女は、店に来て欲しいとか、それこそ同伴をねだるのでもなく、ただ週に一度、何かを確かめるようにメールを寄こした。きっと目的なんてないのだろう、ただ思うがまま、何となく理由もなく、そうしている、そんな感じに違いない。だからこそ、こちらもしぜんと反応している、面倒がらずに返信している、あれこれ考えずに、というだけのことだった。

 どういう周期で僕の番に回ってきたのか知らないが、例のディーラーの友人からまた誘いがかかった。ほぼ週末ごとに接待で夜の街へ繰り出している彼にしてみれば、変わらず会社のお金を使った息抜きのつもりでも、僕にとっては目くるめく世界、とまではいかなくても日常から随分かけ離れた、表層的であっても多少かったるくても、けっこう欲動を刺激するレアなイベントだった。小料理屋で食事をしたあと、これもどういうローテーションなのか、例の彼女のいるラウンジへ行くことになった。まさか僕に気を遣って、彼女とメールをやり取りしているのを知っていて、というわけではないだろうに。そうと決まると、気分は落ち着かなくなってくるし、顔が引きつっている感じもするし、みっともないほど、そわそわ感が内側へ広がっていった。

 「だれか指名したい子、いる?」。彼は店へ入る間際、ニタッと含み笑いを浮かべて聞いてきた。僕は、そんなものはいない、というふうに強めに首を横に振った。彼は、そう強く否定しなくても、という感じで少しおどけた素振りを見せて店の扉を押して中へ入っていった。店内は人いきれでムッとした空気に包まれていた。十時半を過ぎたころで、接待らしき四、五人の賑やかな客が各コーナーを占める一方で、カウンターで女の子と一対一でいい感じに向き合う客もいた。友人が事前に馴染みのホステスに電話を入れていたようで、真中辺りの席が空いていた。胸の開いたドレスを着た女の子が彼の横に座り、僕の前ではヘルプらしい、二十歳そこそこの子がかなり濃い目の水割りをつくり始めた。

 座ったときから、いや店に入った瞬間から、彼女がどこにいるのか、そればかり気になっていた。店内をキョロキョロ見まわすわけにもいかず、なかなか彼女を見つけられなかった。コーナーの死角に入っているのかもしれないし、後ろ姿でわかる自信もなく、そもそも一度しか会っていないのだからこの薄暗がりではうまくいくはずがない。僕は濃い水割りに口をつけながら前に座る女の子の他愛のない話に相槌を打っていた。それは二、三十秒ほどの間だったのか。何を考えるでもなく下を向いてぼんやりしていると、女の子が入れ替わり、彼女が前に座っていた。微笑みながらグラスの水滴をぬぐい、ミネラルウォーターを注いでくれた。

 「来てくれるとは思っていなかった」。そう言って少し間を置いてから「でも、うれしい」とはにかむように下を向いた。彼女は数カ月前に会った時の印象と違って見えた。メールのやり取りで勝手な思い込みが醸成されて、ということなのだろうか。ホステス然として見えるのはある程度仕方がないにせよ、どうもよそよそしく感じられて、うまく間合いが取れなかった。メールの延長線上で馴れ馴れしく話すのも違うような気がした。ディーラーの友人のように当意即妙、明るくその場を盛り上げる術に長けていたならば、とそのときほど思ったことはなかった。彼女に、いや目の前のホステスさんに、どう話を振ればいいのか途方に暮れるばかりで、出来ることならすぐにでもその場から立ち去りたい気分だった。

 次の店へ行こうと誘う彼をうまくかわし、最終に近い電車に乗り込んだ。自宅の最寄り駅に着いて改札すぐそばのコンビニに入った。目的もなく見てまわっていると、メールの着信音が鳴った。きっと彼女から、いやさっきのホステスからに違いない。これまたよそよそしく “先ほどはありがとうございました”と来られたら、大袈裟でなくこれまで積み上げてきた関係性がもろくも壊れてしまいそうで、すべてが僕の思い込みだったと思い知らされそうで、ケータイを開けられなかった。僕は急ぎコンビニから出て、意味もなく早足で寮へ向かった。寒々とした部屋に戻り、メールを開いた。すると同時に電話が鳴り出すものだから、タイミングの怖さからか、思わずケータイを畳みの上へ放り出してしまった。慌ててケータイを拾い上げ、耳元へあてると彼女の声が聞こえてきた。「さっきはごめんね…」。


 彼女とは、あの一件があった後も別れることなく続いていた。何事もなく、というわけにはいかなったが、かたちの上では、表面的には元の鞘に戻っていた。どんな理由があるにしろ、彼女を山奥でひとり、タクシーに残して立ち去るような彼に愛想をつけない彼女もどうかと思うが、そこまでして別れようとしていまだ付き合っている彼も同じようにどうなのか、第三者からみればどっちもどっち、ある意味お似合いなのかもしれなかった。

 だからと言って、あれから何も変わらずに、というわけにはいかず、関係性に微妙な変化が、これまで互いに感じたことのなかった何かが二人のあいだに生じていた。日常の中で、お互い目に見えるやり取りの中で些細な軋轢とかズレはこれまでにもあったが、なにかこう、言葉にできない違和感というか、妙に生理的なところを刺激する嫌悪感に似たもの、内的な部分で齟齬を打ち消す力が衰えていっているのか。それは彼女に向かって、というより自分自身に向けられた、鏡に映し出された、醜い自分の姿に違いなかった。

 「えっと、あれ、なんだったっけ」。独り言のようでいて、こちらへ問いかけているようでもあったが、返す言葉を探すのが面倒で無視していた。「あれだよ、あれ、気に入ってたじゃない?」。さらにたたみかけて来るのでそのままにしていられず顔を向けると「そうそう、わかった。あれだったんだ」。そう言って納得した表情でキッチンへ引き返していった。久々に彼女の家に来ていた。別に避けていたわけではなかったが、しぜんと足が遠のいていた。この空間、その環境で彼女に合わせるにはそれなりの精神の構えというか、何オクターブかテンションを上げる必要があり、とにかく煩わしかった。

 その日は僕の誕生日だった。例年どこかのレストランを予約して祝ってくれていたが、今年はどういうわけか、手料理でもてなしてくれるらしい、愛情を込めて? 別にそういうのって嫌な方ではなかったし、誕生日に限らず外で食べるより家でゆっくりできる方がよかった。ただ、彼女の家へ呼ばれるのも含めて、こうしたことで関係性がさらにスポイルされていくような、手足を縛られていくような、偏狭などこかへ持って行かれるような、何か居心地の悪さを感じてもいた。それに、普通に考えれば何か思惑があってもおかしくなく、ちょっとした不気味さも覚えていた。

 「ほんとお待たせ、慣れなくて…」。果敢に苦手分野へチャレンジする、克服しようと懸命に努力する、今となっては希少で貴重な価値観を体現する彼女は、いまの僕との関係性に関わりなく率直に好感がもてた。勝気で負けず嫌いな性格がそうさせている面もあったが、その分彼女特有の可愛らしさを引き出していた。初めて和食に挑戦したということで恍惚と不安が入り混じって、という感じなのか、これまであまり見たことのない、少し硬めの微妙な表情でリビングのテーブルにお茶碗や小皿を並べはじめた。何か声をかけようと思うが先に言葉が出ていた。「よくがんばったね、お疲れさま」

 彼女は一瞬、テーブルに配膳する手を止めて顔を上げた。いま何て言った? よくする怪訝な表情から、すぐに柔和な、そして微妙に泣き顔へ変わっていく。それを悟られまいと打ち消すように「ぜんぜん、かるいもんですよ」。僕はここ数カ月、彼女にやさしい言葉の一つもかけずにいたことを今更ながら気づかされた。意図的にそうしていたわけではなく、僕と彼女の関係性が、双方からのちょっとしたズレがそうさせていた、少なくとも僕はそう思っていた。どちらが先に、と原因を追求してみたところで逆にどんどん気持ちが離れていき、悪循環、負のスパイラルに陥るのは目に見えていた。でもこうした何気ない、ふとした言動が往々にして、関係性を好転させるきっかけになるのも確かだった。

 自信なさげに下を向いて箸を動かしているわりには相変わらず口数が多く、ときにチラリとこちらの様子をうかがう仕草がいじらしくかわいらしく見えた。こちらの反応を気にしているのはわかったが、気の利いた言葉が見つからずにいた。「このあいだの話だけど。どう思っているの?」。手元の料理に頭がいっていたので不意を突かれた感じとなり、みっともなくも目が泳いでいるのがわかった。彼女はしっかり顔を上げていつもの調子に戻っていた。“この前はうまくかわされたけど今日ははっきりさせるよ、いいね”。一転してふたたび袋小路に、という具合だった。

 彼女が何を言おうとしているのか、どんな答えを期待しているのか、なんとなくでなく、はっきりとわかっていた。前にしている料理の数々に的確なコメントもできないのに、これからの関係性を大きく左右する話について、それこそ的確な言葉を見つけ出すのは容易でなかった。べつに独身主義を謳歌しているつもりも、長く一人でいるからいまさらながら面倒で、というわけでも、もちろん性的な嗜好が多くの男子と違うからでもなかった。彼女との関係性がそういうところまで、めでたく成就するような方向へ進まない、深まらない、ただそれだけならよかったが、なにかこう、だいぶ前から全般的に退行しているような、負の環をぐるぐる回っているだけで、そう、抜き差しならない情況に陥りそうで…。コントロールしづらい厄介な感じだった。

 彼女にしてみれば、いつも優柔不断で、ときに何を考えているのかわからない、つかみところのない彼に対し、どうしてもあと一歩踏み込めない、これまでそんな感じだったのかもしれない。でも、今夜は攻めてみよう、たとえ関係性に支障が生じても、壊れない程度なら、そうした意気込みが感じられた。彼女が描く、勝手なスケジュール感に沿っていくつもりはなかったし、関係性を大きく動かそうとも思っていなかった。できればこのままの状態でフリーズさせて、ある水準に留め置いて、デッドラインに来そうなら、にわかに引き戻して…。僕の中で臨界点ははっきり設定されていた。

 「それに…」。彼女はそこを越えようとしていた。「それはそうと…」。僕はすかさず反応し、のらりくらりとはぐらかそうと心掛けた。真っ向から受け止めず、わざと噛み合わないように、とにかくかわす、微妙にずらしてベクトルの向きを変えるよう腐心した。けっこうなエネルギー、労力を使うわりには何の生産性もなく、よくて現状維持だったが、その場をしのごうとただその一念だった。“たんに鈍感なのか、それとも…”。彼女の苛立ちは手に取るようにわかった。たとえ理解力に乏しいバカに思われようと、彼女のペースに乗るまいと、とぼけるなり、別の話題をふるなりして話の腰を折ろうと努めた。

 けっきょく今夜も埒が明かない、いまさらこの人に何を言っても…。今回もそう引き下がってくれれば、と祈るような気持ちで時が過ぎていくのを、徐々に燃料が尽きていくように口数が少なくなってくれるのを、待った。ただ、気力が失せてあきれ果ててそうなったとしても、かんたんに済まされるわけはなかった。どういう話のつながりなのか、気がつくとある約束をさせられていた。そのときは大したことではないと、あまり気にも止めずにいたが後々考えてみると、とりようによってはけっこうな問題を孕んでいる、知らぬうちにどこかへ連れて行かれるような、そうした不本意な端緒になってもおかしくない流れだった。だからと言って、いまさら取り消すわけにも、直前になって反故にできそうもなく、ただ考え過ぎと言い聞かせるのがせいぜいだった。

 僕と彼女はその夜、久しぶりに交わった。どちらからともなくそういう感じになって重なり合った。それで一つになれるとも、それこそ一部分の接合で、物理的に凸凹がうまく収まったからと言って、一時的に欲情が高まるだけで内的な、精神的な何かが深まるわけでも、それによって関係性が強まるものでもないと思っていた。直截的に、なおかつ波状的、重畳的に情動へ響くような、奥底からぐっと立ち上ってくる、関係性を根本のところで動かす、そうした内的な驚天動地。足枷にしかならない従来のモノどもコトどもを流動させて、これまで見たことも聞いたことも感じたこともない、何か新しい、かたちを超えた、揮発して天上へ昇っていくような、気息にも似た穏やかな浮揚感、この生のエネルギー。見果てぬ夢の、そんな充溢を求めてみたところで、どうしようもなかったけど。

 「おはよう。すぐに朝食の支度するね」。多少薄めの粘着質であっても、それも少量で勢いを欠いたとしても、排出すれば身体はその分軽くなる、たとえ内側に虚無感が漂おうとも。雄のカマキリのごとく、いずれ喰われる運命に、消化され排出されるにすぎなくても。そうした異物が身体の中でばら撒かれ、生理的・本能的に吸収する、貪欲に栄養にする、正のエネルギーに転化させて。女王蜂のように、生き血どころか肉塊もろとも粉々に咀嚼して、わが身とするだけに。窓から差し込む陽光がいつになくまぶしく、逆光の中に彼女を浮かび上がらせていた。表情がうまくつかめなかったし、それ以前にのっぺらぼうに、不気味な相貌の妖怪にさえ見えた。

 僕は身支度を済ませ、彼女を待っていた。一緒に家を出てそれぞれの職場へ向かう、そうした些細な日常の変化が彼女を上機嫌にさせた。平日に彼女の家に泊まるのも、こうして一緒に出勤するのも初めてだった。僕と彼女は駅へ向かうあいだ、互いに何かを意識していたのか、言葉少なだった。切符を買うあいだ、彼女は後ろで待ってくれていた。振り返ると、寂しそうな笑みを浮かべて先に改札を過ぎていった。僕は彼女の後に従って改札を抜けた。ここでお別れだった、彼女は都心へ、僕は郊外へ。反対側のプラットホームに乗客は少なく、通勤時間帯には思えないほどだった。僕は、下りのホームへ通じる階段を指差して二、三歩踏み出した。背中に感じる彼女が気になって、というわけではなかったが立ち止まり振り返った。僕は「ありがとう…」と言っていた。

 線路を隔ててホームに佇む彼女を探そうとは思わなかった。どんな表情でこちらを見ているのか、目が合うのが恥ずかしいだけでなく、無防備に立っている姿を見られたくなかったし、そこから漂う、隠しようのない“ありがとう…”の真意を悟られたくなかった。僕はホーム後方のベンチに座り、文庫本を取り出した。少しでも彼女から遠ざかりたかった。上りの電車が先にホームへ入ってきた。僕は停車するのを見計らって顔を上げた。徐々に身体が弛緩していくのを感じた。ぼやけていた焦点がしだいに合わさり、横長の車体がきっちり視界に入ってきた。ちょうど正面の、こちら側に面した扉の窓から手を振る彼女が見えた。

 もう彼女に会うつもりはなかった、これでおしまいにしようと思った。本から目を離し、反対側のホームの、しだいに増えていく乗客の列をぼんやりと眺めていた。もともとタイプではなかったとうそぶいてみたり、いまさらながら性格の不一致を挙げてみたところで、果ては最近の態度が目に余るからなんて言うつもりはなかった。愛想をつかしたとか食傷気味であったとか、それこそ倦怠期だとか、そんな使い古された曖昧な言葉で説明しようとは思わなかった。僕と彼女のあいだに起こった、良いことも悪いことも、楽しいことも辛いことも、嬉しいことも悲しいことも、驚くようなことも陳腐なことも、すべてが作用し、あるいは反作用してけっきょくこうなってしまった、それだけのことなのだろう、きっと。

 ちゃんと原因があってのこの結果、というのならいずれどこかへ収まるのだろうけど、たいがいはそうかんたんにはいかない。ご多分に漏れず、僕と彼女も当分のあいだ、それぞれの内側で孤独にただようしかないのだろうか。もう答えを見出すことも、知らぬ間に生じたズレや齟齬を修正することも、気持ちの離れ具合や未練がましさを競い合う必要もないわけだから、あとはそれぞれしぜんな間合いで離れていけばいいはずだった。関係性は、どんな場合でもフィフティ・フィフティ、たとえ現象面でどちらかに非があろうともあくまで間(あいだ)の、互いの心身を離れた隔たりの話であって、そこで軽重や程度の差を持って来られても明確な原因とはいかないし、ましてや責任の所在を云々されても、いまさらどうにもこうにも、ただ別れるしかない、それだけだった。

 “今度の日曜日、どうする?”。もうすぐ乗換駅に着こうしていた。性懲りもなく、いや彼女にとってはいつもと変わりなく、例の調子でメールを送ってきた。週末の予定を入れようしているのだろう。僕は、電車が停まるのを待たず腰を上げて扉付近まで進んでいった。向かい側のホームにはすでに電車が扉を開けて待っていた。発車にはまだ十分ほどあった。そのままホームを横切って電車に乗り込めばよかったが、中ほどに設置されたベンチの横で足を止めた。何を躊躇しているのでもなく、ただぼんやりと立ち尽くしていた。あまりにもスムーズに、既定どおりに行くのが嫌だったわけでも、何か不穏なものを感じたからでもなかった。言ってみれば、原因と結果のあいだを行ったり来たり、宙ぶらりんの状態のまま、一切の成就を拒んでいただけなのかもしれなかった。

 僕はそのまま改札口へ向かった。この駅で下りるのは初めてだった。駅前のロータリーには乗合バスが二台停まっていた。その横を通り過ぎて、大通りの開けた方向へ進んでいった。けっこうな下り坂になっていて遠くに水辺があるのか、照り返された光の帯が連なって見えた。僕は吸い込まれるように坂を下って行き、湖なのか大きい池なのか、気がつくとその畔に出ていた。水面がきらきらと輝き、まぶしいほどだった。その下に漂う、無音の世界、暗黒の広がりを想像させるものは何もなかった。時も、隔たりも、ひらめく表層の上で戯れていた。僕の前に広がる光景はカーニバルのごとく、すべてはギリシャ神話のアポローンの神に導かれ、輝きに満ちているように思えた。いつものディオニソスの神はおとなしく水の底でなりを潜めているようだった。

 僕は身体いっぱいに水面の、表層の、きらめく息吹きを吸い込んだ。目に見える周りのモノどもコトどもから解放されて気分は爽快だった。たとえそれが一時の気慰みであっても、錯覚にすぎなくても、時が歪曲したところで、隔たりが褶曲したって、この身体一面に、限りなく広がる表層を写し取ろうと、ズレが生じないように、齟齬をきたさないように、重ね合わせようと、一致させようと試みた。そんな希望に満ちた、骨折り損のくたびれ儲けの、正のベクトルに誘われるなんて、これまで想像もしていなかった。この調子だと、きらめく水面の上を歩き渡れるかもしれないと、それも軽やかにスライドしていくように。僕はきらめきの中にいた。


 ラインの向こう側で、彼女の姿が見られなくなって一週間が過ぎていた。もちろんメールで確かめてみたが、普通に返しては来るものの、のらりくらりとかわされているような感じで要領がつかめなかった。事情を知っていそうな、彼女と親しい工員のあてもなく、持って行き場のない鬱々とした状態が続いた。僕の知らない彼女がどんどん出てきそうで、これ以上詮索するのが何だか怖くなり、しだいにケータイから遠ざかっていった。意識が散漫になってミスを犯しそうなものだが、ラインの向こうに彼女がいない分、逆に集中力が増すのか、作業効率が上がるのは皮肉だった。ただ、気分が上らず時間が長く感じられて閉口した。ラインに合わせて淡々と手を動かしチェックする、その繰り返しに何も求めていなかったし、そのプロセスが内側を満たすはずもなかった。ライン越しの情景がただ、無機質な静止画に戻っただけ、だった。

 彼女のことが気になり出して、まだ一カ月も経っていなかった。ラインを挟んで偶然彼女がいた、ただそれだけなのにこうして意識すること自体、おかしなことなのかもしれない。たとえ昼食時に、これも偶然に隣り合わせてあいさつを交わして当たり障りのない会話をしたとしても、今度はスーパーで三度目の偶然に出くわしたからといって、それを何かの縁、それこそ運命だと思い違いしてはいけない。さらに、妙に波長があってとか、考え方が近いとか、そう価値観が合うからとか、そんな当てにならない、陳腐な思い込みに振り回されてはならない。でも、この内側へ彼女が入って来るのを防げなかったし、しだいにこの内側に居場所を構えていくのを、気がつくと内心の広い領野を占領されているのを、見過ごせなかった。

 “いまから戻ります。明日から工場に出ます”。そうメールを寄こしたのは姿を消して一カ月近く経ったころだった。別に付き合っているわけでも、一日千秋の思いで待っていたのでもないのに、いまさらながらこうして申し訳なさそうに連絡して来ること自体、ホッと安心する反面、苛立ちを覚えたし、ムッと来さえした。そんな感じだから返信するにも、優しい言葉をかけたくてもなかなか言葉が決まらないし、それを阻む卑屈な自分がいた。“了解しました。それでは明日”。けっきょくそれ以上の言葉は出て来なかった。心配しているに決まってるだろ、何の相談もなく姿を消すなんて、どんな理由があるにせよ、いい加減にしてくれよ…。内側に渦巻く、ニュアンスの数々を押し止めてケータイをテーブルに置いた。

 次の日の朝、彼女は何ごともなかったようにラインの向こう側にいた。これまでと変わらず優しい眼差しをこちらへ向けてきた。目元しか見えない、フルフェイスキャップのお陰で、こちらの戸惑いや卑屈な思い、女々しさ加減が読み取られにくかったのは幸いだった。意識して顔を上げずに手元に集中したため半製品をチェック作業はいつもよりはかどった。でも一カ月ぶりだからなのか、これまでのように彼女の視線を感じられず、下を向いたまま不安が募っていった。正午を知らせるチャイムが鳴り、工員たちが一斉にその場から離れていく。気がつくと一人ラインの前に取り残されていた。バツが悪く、急ぎみんなの後を追おうと出入り口の方へ身体を向けると、その先に硬い表情の彼女が佇んでいた。

 「本当にごめんなさい。心配かけてしまって」。僕と彼女は言葉少なに社員食堂へ向かった。食券機で同じ定食を選び、トレーを持って列に並んだ。前にいる彼女の髪の香りを感じた。ボブヘアが少し伸びて、かたちが崩れていた。僕と彼女は窓際のテーブルに向かい合った。並んで食べられる席を探したが、いつも座る辺りに空きがなかった。それなら他の四隅でもよかったが、なぜだかその選択肢はなかった。普通でも照れて顔を直視できない性分なのに、さらにこういう状況下で面と向かうはめになるなんて不運というほかなかった。下を向いてただ黙って定食をかき込む、そんなことをすればますます気まずくなるのはわかっていた。もうだいぶ前から気持ちがほぐれていたのにうまく言葉や態度で表せず、違う意味で苛立ちが募るばかりだった。

 彼女に対する勝手なわだかまりとは裏腹に、午後の作業からもう以前の僕に戻っていた。いつものように気が散って、一定の割合で不良品を見逃し、おのずと検品の効率は低下した。単純作業ゆえに内側の状況がダイレクトに外側へ反映する見事な例だった。集中力を介した作業と気分の反作用というか、重大な法則を発見でもしたかのように、僕の気持ちは完全に上がっていた。目元だけしか見えないのだから、外形的には変わらずぶすっと不機嫌に作業しているように見えただろうが、僕の口もとは弛んでいた。知ってか知らずか、彼女はラインの向こう側でいつもの優しい眼差しを向けていた。何もかも見透かされているような気がして、する必要もないのに表情を引き締める始末だった。終業のチャイムが鳴り止まぬうちに僕はラインを越えて彼女のもとへ駆け寄っていた。

 僕と彼女は人目もはばからず並んで工場の門を出た。歩いて三分もかからない、寮の部屋へ彼女を誘った。これまで言いそびれていた、いやそこに居ることを隠していた。会社の借り上げたボロアパートに、殺風景を絵に描いたような暗い四畳半に寂しく暮らす姿を想像されたくなかったし、もちろん見られたくはなかった。けっきょく何の取り得もなく、社会的にはただ単純作業に勤しむしか能がないわけだから、そうしたところに住んでいても何もおかしくなかったし、それの方がしぜん、身分相応ということなのだろう。吹っ切れたから、という感じでも、等身大の自分を見せようと構えて、というのでもなかったが、いつまでもその辺りの話題を避けて通るわけにもいかず、そのときの勢いを駆って彼女を迎え入れた。それと、何よりも彼女のことが少しずつ分かりかけていた。

 「お邪魔します」。彼女はかしこまって戸口で頭を下げ中へ入ってきた。僕が苦笑しているのを見て不思議そうな顔をした。「いや、お邪魔しますもないだろうと思って」。こんなみすぼらしい部屋にそんな言葉も振る舞いも似合わないし必要もないのに、そんなニュアンスのつもりだった。卑下してとか、自らを嘲笑してとか、そんな感じ以前に、ただどこまでも奥ゆかしい彼女とこのみすぼらしい部屋の対比がわけもなくおかしくて僕は吹き出しそうになるのを必死にこらえた。「きれいに整理整頓されているし、何が…」。気遣ってフォローしようとしているのではなく、率直にそう思っているのが伝わってきて、これ以上茶化してはいけないと真顔に戻った。僕は、部屋の隅に立て掛けていた小さな折り畳みテーブルを取り出して、その前に一枚きりの座布団を敷いて彼女にすすめた。

 脚を崩してゆっくりするように、と言ってコーヒーを淹れるため流し台の前に立った。彼女を背中に感じて緊張しながらも心地よい感覚にとらわれていた。レギュラーコーヒーだけは少し高めのものを買っていたので助かった。「あら、かわいいマグカップ」。彼女はそう言って赤く線の入ったカップを手にとって微笑んだ。僕は青い線が描かれたカップを前にぎこちない笑顔で応じた。工場のライン越しの程よい距離に慣らされていたために、こうして小さなテーブルを介しただけの、それこそ三、四十㌢の至近距離に耐えられるか、不安がよぎった。案の定、このあと上ずったり、気後れしたりと散々だった。「空気を入れ換えないと」。独りごとのように言って彼女の前から離れた。

 「ああ、気持ちいい」。彼女はそう言って開け放たれた窓の方へ、その先の夕暮れの空へ顔を向けた。この部屋に似つかわしくない爽やかな風が頬をかすめた。三十半ばの独身男の嫌なにおいを、鬱屈した内側のモノどもを、奥底に溜まったどろっとしたコトどもを、きれいさっぱり吹き飛ばしてくれないか、そう願った。澱んだ空気を入れ換えて気分を新たにする、心の内を浄化して前へ進んでいく。ここに来てこのかた、そんなプロセスをすっかり忘れていた。彼女の髪が軽く揺れた。そう、彼女が運んで来た、この涼風をからだいっぱいに感じようと思った。この清らかな順風で隅々まで満たされたかった。何かに媒介されて、引き寄せられて、結び合わされて、一つになろうと…。そういうことなのだろうか。僕と彼女の関係性。僕は前にいる彼女を見つめていた。

 「そろそろお暇しないと」。彼女はそう言って背筋を伸ばし、テーブルに手をかけた。しごく普通の、この状況の中から出た動作だったが、僕は一瞬何が起きたのか、状況をつかめずにいた。大仰でなく本当にそんな感じだった。いつものように夢想から覚めて、正気に戻って、異次元から帰還して、現実に引き戻されて…ということなのだろう。違うのは彼女が目の前にいること、彼女が原因であり結果であり、僕を取り巻く情況のすべてだということ。テレビの横に置いていた小さな目覚まし時計が目に入った。午後八時を過ぎていた、こうして彼女と向き合ったまま二時間半が経過していた。このまま帰すわけにはいかず、何か食べに行こうと誘った。すると「包丁とまな板、それにお鍋、ありますか」。唐突にそう言い出すので、僕は事態をつかめないまま戸惑いながらもうなずいた。「もしカレーでよかったら、ここで…」。思いも寄らない申し出だった。僕はやっと事態を把握して、大きくうなずき返した。

 早速、この前出くわしたスーパーへ買出しに向かった。彼女は人参、玉ねぎ、じゃがいもと手際よく買い物カゴへ入れていく。僕は、間合いがつかめず少し離れて彼女の後を付いていった。「サラダも作ろうかな」。そう言ってうかがうようにこちらへ顔を向けた。もちろん拒む理由はどこにもなく、すぐさまぎこちなくも笑顔で返した。今度は肉のコーナーで立ち止まり、また振り返って困ったふうだった。「牛肉でした?」。会話のところどころで関西訛りが出ていたのだろう、気遣って聞いてきた。関西を離れてもう十数年が過ぎていた。いまは食べなれた豚肉でも全然構わなかったが、たしかに母親の作ってくれたカレーには細切れの牛肉が入っていた。僕が言いよどんでいるのを見て、彼女は牛肉のパックを手に取り、慎重に見比べてからカゴの中へ入れた。

 少しこげたような、玉ねぎを炒める甘いにおいがただよってきた。「大丈夫かな。こんなににおって」。小さなガスコンロが一口あるだけで換気扇もなかった。僕は彼女と並ぶように流し台の前に立って小窓を開けた。一瞬身体を硬くしたように見えたが、玉ねぎを炒める手を止めず、安堵と照れの入り混じった複雑な表情をした。僕は部屋の窓際に座り、夜空を見上げた。ここに来てこんなことをするのは初めてだった、いやこれまで空を意識すること自体なかったような気がする。僕にとってこの外界、限りなく広がる空間は、いつも馴染めなく、どこか似つかわしくなくて、ただ不安を覚えるだけの表層だった。でも僕はいま、空を感じる、それが暗く、おそらくは無底の底につながっていようとも。視線を内側へ戻すと、彼女の後ろ姿が目の端に入ってきた。カレーのにおいが鼻腔いっぱいに広がった。

 母親のものとは違い、牛肉がごろごろと入っていた。関西にいたころの、嫌な思い出が頭をよぎることもなく、カレーに向き合えた。これほど滋味深く、おいしいものとは思わなかった。もう少し深めの皿と大きいスプーンがあれば完璧だったが、この小さなテーブルでよかったし、擦り切れた畳の上でも、がたつく窓のそばにいても、僕は十分満たされた。彼女が半分もいかないうちに平らげてしまっていた。「お代わりありますが」。彼女はクスッと笑って腰を浮かせた。僕は口の端に付いたカレーを慌てて手の甲で拭い、彼女に皿を手渡した。窓の端に見えていた半分欠けた月がいなくなっていた。目の前に彼女が早く戻って来てくれるよう、僕は祈るような気分で二杯目のカレーを待った。

 時間はもう午後十時を過ぎていた。このまま時が止まってくれないか、柄にもなく、かなり情緒的な気分に浸っていた。彼女も帰る素振りを見せず、静かに夜が深まっていく。現実に引き戻されるのを拒むように、じっと身構えて心の内にそれぞれ沈静している、そんな感じだった。少しでも違うことに考えをめぐらせたり、ちょっとした身動き一つで、僕と彼女のあいだにたゆたうモノどもやコトどもが逃げ去りはしないかと、このいまの情況が崩れ去りはしないかと恐れていた。ズレが生じるのを、隔たりが介在してくるのを、空間が捩れて二人を遠ざけてしまうのを必死に抑えようとしているかのように。相乗した、ぴったりと嵌まった、しっくりする感覚を逃すまいと、僕は彼女を抱き寄せた。

 壁のざらつきを背中に感じながら艶やかな髪を愛撫した。膝の上で安心しきって身を委ねる彼女を戸惑うことなく受けとめていた。頭の重みがぐっと増したように感じた、と同時にこれまでの柔和な表情から無機質なものへ変わっていく。彼女は夢の中に、ひとときの永遠の中へ入っていったのだろう。僕の意識もどんどんこの現実から離れていく、彼女とともに、一筋の光に照らされて暗闇の中へ。不安や苦しみから解き放たれて、滑らかに堕ちていく、一つになって流れていく、融け合って無形の静謐へ。スパイラルを逆にたどって、程よくスポイルされて、恍惚を抱き収斂していく、きれいにはめ込まれて、無底の底へ。ただ手を握り合って、ボーダーラインをはみ出して、自由に駆けめぐる、飛翔する、浮遊する、彷徨する、無限軌道の環の途上に。

 「あっ」。膝の上の頭が動いた。彼女は起き上がり、しばらくのあいだ状況がつかめない様子だった。「本当にごめんなさい。早く帰らないと」。とは言うものの時刻は午前零時を過ぎていた。まだ終電に間に合うかと立ち上がりかけた彼女を制して、僕は微笑んだ。バツの悪そうな表情を浮かべて、どうすればいいのか困っているふうだった。僕は彼女の手を引き寄せて窓際に並んで腰を下ろした。「夜の曇り空って、なにか不思議…」。僕は彼女の言葉に反応できないでいた。これまで夜空と雲を結びつけてみたことがなかった。なにかしっくりこないし、うまくそぐわない両者という感じだった。やっぱり夜空には星が似合う、それこそイコールで結びつけたくなる、そういうことだろうか。彼女の言うとおり、不思議な空。でも、なにか馴染めそうな気がした。

 少しグレーかかった暗い空が僕と彼女の前に広がっていた。月は戻って来そうになかったし、もう星がきらめくこともないだろう。こうして彼女と肩を寄せ合うことも、彼女の重みを感じることも、彼女を愛おしく思うことも、彼女と一つになることも、この夜が明けるとすべてが幻のごとく、この世が開けると関係性もろとも消え去りそうで…。僕はそうした気配を打ち消そうと、彼女の肩にまわしていた腕に力を入れた。彼女とのこと、その関係性を錯覚に、幻影に、夢想に終わらせてしまうわけにはいかなかった。朝日が差し込んで来るまで、こうして執行を猶予されて、彼女との関係性を信じているほかないのか。しな垂れかかる彼女がさらに重く感じられた。


 たんに夢だったのか、そこそこ現実に裏打ちされたイメージであったのか、それとも病的な幻影にすぎなかったのか。小さいころの妹に似た、あの女の子に誘われて漂いさまよった、あの日以来、時折ふらりと出歩くようになった。何か次元の異なる、いまで言うパラレルワールドのような超絶したステージに紛れ込んで、もう一度女の子に、幼い彼女に出会えないか、そんな思いだった。それは休みの日に限らなかった。仕事を終え、午後五時すぎに工場を出て、寮に帰らずそのまま当て所もなく歩き続けたり、気まぐれに電車に乗ってさらに郊外へ出かけたり。ただ時流に乗って、空間から空間へ、いくつもの隔たりを超えてトランスポートする。再現を期して、新しい展開を求めて、女の子を、彼女を捉えようと、この内に抱きしめようと、ただひたすらノマドのように移動した。

 そのときはまだ、目の前で繰り広げられる現象を当てにしていたし、この身を動かせば自ずと内側に変化が生じ、相乗して情動が揺さ振られて、これまで見たことも感じたこともない、モノどもやコトどもがモゾモゾと動き出して目の前に降りて来る、そんなイメージを抱いていた。自分ではどうにもならない、それこそ神のような存在が天上かどこかにいて、すべての関係性を差配しているような、偶然という粗雑な現象、言葉には収斂しきれない、いわば至上の力が僕を包み込み、生かしてでもいるような感じ。女の子に、彼女にふたたび出会える確率はどう見積もっても数パーセント、それこそゼロに近いのだろうけど、こうした異次元な波動に共鳴して動き回っていれば、どこかで万が一にもすれ違えるのではないか。夢遊病者のように、土を這う地虫のごとく、暗闇の中をうごめく得体の知れないモノどもコトどもを引きつれて、僕は歩みを止めなかった。

 けっきょく無益に、ただエネルギーを消費するだけに終わっても、それ以上に何か解き放たれたような感じがして、無為に恍惚感を覚えた。その行程、プロセスを通じて彼女を、妹かもしれない女の子を身近に感じられたし、併せて僕の中のずれが、内と外の不整合が、自同律の不快が多少とも和らいでいくように思えた。女の子を媒介にして情動を起動させる、かなわぬ心身の合一へ向けて無駄であろうと歩き続ける、それは環の中のスパイラル、無のプログレス、だからこそ尊い行為と言えた。でも、彼女にしてみればいつの間にか天使に仕立て上げられたようなもので、そんな面倒な役割、迷惑千万だったかもしれない。でも、たんにあいだに立って僕を奮い立たせるだけでなく、彼女自身が目的そのものだった。僕は勝手な理屈を振りかざし、寄ってくる悪霊を払い除けながら、先へ進んだ。

 さすがに何もかも放り出して流浪の旅に出るわけにもいかず、いくら遅くても零時前には寮へ戻るようにしていた。たいていはこれと言った成果も上げられず、ただ寂しい寝床に就くだけだったが、ごくまれに心地よく疲れた身体が内側に彼女の幻影を、女の子の幼い面貌を、妹の面影を宿すときがあった。薄い布団の上に寝転がり身体を伸ばして、ところどころ黒ずんだ天井に目をやった。まさかこんなところに天使が舞い降りて来るはずはなかったが、その狭い部屋の中で僕は静かに内側へ下りて来るものを待った。妹といた年月は短かったが、それでも忘れられない思い出は二、三にとどまらなかった。稀薄なイメージや曖昧なニュアンスを含めると数限りなくあった。

 僕がまだ小学校へ上がる前だったように思う。父親が仕事で家にいないことが多く、小さな妹に一番手のかかる時期だったのだろう。半年近く、僕は叔父夫婦に預けられた。叔父と叔母は、子育ての予行演習のような感覚だったのか戸惑いながらも甲斐甲斐しく世話してくれた。おっとりした性格の叔父はやさしく、輪をかけて穏やかな叔母はわが子を見るような眼差しで僕に接した。父親と母親のようにぎくしゃくした感じがなく、叔父と叔母のしっくりした感じ、仲のよさが子どもながらに、いや子どもだからこそダイレクトに伝わり安心できた。連れだって近くの公園へ行ったときも、ブランコやジャングルジムではしゃぐ僕のそばで肝を冷やしながらもやさしく見守ってくれた。

 砂場でいっしょに山やトンネルを作った。叔父は僕を喜ばせようとけっこうな時間をかけて電車のような、バスなのかもしれない、いくつか窓の付いた長方形の砂の固まりまで制作した。僕は幸せを享受していた、両親のもとでは感じられない穏やかな気分に浸った。僕の記憶の中では、叔父と叔母と暮らした、あの期間は一年以上、いや二、三年にも思えるくらい、内実の豊かな、印象に残る半年間だった。もう一カ月も過ぎると、叔父と叔母が本当の両親のような気がして、これが普通の、本来の生活だと思ってしまうような、そんな錯覚に陥るほどだった。潜在的に内側のどこかで、いつの間にか無意識のうちに両親との生活を、特に父親を無きものにしたいと思っていたのかもしれない。僕は妹のことまで忘れかけていた。

 このまま叔父と叔母の子になるのではないか。預けられているあいだ、ふとそう思った記憶が残っている。けっきょく二人には子どもができなかった。いまから考えると、あの預けられた期間は子育ての予行演習ではなく、端から僕を叔父夫婦の養子にしようと、両親を含めて周りが画策したトライアルだったのではないか、そう思い当たるふしがないではなかった。半年が過ぎて母親が迎えに来たときのことだった。叔父と叔母がいくら良くしてくれても可愛がってくれても、どこか馴染めないのは仕方のないことで、久しぶりに母親の顔を見たとき、すぐにでもそばへ駆け寄りたい、そんな衝動にかられた。でも、母親はわが子を前にして暗い表情をしていた。その光景がいまだに頭から離れない。叔父を前にして“そう、駄目でしたか”。そんな感じに見えた。

 僕はそのときの、地獄に突き落とされたような、悲しみから身体が固まってしまう、どこにも身の置き場のない、あの絶望的な感覚がいまもリアルによみがえり、トラウマになっているのを実感する。両親をはじめ周りへの不信、憎しみというより、自分への哀れみ、自己憐憫を覚えずにいられなかった。どうぞと手渡すと、申し訳なさそうに丁重に返される。要らぬものとして、水準を満たさない、規格にそぐわない不良品のようにして。もちろん、真相のほどはわからない。叔父夫婦が僕を不憫に思って、やはり両親のもとで、と断腸の思いで返したのかもしれないし、この身の分身としてどうしても手放せないと母親が前言を翻した可能性だってある。でも僕は、どんな理由にせよ、結果がそうであってもモノのようにやり取りされた、そうした醜いステージに上げられた事実に傷つかずにはいられなかった。

 打ちひしがれて家に帰ると、妹がどこにもいなかった。僕が部屋の中を探し回っていると、おばあちゃんのところに行っていると母親が教えてくれた。今度は妹が、僕の代わりに余所へ遣られるのではないか。戻って来るなり茶の間でわんわんと泣いた。僕を迎えに行くために一時的に祖母のところに預けられている、母親はそう説明するまでもないと思っていたのだろうが、暗闇の中へ突き落とされたままの僕にそんなニュアンスは伝わらなかった。ここにいない、預けられた、戻って来ない、もう会えないかもしれない―。思い込みが激しく、短絡的と言われようが、そのときの僕にそれ以外の思考のプロセスはなかった。僕が泣き止まないものだから母親は落ち着いて家事もできず、気が付くと横にへたり込むように座っていた。嗚咽しながら妹を迎えにいくと言い張った。母親はやっと合点がいったとばかりにおもむろに立ち上がり、そのまま僕の手を引いて家を出た。電車を乗り継ぎ、三十分ほどで祖母の家に着いた。玄関先で妹が待ち構えていた。僕は駆け寄る彼女を強く抱きしめた。

 これも僕が家を空けているときだった。妹がいなくなり騒ぎになった。今回は本人自らの出奔だった。父親と母親が手分けして公園や駄菓子屋など近所を回ったが見つからなかった。警察に届け出ようという話も出ていたという。妹は小学校へ上がったばかりで、黄色いスクール帽を被ったまま玄関にランドセルを置いて姿を消した。僕は妹が失踪した次の日、野球クラブの合宿から戻った。家には疲れた表情の祖母が一人いた。大事(おおごと)になっていると知らされた。二人ともいなくなっては大変と、祖母が必死に引き止めるのも聞かずユニフォーム姿のまま外へ駆け出した。僕には思い当たるところがあった、きっとそこに妹がいる、確信に近いものがあった。

 山道は緩やかに長く続いた。二人だけの“秘密基地”はさらに先の少し開けたところにあった。基地といってもむかし坑道にでも使われていたような穴倉で、五㍍ほど行くとせき止められていた。入口は塞がれていたが立ち入り厳禁の看板の横に隙間があり、小さな子どもは出入り可能だった。大人なら薄気味悪く感じるかもしれないが、夢や幻と戯れるのを本望とする子どもにとって楽しいワンダーランドだった。ただ夕闇が迫っていたので僕は急いだ。穴倉の入口が目に入った瞬間、自分でも驚くような大きな声で妹の名を叫んでいた。まだ二十㍍ほど手前だったが、中にいる彼女が見えたような気がした。穴倉の中へ入ると、妹は二人していっしょに持ち込んだおもちゃに囲まれてぐったりしていた。

 僕は薄暗がりの中、妹のもとへ駆け寄った。すぐその物音に気づき、彼女は目を開いた。七月の初めとはいえ夜半の冷え込みで体温が低下し、もしものことでもあったら、と気が気でなかった。妹の無事に安心のあまり涙が出た。恥ずかしくて顔を背けた。合宿に行ったことを知らない彼女は、僕が一人で“秘密基地”へ向かったと思い込んでいたようだった。たどたどしい足取りでどんな思いでどのくらいかけてここへたどり着いたのか、そう考えるだけで胸の辺りが熱くなった。やっとお兄ちゃんといっしょに遊べる、というふうに彼女は家から持ってきたぬいぐるみを抱いたまま、勢いよく起き上がろうとした。僕はそれを制するように妹を抱き寄せた。

 僕と妹はその三カ月後、別れ離れになった。その日のことは“いまでもはっきりと覚えているし、もう跡形もなく忘れ去っていた”。別に間違った表現ではないし、どちらも当たっているし、矛盾しない。気持ちや思いに大きな、抱えきれない負荷がかかると耐え切れず、無意識のうちにその記憶を葬り去ろうとする。これをトラウマというのだろうが、一方でそのときの強烈なリアルは内側に、奥底にずっと残り、このあとの感情や行動に大きく作用する、ときに心身を支配すらする。だから僕はあのときの妹を、父親に手を引かれて泣き叫ぶ彼女を鮮明に覚えているし、記憶の底に押し止めようと、外へ出ないように封印し、忘れ去ろうとしてきた。それが電車の中で、いまになってこの内側を揺さ振る、行方知らずの妹の幻影を見るまでに、メモリーが制御できないモンスターと化すほどに、とてつもない存在に、いや抗いようのない非存在になってしまった、というのだろうか。

 僕は性懲りもなく、妹の面影を追い求め彷徨い続けた。何か手がかりを得ようと、むかし住んでいたところはもちろんのこと、風の便りに聞いていた父親の所在を訪ね回ったりもした。でも、いまに至るまで大した情報は得られず、進展らしきものは何一つなかった。これからもノマドのような生活は続くのだろう。それは苦行のようであって、日常に内実を与える確かなもの、かけがえのないもの、ある意味生きる糧にさえなっていた。幻影を求めることで内と外、内心と外殻、そう精神と肉体を重ね合わせようと、その可能性を求めていたのかもしれない。有と無、此岸と彼岸、生と死のあいだで、カタチにならない、かといって気体のごとく無色透明でもない、つねに流れ動くような、環の中をぐるぐる回り、微妙に螺旋状に昇っていく流動体。そこに自己実現、本質らしきものを見ていたのだろうか。

 ライン工程を前にして変わらぬ日常を穿つ、みずからズレを生じさせ、そのあいだに、そのプロセスに、漂い彷徨う、流れ動くモノども。どちらにも囚われない、融通無碍に自由で不規則な、トレースを拒む、跡形もなく拡散する、流れ動くコトども。かけがえのない、愛そのものだった妹の幻影を媒介にして日常から離脱し、どこへ逝こうとしているのか。ささくれ立った襞を慰めようと、ズレを少しでも埋め合わせようと、出来得るかぎり心身の合一を図ろうと、幼き妹を、愛しき彼女を、清らかな流動を、この内側に留め置こうとしていた。内実を孕ませ、行き渡らせる、そんな自己撞着な作業に、自分勝手な一方向のベクトルに、戯れ溺れているだけではなかったか。

 “おにいちゃん、どこにいるの?”。僕はうわの空で、夢の中に、それこそワープしているわけでも、無意識下を漂っているのでもなかった。たしかに妹の声だった。まわりを見回しても彼女はどこにもいない。幻聴なのだろうか、とうとう何かに触れて、精神に異常をきたして、もうだいぶ前からうつ病に、ということなのか。僕はあえて目をつむり、モノの、コトの現れに惑わされまいと、内心へ、中核へ、この外殻の、表層の、皮膚の、肉塊の内側へ、すべてをもって行こうとした。彼女が幼いままに、純化されて、そこにいるのを、存在するのを、確かめようと。いっしょにいた、あのときのように、濁りのない眼差しのもとで、淡い光りに包まれて、この内側で、彼女をしっかり抱きしめて。そう、エターナルを予感して。

 “おにいちゃん、どこへ行くの?”。僕は、顔を上げなかった。妹は、彼女はきっと前に座っている、僕に微笑みかけている。ディーゼル列車の中で、僕と彼女は二人きり、向き合っていた。あの独特の、身体に響く鈍いエンジン音に誘われ、川筋に沿って谷間に延びる鉄路をたどっていく。僕は、目を開けなかった、開ける必要がなかった。この内側に彼女が穏やかに生息し、もう逃げることもなく、追いかけなくても、そう、たしかにここにいるのだから。僕は彼女を宿しながら、胚胎しながら、漸進的に、スパイラルに、無限軌道を昇っていく。終着駅を通り越して、果てしなく際限に、ただ一緒にスライドしていく、トランスポートしていく、滑らかに飛翔していく。

 “おにいちゃん、ここにいるよ”。セピア色の粗い映像が車内に映し出された。シートの曲線にそって、車窓に写り込んで、扉の脇をかすめるように、ぎこちなく不自然に、時制を下っていく。現在をすっ飛ばし、まだ来ぬ未来から、懐かしき過去へ、螺旋状に還っていく。妹の、彼女の笑顔が、ゆっくり逆回転して真顔へ、間を置かずに涙を浮かべて、僕を見つめている。いつごろの映像だろうか。すっかり大人になった彼女が、一人ソファーで物憂げに一点を見つめている。学生風の彼女が目を赤くして机に向かい、何やらノートに書き綴っている。小学三、四年ぐらいだろうか、彼女が夕焼けに照らされて、ただ佇んでいる。別れてすぐのころかもしれない、彼女があどけない表情のままに、何かから、誰かから、逃れようと懸命に…。僕はとっさに流れる映像へ向かって、その中へ手を差し出した。前に座っている彼女と二重写しに、きれいに重なり合わさって、セピア色から天然色へ。僕が求めていた彼女が、そこにいた。ディーゼル列車は山あいの寂れた駅に停まった。静寂が僕と彼女を、すべてのものを包み込んだ。


 ラウンジの彼女とは、何となくメールのやり取りが続いていた。この前のように電話をかけて来ることもあったが、人と話すのが苦手な僕が思いのほか、フランクに話せるのが不思議だった。彼女はお店のこと、仕事について一切話そうとしなかった。だから僕の方も単純な流れ作業に従事していること、何の取り得もない工員であることに話題を向けずに済んだ。それに、親兄弟、親戚縁者について、それこそ友人知人にさえ話が及ぶことはなく、ただ互いの日常生活、たいしたエピソードもない一人暮らしについて報告し合う、その程度のものだった。意識しない女ともだち、住む世界があまりにも違うせいなのか、変に構える必要のない関係性、僕の側からはそんな感じだった。

 今週も金曜の深夜、定期便のように彼女からメールがあった。土曜はたいてい仕事だったので、すでに寝ているときもあり、起きていても“お疲れさま。変わりない?”程度のメールを返すだけだった。でも、その夜は少し違っていた。具体的にどうしてほしいとか、こちらに何か答えを求めているという感じでもなかったが、その短いセンテンスから何か疲れているような、もっと言えば病んでいるような、そんな感じを受けた。僕はケータイを取って通話に切り換えた。「どうしたの? 電話してくるなんて」。逆に彼女の方が驚いていた。「いや別に。どうしているのかなぁって」。僕は平然としているふうを装って、声のトーンを抑え気味に続けた。

 午前一時をまわっていた。「明日も仕事でしょ。もう寝なきゃ」。もう少し話したい、逆にそんなニュアンスを彼女から感じ取った。「けっこう目がさえちゃって。何でだろう」。他愛のない会話が始まろうとしていた。「ごめん、ちょっと待って」。彼女がケータイの前でごそごそと何やらし出した。「………………」。僕は黙って待った。「お待たせしました。ちょっとね」。その言葉どおり、たいしたことではないのだろうけど、少し気になった。「まだ着替えてなかった、とか。いや…」。深夜の電話にありがちな、ケータイ片手に妄想をふくらませているように思われては、と話題を変えようとしたが言葉につまった。「ネコちゃんがうろうろし出して」。愛猫が寝ぼけて、所定と違うところでおしっこの構えをみせたので、ということだった。

 今度はこちらの番だった。付き合っている彼女からメールが届いた。こんな時間にどういうこと? 僕の生活パターンを知っているのに。とっくに寝ているんだよ、普通なら。変な勘でも働いたのか、それにしても…。頭の中でとりとめもなく言葉がめぐった。「ちょっと、ごめん」。放っておこうかとも思ったが、通話を保留にしてメールを開いた。胸騒ぎというほどでもなかったが、そのままにしておくのがどうにも気持ち悪かった。“もう寝た? 寝ているだろうね。わたしも寝ていたけど…”。しっかり寝ぼけているようで、辻褄の合わない言葉を羅列していた。もちろん返信せずに、とうぜん最後まで読まずに通話へ切り換えた。「何の話だったっけ? あっ、そうそう…」。僕は、一人で遠出したときの話をしていたが、もうその続きを話す気にはなれなかった。

 「一度会えない? 話があるんだけど…」。とりとめのない話が途切れたときだった。こちらの“えっ?”というケータイ越しの反応を察したかのように続けた。「…いや、もちろん、お店ではなく」。僕に会わない理由はなかった、彼女とは別れたも同然だし、自分勝手だけど。「別に構わないけど。じゃあ、いつがいい?」。完全休養日にしている日曜日に人と会うのはおっくうだったが、平日の夜が仕事なので仕方がない。ぶらりとそちらの方へ行きたい、というので最寄り駅近くの喫茶店で待ち合わせすることにした。あとで、次の次の日曜日にすればよかった、と後悔した。よく考えるまでもなく、もう日付が変わって土曜日になっていたので、会うのは明日の日曜日。そのときは何の話だろうと思うより、会うこと自体が面倒に感じられ、後悔あとに立たず、という感じだった。

 約束のある日曜日は、朝から落ち着かない。独り身の気ままな、まったくフリーな休日になれているのでなおさらだった。彼女とは午後二時に待ち合わせていた。着て行く服も考えないといけないし、時間が近づくにつれて気分が塞いでいく、いつもながらに。それにしても、いったい何の話だろうか、そもそもホステスがお客と同伴以外で、プライベートで会うなんて何の得にもならないのに。まあ、日ごろの営業メールのうっぷんもあり、気晴らしで週一回メールしている、ちょっとした男友だちと、その延長線上で一度会ってみるか、そんなところだろう。本屋の前を通り過ぎながら、とりとめもなく考えをめぐらした。ホステスの私服ってどんなものなのか、落差があるほどぐっと来るものかも…。そんな低級な妄想までいだきながら喫茶店のすぐそばまで来ていた。

 板チョコみたいな扉の前に立って、ふと彼のことを思い出した。本屋の前で、傘を忘れていますよ、と呼び止められた、あのときの小柄で優しい感じの彼。そう、この喫茶店でお茶したんだっけ、と思いながら扉を開けた。もともと勘のいい方でも、それこそ霊感を覚えたこともなかったけど、彼女がいないか店内を見回していると、驚くことにその彼がいた。前と同じ奥のテーブルで壁に向かって座っていた。声をかけようか迷ったが、後ろ姿で僕に気づいていないようだったので、入口付近のカウンター席にそっと腰を下ろした。声をひそめてブレンドコーヒーをたのんだ。そんな自分が滑稽に思えて苦笑した、僕の声なんて覚えてないだろうに。約束の時間からすでに十分が経過していた。

 ケータイを出して彼女へメールしようかどうか考えているところだった。気がつくと横に彼が立っていた。わざわざ近寄って来たのに何やらバツが悪そうに、顔が引きつっているようにさえ見えた。「やあ、この前は。また、偶然ですね」。居るのに気づかなかったような素振りで彼にぎこちなくも笑顔を向けた。彼は黙ったまま立ち尽くしていた。気まずい間(ま)が広がっていく。僕はさらに言葉を継ごうと頭をめぐらせた。「誰かと待ち合わせ? 僕もそうなんだけど」。やっとの思いで絞りだしたのがこれだった。彼はどういうわけか、目を赤くしていた。どうしていいのか分からなかったが、他の客の手前もあり、とりあえず横に座るよう促した。何か悩み事でもあるのだろうか。「どうしたの、大丈夫?」。彼は下を向いたまま身体を硬くしていた。「本当にごめんなさい…」。言葉を絞り出すように話し始めた。

 代わり映えのしない、陳腐な日常の中で、まさかこんなに哀切な話を、しかも渦中の一人として聞かされるとは…。驚きを通り越して妙に冷静に受け止めている自分がいた。僕は彼の横顔を見つめた。こうして白昼、間近で見ると納得できないこともない、そう、どことなく似ている、この顔に濃い化粧を施せば…。いや、似ているとか、違うとか、そういうことではないのだから。ここ最近ではそれほどめずらしくもないのだろうが、身近で起こるとかなりインパクトのある出来事、そうそう生じ得ない事象には違いなかった。これまで胸につかえていたモノどもやコトどもが、奥底から解き放たれたような、すべてが合点のいく、すっきりした感覚が身体の内側へ広がっていった。

 要するに“彼が彼女であり、彼女が彼であった”ということ。二律背反、矛盾した表現であるのは承知のうえで、なかなかキャッチーな言い回しと変に感心していた。でも、それが事の真相のすべてだった。“彼”は、一時間以上も前からここにいて、待ち人が来たらどう言おう、それこそどんな顔をして会えばいいのか、と倒れそうなほど苦悶していたに違いない。一方“彼女”もまた、どう言い訳すればいいのか、本当のことを言って嫌われないか、もうこれで終わってしまうのではないか、と心神を耗弱させて壁を前にして座っていたのだろう。彼、いや彼女はようやく心の整理ができたのか、もうここに及んで怯むことはなく、しっかりした口調でこれまでの経緯を話した。

 小さいころから心と体の違和感にさいなまれてきたこと、成長するにつれてそのズレがますます乖離していったこと、生きていくのもままならないほど不一致に苦しんだこと、果ては自死も考えたこと…。本当のところは当事者にしかわからないだろうに、僕のような第三者、そのカテゴリーの外にいる者にもわかってもらおうと懸命に説明してくれた。羞恥心や自己嫌悪との闘いは並み大抵ではなかったろうし、もちろん大きな勇気が要っただろうに、偽りなく率直にすべてをさらけ出そうとしていた。カウンター越しに誰に語りかけるでもなく、横にいる僕の存在さえも意識の外に置くかのように、ただ自分自身と向き合って、悲しみに満ちた苦難のプロセスを振り返っているように見えた。

 こんどは受け止める側の度量が試される番だった。彼=彼女の思いに、真摯な問いかけに、しっかり応えなければならない。でも、どう対すれば、どんな言葉をかければ、その澄みきった瞳にどう向き合えば、いいのか。混乱した頭の中を、ざわめきが止まらない内心を、微かに震えている指先を、鎮める術をなかなか見いだせなかった。止まり木に佇む、飛び方を忘れた小鳥のように僕はカウンターで身動きできずにいた。彼は、彼女は、マスターがいつの間にか奥のテーブルからカウンターへ移した、冷めたブレンドコーヒーを前にうつむいていた。僕ていどの者が、これまで何事にもいい加減に向き合ってきた、底の浅い者が表層的にいくら言葉をめぐらしても、どうにもなるものではない、そんな諦めにも似た気持ちだった。

 僕は彼の、彼女の手を握った。もう話さなくていい、それ以上負荷をかけなくていい、もう自分自身を責めなくていい、これからは楽にそのままでいればいい、そんな思いで握りしめた。頼りないけど、少しは僕に寄りかかってほしかった。これがいま僕にできる唯一のことのように思えたし、僕の、彼への、彼女への答えだった。その手の甲から、微かな肩の震えから、内心の熱い流動から、彼が、彼女が伝わってくる。僕は彼を、彼女を引き寄せた。他の客の目が気にならないのは不思議だった、こんな心境になるのは初めてだった。カウンター席の隅で僕と彼=彼女は肩を寄せ合った。見た目にはゲイカップルに見えただろうが、そんなことはどうでもよかった。二人は紛れもなく重なり合っていた。僕と彼=彼女の関係性。穏やかで清らかな風が漂っていた。そのあいだに、まったくずれはなかった。

 だからと言って、すぐに関係性が縮まり、深まるわけではなく、かえって変に意識して丁寧語を交えたメールを送り合ったり、電話でもこれまで以上に沈黙の時間が続いたりと、ぎこちないやり取りが多くなる始末だった。あの喫茶店での出来事がなかったかのように振る舞おうとして不自然になってしまう、でも再びあのことに触れられない。そんな情況が二カ月ほど続いた。このまま徐々にフェードアウトしていくのだろうか。いずれにせよ、どちらかがアクションを起こす必要があった。本来なら僕の方から、彼=彼女の告白、カミングアウトを受け止めて、ということなんだろうけど、なかなか整理がつかず踏み出せずにいた。これまで異性しか意識して来なかった身にしては、どうしたらいいのか、どうにもこうにも混乱して、というのが正直なところだった。

 こちらからアクションを起こせば、彼を、その性向を受け入れるサインになるのではないか、同性愛者でもないのに、そんな無責任な…。メールをやり取りしているのはあくまで彼女であって、彼ではない。正確には、女性のような彼である彼女? いや男性である彼女の…。言葉遊びをしているわけではなかったが、彼=彼女の等式を頭では理解できても生理的に受け入れられなかった。ラウンジのときのように化粧しているから、外形的に彼女であるから、セクシュアリティが女性なのだから、そう、だから彼であっても許容できる? たんに外殻、表層だけの話なのか。あの喫茶店での彼、本屋の前で傘を渡してくれた彼は僕にとってどういう存在なのか。気の合う男ともだち、とでも? 彼女とは違う別人格と思えばいいのか、内面は彼女と同一であっても。

 何も難しい話ではない。ラウンジへ行けば彼女として、喫茶店で会うときは彼として、それぞれ別の人に対するように、事の本質はさて置いて、あくまで現象面、見た目で判断すればいいだけではないか。内側のずれを、二重性を、両性具有をそのままに、それこそ彼および彼女を苦しめている同一性のくびきから解き放つ契機になればいいのかもしれない。心身の不一致は程度の差や顕在・潜在の違いこそあれ、意識・無意識によるかも別にして、誰もが感じている。一方で、自同律の不快、ぴったり重なり合うことに悩み苦しむ向きもあるのだから、同一性へ向けて不一致を排除していかなければ、と自縄自縛になる必要も、何がなんでも一つに収斂しなければならないわけでもない。

 僕は彼、彼女のこのずれ、不一致が何か可能性のようにも思えてきて、少し気持ちが軽くなっていった。内面の整理が済んだわけではなかったが、とりあえず動こうと、動けるような気がした。“こんど、会おうか”。彼女へメールした、それは初めての、彼へのメールだった。すぐに返信が来た。“うれしい。いつにする? どこがいい?”。もちろん、平日夜のラウンジではなく、日曜日の、どういうわけか郊外のテーマパークが頭に浮かんだ。この歳になってあまりに健康的で、デートらしくてどこか気恥ずかしかったし、僕にとってレアケースもいいところだったが、こんなところでも気持ちに正直に、と思った。このまま彼=彼女との関係性を終わらせるわけにはいかない。僕の中に強いものが芽生え始めていた。

 僕は彼を眺めていた、細くて小柄な、穏やかで優しい、まぎれもない彼を。彼は、彼でやって来た、彼女でなく、あの喫茶店での、きっと等身大の彼で。だからと言って、彼の中の彼女がいなくなったわけではないだろうし、内側にしっかり蔵しながら、僕の前にいるのだろう。彼の言葉の端々に、ちょっとした仕草に、はにかんだ姿に、澄んだ瞳の奥に、彼女を感じた。彼であっても彼女なのだし、彼女だから彼であったし、僕はそういう彼を、彼女を、そう陳腐な表現だけど、そのすべてを、受け入れられるような気がした。そうだからこうあるべきだとか、こうでないからそうであってはならないとか。分別や決めつけ、カテゴライズに意味はなく、そのあるがままの、その可能性の中心にかけてみようと思った。

 彼は、メリーゴーランドの前ではしゃぐ小さな男の子へ優しい眼差しを向けていた。僕は、夕陽の差した、その横顔を見ていた。家族連れが三々五々、戯れながらゲートへ向かって通り過ぎていく。僕と彼は白いベンチに腰掛けて、ただぼんやりとその光景を眺めていた。日の翳りに冷え込みを、長い影に心細さを感じたが、隣には彼がいるし、たしかに彼女もいた。その核になるもの、混ざり気のない純粋なもの、穢れなき聖なるもの、精霊のごとき我を導くもの。僕のまわりに、この内側に、襞にそって心地よく、漂い浮遊する、かけがえのないもの。たとえ目に見えなくても、かたちを現さなくとも、はっきり感じられなくたって、それが真であったし、これまで気づかずに僕が求めてきた、すべてだった。僕と彼、そして彼女の関係性。そこで充足していた、一致していた、一つになっていた。そのあいだに、そのなかで、清らかに、自由に飛翔して。

                 ◆

 僕は、ラインに沿って、ごく自然に、なんの躊躇のなく、ただ手を動かす。オートマチックに、システムの一部となって、神経を遮断し、脳髄を麻痺させて、おもむろに筋肉を動かす。ベルトコンベア上で、無機物の外形に、突起やへこみに、その傷に、鋭く視線を動かす。単調に刻む微かな音に、軋むリズムに、不規則に広がる波長に、かたむける、そばだたせる、静かに聴力を動かす。執拗に擦れ合う、アンダーな歪みに、稀薄な潤滑油をくぐらせる、ずれを修正して、滑らかに押し出す、すっと鼻腔を動かす。終わりなき繰り返しに、心身の硬直を自覚する、シークエンスに嘔吐する、苦い味覚を動かす。無機質にラインに相乗する、関係性を乗り越える、身軽になって、死を与える、この思いを動かす。

 

 内と外の隔たりを、そのあいだの流動を、止めることなく、ただ寄添って、偏移する、トランスポートしていく。厳かに滞留し、一時停止することで、表象を、幻影を現出させて、充足する、錯覚させる、日常を得て。虚しく時を刻み、無自覚に戯れて、あいだにたゆたう、流転する、旋回させる、ずれを広げて。スパイラルに、外殻を、表層を漸進し、超脱していく、生み出していく、形が在ろうと無かろうと。ただ埋めていくだけの、満ちることを厭う、徒労感を漂わせて、そのあいだを、彷徨うだけならば。僅かでも溢れ出ようと、表面張力を保てなくても、こぼれ落ちようにも、内側に留まる、ただ流れ動く。僕と彼女の可能性。


 かけがえなくも脆く、積み重なるうちに退く、すっと立ち上がりそうで重く、打ち立てようとするに砕く、滑らかなようで躓く、遠く伸ばそうにも省く、果てなくも変わらず。隔たりに執着し、流れを押し止める、両端を削いで、成り立たせる、あいだを囲む、遡らず先へいく、環の中で螺旋する、変わらず果てもなく。真っ直ぐに行くのでも、横へ逸れることもなく、ベクトルが効かず、めぐりめぐって、重なり合おうにも、相乗を試みようとも、果てなく変わらず。抜け出そうと、身体ひとつ前へ、置き去りにしても、纏わり付いてくる、さらりとした粘着質に、向きを直されて、変わらず果てもなく。姿を隠そうが、尻尾がはみ出し、角を曲がっても、余韻が残る、もって行かれようが、思いが募る、果てなく変わらず。僕と彼女のエターナル。


 交差する時間と空間に、存在が顕現する様子を、重ね合わせてみたところで。こぼれ落ちてしまう、集約できない、非存在というか。ラインをはみ出し、じわり広がっていく、静かな流動体。かたちを成さず、辛うじて感じられるだけの、余白を埋める媒介物。三位一体に誘われ、精霊を迎え入れる、手を差し延べて。融け合おうにも、足らざるを補おうと、起動してみたところで。あいだに浮遊する、モノどもコトどもを、そばに従えて。組み込んでいく、純化していく、重畳するがごとく。双方向に浸潤するまで、たとえまだらに留まろうとも、一体化へ向かって。面と向かうあいだに、惹かれ合って、離れてしまうとは。踏ん張りが効かず、幻影を抱くしか、その距離感に安心して。足並みをそろえて、自足してしまう、気づかぬふりをして。僕と彼女のあいだで。


 濃淡の差に怯むことなく、徐々に滲み出ていく、重なり合っていく、混交の極まれる先に。グラデーションの両端で、明暗を分かつ、際立つ色調に、懐かしむ思いも。しだいに薄れて、絡み取られていく、浸透し合って、はじき合うも。侵食して面倒でも、多少くすんでしまっても、濁って気が咎めたとしても、双方に任せるしか。枠を嵌めようとするも、広がりに委ねて、自由を全うする、堰き止めようなんてこと。すぐに決壊する、あふれ出す、潤沢な精粋に洗われて、純度を高めて。涸れる恐れも、汲み尽くされる心配も、無尽蔵に湧き上がる、内的な飛沫のもとに。奥底で反応する、混乗する、顕現をもたらすまいと、流れを加速して。両端へ打ち寄せられる、片隅に追いやられる、面影だけ残して。僕と彼女の隔たりを。


 満を持して、このときとばかりに、隔時性に、その瞬間にかける、前後の動きを、余白を追い払い、ずれを矯正して。ただ現われに、視認できる存在に、勇ましくも頼りない、その表象に心を寄せて、信頼するしか、道がないとでも。呪われた凝集から、目を逸らし、聞こえぬふりをして、沈黙を強いても、堅牢と立ふさがり、払い除けられる、撥ね飛ばされる、はるか埒外へ。かたちに頼らず、現われに従わずとも、浮遊するモノどもコトどもに、気息に、精霊に誘われ、造形を拒む、緩やかに律動して。たんなる通過点を、ただ右往左往して、自らを定められず、漂流する媒介項に、甘えて依存する、馴染む双方の彼方へ。タイミングを見計らって、手を差し延べる、関係性をとらえて、ぐっと引き寄せる。僕と彼女の真ん中に。


 危うく不確かな頃合いに、釣り合った隔たりを、無理に照合しようと、手を尽くしてみても。バランスを取らず、崩れたままに、穏やかに余白を漂って、機会を待つしか。ただそこら辺りを、当て所なくグルグルと、めぐるだけでも、あいだに沸き立つものを。出会いがしらに、切っ先を揃えようと、思いをそこへ、投げかけようが。他人事のように、すれ違うだけで、辺りがざわつく、余韻を残して。波紋のように、枠に向かって、囲いの淵へ、たとえ逢着したとしても。返す波に戸惑って、乗り遅れようとも、性懲りもなく、表面を漂うだけに。逆らって進むでも、潜ってやり過ごすでもなく、曖昧にたゆたう、均衡をとろうが。幾層にも重なって、真っ直ぐに垂れ下がり、深みへ降りようにも、広がりに眩暈して。僕と彼女のまにまに。


 環の中で追いつこうにも、タイミングをつかめずに、なかなか距離も縮まられず、ただ背中を見つめるだけに。無限軌道を思わせる、堂々めぐりに疲れ果て、気がつくと背中に、視線を感じることも。緩やかに旋回して、円錐の頂を仰ぎ見ても、遥か彼方の一点を、渇望してこそ。速度を上げて、近づけるほどに、楽な見通しなどなく、静止しているがごとく。時間を止めて、隔時性に澱んでも、後先に翻ろうされて、ただ空間を満たすだけに。すっと超えてしまって、じんわりと余剰分が、隔たりにしみわたる、異なるレベルとの狭間で。少し躊躇するも、一歩踏み出そうにも、徴(しるし)を残せず、いっしょに亡骸を片付けて。後ろ髪を引かれるように、反動する力に寄添って、何ごともなかったように、元の鞘へ。僕と彼女の巡り合い。


 わざと間合いを外し、曖昧にする、調子を狂わす、麻痺しているあいだに、事が済むのなら。変わらず、気づかぬ、デーリーのなかで、イレギュラーを埋め込んで、見て見ぬふりを。脇目もふらず、罪悪感を押しやって、時の流れに、隔たりに寄添い、自らを満たそうにも。モノやコト、それこそヒトの現れに、表面をあげつらうだけで、臆することなく、眺めやればこそ。引き寄せようが、取り込んでみたところで、くさびを打とうなんて、思いもよらずに、ただ面するだけで。そのあいだの、濃淡混じる媒介項に、ほのかな徴(しるし)を、関係性の兆しを、感じ取れるなら。あくまで間隔をとって、つかず離れず双方向から、にじみ出るものに、互いに信頼を寄せて、しみわたるままに。僕と彼女の間合いで。


 捉えられなくても、つかみ得られなくとも、心地よく繋がっている、あうんの呼吸で、通じ合っている、隔絶のなかで。内と外を分かつ、重装備の表柱に、確信を持ったところで、二律背反に立ち向かうには、力不足も甚だしく、戸惑い漂うだけに。思い切って踏み出そうが、快く受け入れてみたところで、行きつ戻りつ、身の置き場もなく、引っ張り合いに終始して、充溢には程遠く。外殻に囲まれて、内心に留め置かれても、全体を成すだけで、中核を見失い、虚しく佇む、幻影を呼び込めるなら。流れを引き起こす、カタチもろとも一掃する、たとえ息をつけなくても、融け出そうにも、ふやけようが、身を預けることで。流動の果てに、気息をまとい、穏やかに交合して、つぶやき合う、聞き耳を立てる、手を取り合って。僕と彼女の徴(しるし)に。


 細胞分裂に頼らなくとも、ずれと共に生じる、一対の関係性に、互いのあいだに、芽生える兆しを、引き寄せられるなら。生理現象に惑わされずに、余白を保つ、剰余を生かす、未だ到来しないものに、引き返し得ないことに、相乗して。境界線を越えずとも、アンダーグランドに、内と外のあいだを、滲み出すならば、互いのもとへ、流れ着くものこそ。幾何を崩すにも、まだらに賭けるにせよ、交わろうとしない、混沌も寄せ付けない、清らかに澄んだ模様に、打ちひしがれて。そこへ繰り出そうと、前のめりに傾けて、加わろうとしても、重ねられない、弾き返される、足元に転がって。波紋が広がって、片方の岸から、たとえ力弱くとも、こちらの波打ち際に、穏やかに届くなら、しっかり受け止めて。僕と彼女の引かれ合い。


 そうとは知らず、そばまで来ているのを、気づかぬままに、引き寄せ合っている、手を差し延べようが、たとえ先に触れなくても。気高い媒介物が、この内側へ、気息とともに、精霊となって誘ってくる、安息の瞬間(とき)を、共に迎えて。あいだを埋めるのに、あくせくしたり、諦めて手放すでもなく、寸分違わず、融け合っている、兆しをつかもうと。ぐっと踏み込む、己を信じて、汝を疑わずに、裸形の魂でもって、互いを開く、螺旋状の流動に。渦のなかへ合流する、懸命に混ざり合って、連なって昇ろうとする、握る手に力を入れて、思いを確かめる、昇華の前に。流動が加速していく、この身体を、気流が揮発していく、その心を、純化のまにまに、愛を得て、愛を与える。僕と彼女の関係性。 (了)

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僕と彼女の関係性 オカザキコージ @sein1003

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