第28話 発令

 明治30年7月、皇國は清朝と講和条約を批准。

 鉄道敷設権や港湾の一時占領といった不可解な条項を露仏は首を傾げて眺めていたが、やがて自分たちが壮大な狂騒のスタートダッシュに遅れを取ったことに気付かされる。


 連合王国とドイツ帝国が皇國と協商を締結、それぞれ南通半島と威海衛を獲得したからだ。英独が史実より1年ほど早く本格的な中国経営に乗り出したのだ。


 露仏は直ちに下関条約へと干渉するものの、英独が皇國へ与したために膠着。カリブ海でのスペインとの対立を優先した合衆国が不介入の立場を取ったため、ここに露仏の目論見は破綻した。

 フランスは大焦りで広州湾を租借するも、皇國そして英独に1年ほどの遅れを取ったのは否めず、ロシアに至ってはさらに悲惨で、英独の保証のもとに皇國が清朝と遼東半島不割譲を結んでいたため南下先を封じられた形となった。


 このため武力を以て露仏は大陸進出を試みたが、清朝世論の憤慨に遭った。

 皇國の長江流域への進出も大概ではあるが「こちらから仕掛けた戦争で負けたのだから」とある程度冷めた見方があった。しかし後から来た英独は「一方的に鉄道敷設権を強奪した略奪者」とみなされ、さらに軍事力で恫喝して中国領土を租借した露仏は「もはや侵略者」のレッテルを貼られ、抗議運動に直面することとなった。


 三国干渉を封じた皇國は朝鮮半島における影響力を失うこともなく、露仏に対する強烈な抵抗運動を横目に、さしたる反発もなしに半島および長江南岸を勢力圏へと組み込んだ。


 こうして列強諸国の目が大陸に釘付けとなっていた時期だった――太平洋上の形勢が、動いたのは。



〈1898年 列国勢力圏〉

 清朝:直隷省、遼東半島

 皇國:福建省、浙江省、江西省、湖南省東半、長江デルタ

 英国:広東省、四川省、湖北省、安徽省、江蘇省北半、青海省、チベット

 ドイツ:山東省、河南省

 ロシア:北満州、内モンゴル、新疆

 フランス:広西省、貴州省、雲南省





―――――――――





「わぁいうみひろいひろぉ〜い」


 秋山は狂ったように呟きながら、鼻水を軍服の袖で拭う。


「司令……、鼻紙をお持ちしましょうか?」


 見かねた飯田久恒参謀がそういったが、彼は手で制し返す。


「面倒くさい」


「しかし、秋山少佐、佐官へ昇進されたのですから、最低限のマナーは身につけて頂かないと、会議や交流会に招かれたときに、恥かくことになりますよ」


 すると秋山は笑って飯田参謀の頭をポンポンと叩く。


「相変わらず貴様は堅いなぁ。大丈夫だ、その時は何とかなるだろ」


(十中八九何も考えてねぇ…。てか滅茶苦茶臭ぇ!何だこの臭いは!)


 参謀は自身を取り巻く異臭に気づく。


(何だ、艦にでも異常が起こったか…!?いや、それにしては石炭や焦げてる臭いがしない…。どちらかといえば…熟成された汗と…脂の臭い……?)


 彼は、自分の頭に未だ手を置く、目の前の中年男に目を移した。

 そして、すべてを察した。


「秋山司令…。この一週間、一度も風呂に入ってない、なんてことはございませんよね…??」


 全く信じたくないようなことであったが、目の前の司令官は、それを確実に裏付ける悪臭を、これが証明だとばかりに纏っていた。


「ん?当然だがそれが?」

「」


(何考えてんだこの司令は…!?この人は頭がいいから名参謀だが、普通だったら狂人だ!とにかくこれは不味い、放置していたら大変なことになる。主に鼻が!!)


 切羽詰まった飯田参謀は早口でまくし立てる。


「司令、いいですか?常人はいくら集中する期間でも、食事は摂り、歯磨きはし、風呂に入ります。一週間風呂に入らないのは司令の勝手ですが、正直言って滅茶苦茶臭います。このままでは艦隊司令部要員の士気が司令の悪臭で暴落する恐れもあります。ですから直ちに速やかに遅滞なく風呂に入って来て下さい。」


 気づけば彼は秋山司令を司令室から引っ張り出し、艦内廊下に出ていた。

 取り敢えず司令を風呂場にぶち込み、踵を返す参謀。

 そこで艦内招集が下る。


『飯田参謀、秋山司令は速やかに司令室へいらしてください。』


 復唱放送を聞かずに、参謀は走り出す。


(この時間での招集ってことは恐らく…、想定より早かったが、到着したか…。)


 そして、司令室に飛び込んだ。


「秋山司令は風呂に入られておる。要件は?」


 そう言うと、副参謀が答える。


「作戦開始地点『丙』に、間もなく到着します。

 40分ほどの早着です。理由としては――」


 理由の説明を参謀は手で制す。


「早く着けばつく分だけ作戦成功率は上がる。速やかに作戦を開始せよ。」


 秋山からも到着次第作戦の即時開始を命じられている以上、飯田参謀の判断に誤りはない。


「現在位置オアフ島北方67海里。潜水母艦『松島』以下『厳島』『橋立』三隻、第一次突撃隊、発艦用意!」


「復唱、『松島』以下全潜水母艦は第一次突撃隊発進用意!」


 後方へ続く潜水母艦の昇降機クレーンによって、新兵器が海面へ降ろされる。3隻に搭載された計12艇の潜水艇。これが明日、第一次突入隊5艇と第二次突入隊7艇に分けて、ハワイオアフ島へ突入する。


「『第一次突入隊』、発艦準備完了しました!」


 十分もたたないうちに、出撃用意完了の報せが来る。

 潜水艇昇降機は、5艇の潜水艇を降ろし終わっていた。

 あとは、秋山司令が手を振り下ろせばすべてが始まる。


(その肝心の秋山司令が………居た!?)


 突如として司令室の扉が開き、秋山司令が入ってくる。

 だが、彼は服を着ていなかった。

 タオルを腰に巻き付け、びしょ濡れでやってきたのだ。


 周囲の士官が呆然とする中、秋山司令は声を張り上げた。


「全く、歴史的瞬間だと言うのに何故俺を風呂に閉じ込めたまま放置する!? 確かに俺不在のときは飯田参謀に指揮権を移譲するとは言ったが。風呂場の外の廊下を通りかかった士官に『何処の士官さんか知りませんが、間もなく作戦開始らしいですよ?』なんて言われたから飛び出てきてやったわい。なんとか間に合ってよかった。」


 士官たちも秋山司令の変人ぶりは熟知しており、その上で、飯田参謀へ皆こぞって目を向けた。その視線は、『お前がどうにかしろ』との意思が強く強くのっている。


(私は司令の取扱説明書ではないんだぞ…!?)


 渋々と彼は秋山に近づく。


「司令、大変申し訳無いのですが、風呂へお戻りください。」


 当然秋山は抵抗する。


「何故だ!?俺にだって見させてくれ!歴史的瞬間だぞ!?」

「司令室で裸で水を撒き散らかすのは非常に迷惑ですよ!?頼みますから身体を拭いて服を着てきてください!!」

「やだ」


 目をつむって居座る司令を前に、呆れながら飯田参謀は指示を飛ばす。


「頼むぜ水兵」


 水兵たちは3人がかりで秋山を担いだ。

 そして、司令室を出て、脱衣所の方へ向かっていく。

 何か喚きながら消えていく艦隊司令を前に緊張が完全に抜けきった士官たち。


「作戦開始前に疲れるってどういうことだよ…。」


 そう呟きつつ、飯田参謀は右手を振り下ろした。


「第一次突入隊、発艦始め!!」


 一大作戦の始まりとは到底思えない空気感の中。

 緊張もクソもない声で、明治31年の『真珠湾作戦』は全く締まらないまま、美しい夕焼けを背後に発令された。

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