第13話 大連湾のほとりにて
霧雨の降りる大連湾のほとりに、水色の洋傘が立つ。
瓦礫と化した砲台を背に、ドレスの少女は立っていた。
「……似合いませんな」
後ろから掛けられた声に、少女はゆっくりと振り向く。
「正装で来いと呼び出したのは、閣下のほうではなくて?」
「おっと、これは失礼いたしました」
壮年の紳士は恭しく礼をする。あくまでも礼儀正しく人を舐めるものだから、少女の表情は余計に引きつる。
「相変わらず素敵なお靴をお召しなのですね、蔵相閣下」
「お褒めに与り光栄であります、皇女殿下」
少女の敵意を難なく躱して、紳士は頭を下げた。
「それで。大蔵大臣たる方がこのような最前線まで足を運ばれて、どのようなご用件でございますの?」
「まぁそこまで焦らずとも。お茶でも頂いてゆっくり――」
「あら。まことに残念なのですけれど、ここは帝都ではございませんの。お茶から弾薬、兵糧や倫理まであらゆるものを節制した素敵な場所ですわ」
「それはそれは……あの茶の香りを楽しみにしていたのですが」
「ええ。本邸でしたらよかったのですけれど、どなたかが玲那を北海道経由でこちらに招待してくださったみたいで」
あぁ、それに関してはご安心くださいと紳士は断った。
「そうですね。こちらに来た目的の一つではあるのですが……皇女殿下に、次の招待状をばと」
「……招待状?」
少女は聞き返す。まさかまた赤紙じゃあるまいなと訝しむその表情は、次の紳士の一言で崩れる。
「華族学修館、中等部でございます」
「!」
「ご存知ではあられましょうが、玲那姫殿下の合格は六年前に決しておりますので、4月からは帝都に戻られますよう、復員含め、こちらで手配をしております」
3月きりで、どうやら最前線と上川宮廷からはオサラバできるらしい。素直に喜びたいところだが、少女は複雑な心情だった。
それを察する素振りも見せず、紳士は言葉を継ぐ。
「それで、入学前の面接と申しますか。新入生の面談のようなものに、はるばる参ったのでございます」
「……なぜ蔵相閣下が」
「3月限りですが、学修館の教授でもありますゆえ」
あくまで仕事だという姿勢を崩さないようだ。ため息をついて、少女は顔を上げる。
「では、玲那もここでは軍人でございます。回りくどいのはなしにして頂けます?」
「……はは、では前座もこのあたりで。しかし面談の前に贈り物をば」
「贈り物?」
彼は、玲那に一封の軍令書を渡す。
「発……陸軍叙勲部?」
宛は間違いなく玲那の名が記されているものの、差し出し人はまったく関係のない陸軍の部署であった。しかし何か見覚えがある、それもゲーム関連での記憶だ。どのストーリーでどういう文脈で登場した部署だったか――よく思い出せない。とりあえずこの封を開いて、中身を取り出してみる。
「……?」
二重の半透明の袋に包まれて、真新しく光沢を輝かせる何かが入っていた。
「これは?」
「『
「??」
「北方および釜山鎮における防衛戦。
はっ、と眼を見開く。そうだ――この勲章、ゲームに登場する。それも、主人公を救うこととなる重要アイテムだ。
いつあたりだったかは忘れたが、学園で皇太子殿下はこの勲章を落とされる。次の式典までには見つけ出さねばならず、主人公も善意から手伝うことにする。有力な証言が得られたところまでは順調にいったが、悪役令嬢にとってはおもしろくない。このまま主人公が皇太子殿下の探し物を見つけてしまえば面目は丸つぶれだ。
そういうわけで悪役令嬢はあの手この手で邪魔をする。その裏で、陸軍叙勲部に恫喝をかけて銀杖章を新たにもう一つ鋳造させようとするのだ。主人公が見つけるのが先か、悪役令嬢が銀杖章を用意するのが先か。手に汗握るストーリーだ。
たしか主人公はその銀杖章について知るために、銀杖章を持つ乃木希典や東郷平八郎へ聞いて回ることとなる。
いわく戦功勲章のひとつ。
顕著な前進を称える『
戦功に合わせて等級が六つ設けられており、杖を象った徽章には等級それぞれに異なる星の意匠が凝らしてある。乃木が持っていたのは功二等の"
それも、天皇陛下の前でつくことを許されるというえげつない特権付きの杖が。
「……で、と」
追憶もほどほどに、手元へ視線を戻す。
この手に輝く徽章に象られた星は、とうぜん"旭光"でもなければ"魁星"でもない。そもそも功三等以上は将官でなければ叙勲されることはない。玲那は一介の中尉なのだから、良くて功五等だろう――けれどそれでもない。
「おめでとう存じます。杖章は――"
松方の言葉のとおり。六つの等級の、そのどれでもない星が輝いていた。
「すい……せい」
「ええ。先鋒銀杖章にございます」
「先鋒?」
喉の奥に引っかかりを覚えつつも、玲那は首を傾げる。
「金鵄章・銀杖章ともに功一等から功六等まで六つの階級があるのはご存知ですね」
「ええ」
「では、それとはまた例外に、階級や年齢に関係なく誰にでも授けられ得る戦功章級があることはご存知ですか?」
その言葉に、はっと顔を上げる。松方は笑った。
「先鋒金鵄章、ならびに先鋒銀杖章。文字通り最前線にて先鋒となり、幾多の敵を打ち滅ぼし、困難なる戦況を打開した勇者にのみ与えられる名誉勲章です」
等級の外側に、毅然とそして孤高に存在する"先鋒"章級。誰にでも門戸が開かれながらもただ純粋に戦果のみが問われ、その授章条件の厳しさゆえに功一等とは別枠の尊敬と羨望を惹きつける。
「……ッ」
そして、玲那はよく覚えている。思い出した、といったほうが正しいか。
皇太子殿下が落とされたのは――その徽章に象られた星より呼ばれるその名は"
「そんなものを、玲那に……?」
ゲームではのちに玲那が探す羽目になるそれを、けれど驚くべきことに、いま。玲那自身がそれを叙勲されてしまった。
「上層部の限られた者たちだけですが、気づいてはおりますよ」
蔵相紳士は息をつく。
「英国製の機関銃を持ち込みさりげなくロシア帝国を脅して、手を引かせたのです。姫宮の機敏な叡智がなければ、露清に同時に攻められ皇國は滅亡していました」
「……ええ」
「枢密院の渡ってしまった薄氷を、間一髪で割らせなかった。姫殿下は、知る人ぞ知る救国の英雄でございます」
震える手で受け取る翠星の勲章。なんだ、ゲームみたく陸軍叙勲部なんかに恫喝をかける必要なんかないじゃないか。あの悪役令嬢も赤紙を貰えばよかったのに。
勲章探しイベント。まあまあストーリーの山場であったはずのそれは、主人公みたく「見つける」でもなく、あるいは悪役令嬢みたく「作らせる」でもなく。自ら銃弾飛び交う最前線を這いずり回って「叙勲される」とは。
悪役令嬢ながら、やり方が脳筋すぎる。
「まさか……北方戦役の屈辱が、こんな形になるなんて」
すこし笑ってみる。ゲームではあんなに輝いて見えたこの徽章も、いまの玲那にとっては泥水だ。あの無力感は二度と忘れまい――ストーリーにおける役割とは裏腹に、この徽章は玲那にとって、きっと。
「枢密院への抵抗の灯火」
思わず口から零れて、はっと手で塞ぐ。
おそるおそる蔵相のほうを見上げると、彼は柵に手をついて、大連湾のほうへと煙草を吹かしていた。
「そうです。それでよい」
彼は静かに呟いた。
真意を測りかねていると、ゆっくり彼は振り返る。
「まだ時間がありますね。すこし雑談でもいかがでしょう?」
「……素敵なお話の振り方でございますこと」
気分が乗るわけもない。踵を返して、玲那は本営へと戻ろうとした。
「姫宮の仰るとおり、枢密院の
「……」
足が止まる。
「……大山司令官から、伺ったのかしら?」
「さあ。重要なのはそこではございません」
ぎゅっとドレスの裾を掴んで、一歩踏み出す。聞いてやるものか。
「たしかに皇國枢密院は強い。ええ、ですが姫宮、それは史実という既に敷かれたレールがあってこその強さでございます」
「っ」
「これから歴史が改変されてゆくにつれて、そのアドバンテージは大きく後退していくことになりましょう」
足は前へと進まない。
「北方戦役では、姫宮の機転でなんとか死なずにすみました。けれど次はどうなるかわかりませぬ。これから年々、枢密院の知る歴史は外れて失態を晒すことも増えてくる――そうなったとき、大切なのは何でありましょうか?」
きりり、と翠星杖を握る手が締まる。その答えは玲那が一番知っている。
「枢密院を止める人間の存在」
この小さな唇は勝手に動いてしまう。我ながらちょろい。
けれど、これを口にする権利があるのは
「姫宮から見て、大山巌はどう映りましたか?」
「……これから増えていくであろう皇國臣民のかたちです」
このまま枢密院が英傑の威光を盾に、紙一重の成功を振りかざしていくのならば。誰もが自分で考えることを無駄と判断するようになって、大山のように思考を放棄していくのだろう。
「そしてそれが極まった時、いまいちど枢密院が北方戦役の如しをやらかせば」
言わせまいと、堰を切ったように言葉が続く。
「冗談なくこの国は――迅速かつ完全に崩壊いたします」
ばっ、と振り返って玲那は杖をつく。
蔵相松方は笑っていた。
「そうです姫宮。ゆえに枢密院への」
「「抵抗の灯火を消してはならない」」
重なってしまって、奥歯を噛み締める。その言葉は、これ以上ない辛酸を嘗めさせられた北鎮軍人のものだ。我ながら幼稚な感情だとはわかっている。けれど。
(……玲那も所詮は12なのですね)
ため息をついて、頭を冷やす。
そんな玲那を傍目に、松方はすこし遠くへ目をやった。
「来たか」
そんな一言。時間ですね、と彼は続けた。
「松方大蔵大臣、ここに居られましたか」
向こうから、ひとつ人影が近づいてきた。
その姿がはっきりすると同時に玲那は息を呑む。
(……っ!)
その顔、知っている。直接会ったことはない。面識もないけれど、教科書の片面を貸し切って載っていた――その男は、松方へと向き直る。
「閣下。はじめまして、東郷平八郎と申します」
(あの、東郷平八郎!?)
英雄の出現に唖然としていると、彼は松方へと会釈する。
「松方閣下御自ら、こちらへ来られていると聞き及び」
「うむ。こうして顔を合わせるのは初めてだな」
「あの『英雄機関』へと呼ばれたのは開戦直前でしたもので。すぐに戦争が始まって、長らく本土を不在にしており枢密院にも出れておらず、申し訳ございません」
「そうか、ご苦労」
松方は手で制した。
「ひとつ、聞いておきたいことがある」
「……と言いますと?」
「君の、いまの覚悟だ」
東郷は黙りこくる。
「枢密院に呼ばれて知ったのだろう? この国が辿る運命を」
「……『史実』とやらでありますか」
思わず目をそらした。やはり枢密院は史実知識を共有する歴史改変機関だったか。
「しかし、ここでは周りの目もあります」
「否、ここでよい。忌憚なく述べよ」
それを玲那の前で聞かせるということの意味は、たぶん。
「では閣下。ひとつ伺ってよろしいですか」
「うむ」
「枢密院へ私が呼ばれたのは、私が『史実』で英雄となるからでありますか?」
「あぁ。人選の理由はそうだろう」
英雄機関。その名に相応しいというわけだ。東郷はどこか諦めたようにため息をついた。
「そうですか……なれば、私の意思は最初から一つです」
玲那はゆっくりと顔を上げる。英雄の意思、か。それを玲那に聞かせて、この蔵相は何を期待するのだろう――玲那の決意は変わるまいと知っているだろうに。
そう思いながら、東郷の口を見ていた。
「この『独裁機関』を終わらせること」
「!?」
その口から出たのは、予想の斜め上を行く言葉だった。
玲那の驚愕をよそに、松方はふんと鼻を鳴らす。
「独裁、か。枢密院はあくまで史実の踏襲を避けるために設立された機関なのだがな」
「ですが、ここでの決定は枢密院の出先機関である内務省、そして財閥を通じて実現される。独裁機関そのものでしょう?」
「ならば、どうだと?」
「聖上陛下は五箇条の御誓文にて、民に広く会議を開いて政治を決めると仰せになりました。枢密院はその存在自体がそれに背いている」
ともすれば物憂げな視線を海へと送って、言葉を継いだ。
「それを放置するほど、私の皇國臣民としての覚悟は甘くありません」
枢密院は、内部にとんでもない劇薬を孕んだのではあるまいか。
「――と。それだけは覚えておいてくだされば幸いです」
では、と踵を返そうとして、彼はこちらへ一瞥をくれた。
「玲那姫……?」
「ふぇっ」
その名前を、なぜ知っている?
尋ねる隙も残さず、彼は足早に立ち去っていった。
「枢密院も、一枚岩ではないのです」
松方の声に振り返る。果たして、彼は笑っていた。
「
「……」
何も答えないでいると、ふむ、と彼は腕を組んだ。
「ではこれで、最後の試問と致しましょう」
訝しめば、学修館の面接ですよ、と取り繕うように彼は付け足した。
「枢密院はまもなく大きな対外政策に打って出ます」
「っ」
北方の記憶が頭をよぎる――顔をしかめた玲那を見て、謀ったように松方は口角を上げた。
「下関条約」
びくり、と手が止まる。
彼は構わず問うた。
「清朝との講和。殿下はどうすべきと思われますか」
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