第16話 大連湾のほとりにて

 霧雨の降りる大連湾のほとりに、水色の洋傘が立つ。

 瓦礫と化した砲台を背に、ドレスの少女は立っていた。


「……似合いませんな」


 後ろから掛けられた声に、少女はゆっくりと振り向く。


「正装で来いと呼び出したのは、閣下のほうではなくて?」

「おっと、これは失礼いたしました」


 壮年の紳士は恭しく礼をする。あくまでも礼儀正しく人を舐めるものだから、少女の表情は余計に引きつる。


「相変わらず素敵なお靴をお召しなのですね、蔵相閣下」

「お褒めに与り光栄であります、皇女殿下」


 少女の敵意を難なく躱して、紳士は頭を下げた。


「それで。大蔵大臣たる方がこのような最前線まで足を運ばれて、どのようなご用件でございますの?」

「まぁそこまで焦らずとも。お茶でも頂いてゆっくり――」

「あら。まことに残念なのですけれど、ここは帝都ではございませんの。お茶から弾薬、兵糧や倫理まであらゆるものを節制した素敵な場所ですわ」

「それはそれは……あの茶の香りを楽しみにしていたのですが」

「ええ。本邸でしたらよかったのですけれど、どなたかが玲那を北海道経由でこちらに招待してくださったみたいで」


 あぁ、それに関してはご安心くださいと紳士は断った。


「そうですね。こちらに来た目的の一つではあるのですが……皇女殿下に、次の招待状をばと」

「……招待状?」


 少女は聞き返す。まさかまた赤紙じゃあるまいなと訝しむその表情は、次の紳士の一言で崩れる。


「華族学修館、中等部でございます」

「!」

「ご存知ではあられましょうが、玲那姫殿下の合格は六年前に決しておりますので、4月からは帝都に戻られますよう、復員含め、こちらで手配をしております」


 3月きりで、どうやら最前線と上川宮廷からはオサラバできるらしい。素直に喜びたいところだが、少女は複雑な心情だった。

 それを察する素振りも見せず、紳士は言葉を継ぐ。


「それで、入学前の面接と申しますか。新入生の面談のようなものに、はるばる参ったのでございます」

「……なぜ蔵相閣下が」

「3月限りですが、学修館の教授でもありますゆえ」


 あくまで仕事だという姿勢を崩さないようだ。ため息をついて、少女は顔を上げる。


「では、玲那もここでは軍人でございます。回りくどいのはなしにして頂けます?」

「……はは、では前座もこのあたりで。しかし面談の前に贈り物をば」

「贈り物?」


 彼は、玲那に一封の軍令書を渡す。


「発……陸軍叙勲部?」


 宛は間違いなく玲那の名が記されているものの、差し出し人はまったく関係のない陸軍の部署であった。しかし何か見覚えがある、それもゲーム関連での記憶だ。どのストーリーでどういう文脈で登場した部署だったか――よく思い出せない。とりあえずこの封を開いて、中身を取り出してみる。


「……?」


 二重の半透明の袋に包まれて、真新しく光沢を輝かせる何かが入っていた。


「これは?」

「『銀杖章ぎんじょうしょう』徽章です」

「??」

「北方および釜山鎮における防衛戦。秦宮はたのみや陸軍中尉の勇猛なる活躍を称えて、とのことでございます」


 はっ、と眼を見開く。そうだ――この勲章、ゲームに登場する。それも、主人公を救うこととなる重要アイテムだ。

 いつあたりだったかは忘れたが、学園で皇太子殿下はこの勲章を落とされる。次の式典までには見つけ出さねばならず、主人公も善意から手伝うことにする。有力な証言が得られたところまでは順調にいったが、悪役令嬢にとってはおもしろくない。このまま主人公が皇太子殿下の探し物を見つけてしまえば面目は丸つぶれだ。

 そういうわけで悪役令嬢はあの手この手で邪魔をする。その裏で、陸軍叙勲部に恫喝をかけて銀杖章を新たにもう一つ鋳造させようとするのだ。主人公が見つけるのが先か、悪役令嬢が銀杖章を用意するのが先か。手に汗握るストーリーだ。


 たしか主人公はその銀杖章について知るために、銀杖章を持つ乃木希典や東郷平八郎へ聞いて回ることとなる。

 いわく戦功勲章のひとつ。

 顕著な前進を称える『金鵄章きんししょう』に対して、防御における『銀杖章ぎんじょうしょう』。

 戦功に合わせて等級が六つ設けられており、杖を象った徽章には等級それぞれに異なる星の意匠が凝らしてある。乃木が持っていたのは功二等の"魁星かいせい"で、東郷のが最上位・功一等の"旭光"だったか。特に功一等の別格度合いは半端なかったな。ロシア艦隊を迎撃し、皇國の興廃を決したその英雄だけに与えられた太陽の杖――功二等までのものとは違い、杖を象った徽章ではなくがついてくるのだから。

 それも、天皇陛下の前でつくことを許されるというえげつない特権付きの杖が。


「……で、と」


 追憶もほどほどに、手元へ視線を戻す。

 この手に輝く徽章に象られた星は、とうぜん"旭光"でもなければ"魁星"でもない。そもそも功三等以上は将官でなければ叙勲されることはない。玲那は一介の中尉なのだから、良くて功五等だろう――けれどそれでもない。


「おめでとう存じます。杖章は――"翠星すいせい"です」


 松方の言葉のとおり。六つの等級の、その星が輝いていた。


「すい……せい」

「ええ。先鋒銀杖章にございます」

「先鋒?」


 喉の奥に引っかかりを覚えつつも、玲那は首を傾げる。


「金鵄章・銀杖章ともに功一等から功六等まで六つの階級があるのはご存知ですね」

「ええ」

「では、それとはまた例外に、階級や年齢に関係なく誰にでも授けられ得る戦功章級があることはご存知ですか?」


 その言葉に、はっと顔を上げる。松方は笑った。


「先鋒金鵄章、ならびに先鋒銀杖章。文字通り最前線にて先鋒となり、幾多の敵を打ち滅ぼし、困難なる戦況を打開した勇者にのみ与えられる名誉勲章です」


 等級の外側に、毅然とそして孤高に存在する"先鋒"章級。誰にでも門戸が開かれながらもただ純粋に戦果のみが問われ、その授章条件の厳しさゆえに功一等とは別枠の尊敬と羨望を惹きつける。


「……ッ」


 そして、玲那はよく覚えている。思い出した、といったほうが正しいか。

 皇太子殿下が落とされたのは――その徽章に象られた星より呼ばれるその名は"翠星すいせい"――先鋒銀杖章だ。


「そんなものを、玲那に……?」


 ゲームではのちに玲那が探す羽目になるそれを、けれど驚くべきことに、いま。玲那自身がそれを叙勲されてしまった。


「上層部の限られた者たちだけですが、気づいてはおりますよ」


 蔵相紳士は息をつく。


「英国製の機関銃を持ち込みさりげなくロシア帝国を脅して、手を引かせたのです。姫宮の機敏な叡智がなければ、露清に同時に攻められ皇國は滅亡していました」

「……ええ」

「枢密院の渡ってしまった薄氷を、間一髪で割らせなかった。姫殿下は、知る人ぞ知る救国の英雄でございます」


 震える手で受け取る翠星の勲章。なんだ、ゲームみたく陸軍叙勲部なんかに恫喝をかける必要なんかないじゃないか。あの悪役令嬢も赤紙を貰えばよかったのに。

 勲章探しイベント。まあまあストーリーの山場であったはずのそれは、主人公みたく「見つける」でもなく、あるいは悪役令嬢みたく「作らせる」でもなく。自ら銃弾飛び交う最前線を這いずり回って「叙勲される」とは。

 悪役令嬢ながら、やり方が脳筋すぎる。


「まさか……北方戦役の屈辱が、こんな形になるなんて」


 すこし笑ってみる。ゲームではあんなに輝いて見えたこの徽章も、いまの玲那にとっては泥水だ。あの無力感は二度と忘れまい――ストーリーにおける役割とは裏腹に、この徽章は玲那にとって、きっと。


「枢密院への抵抗の灯火」


 思わず口から零れて、はっと手で塞ぐ。

 おそるおそる蔵相のほうを見上げると、彼は柵に手をついて、大連湾のほうへと煙草を吹かしていた。


「そうです。それでよい」


 彼は静かに呟いた。

 真意を測りかねていると、ゆっくり彼は振り返る。


「まだ時間がありますね。すこし雑談でもいかがでしょう?」

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