第17話 東郷平八郎

 ゆっくりと松方正義は振り返る。


「まだ時間がありますね。すこし雑談でもいかがでしょう」

「……素敵なお話の振り方でございますこと」


 気分が乗るわけもない。踵を返して、玲那は本営へと戻ろうとした。


「姫宮の仰るとおり、枢密院の傀儡くぐつは増えつつございます」

「……」


 足が止まる。


「……大山司令官から、伺ったのかしら?」

「さあ。重要なのはそこではございません」


 ぎゅっとドレスの裾を掴んで、一歩踏み出す。聞いてやるものか。


「たしかに皇國枢密院は強い。ええ、ですが姫宮、それは史実という既に敷かれたレールがあってこその強さでございます」

「っ」

「これから歴史が改変されてゆくにつれて、そのアドバンテージは大きく後退していくことになりましょう」


 足は前へと進まない。


「北方戦役では、姫宮の機転でなんとか死なずにすみました。けれど次はどうなるかわかりませぬ。これから年々、枢密院の知る歴史は外れて失態を晒すことも増えてくる――そうなったとき、大切なのは何でありましょうか?」


 きりり、と翠星杖を握る手が締まる。その答えは玲那が一番知っている。


「枢密院を止める人間の存在」


 この小さな唇は勝手に動いてしまう。我ながらちょろい。

 けれど、これを口にする権利があるのは北鎮軍人わたしたちだけなんだ。


「姫宮から見て、大山巌はどう映りましたか?」

「……これから増えていくであろう皇國臣民のかたちです」


 このまま枢密院が英傑の威光を盾に、紙一重の成功を振りかざしていくのならば。誰もが自分で考えることを無駄と判断するようになって、大山のように思考を放棄していくのだろう。


「そしてそれが極まった時、いまいちど枢密院が北方戦役の如しをやらかせば」


 言わせまいと、堰を切ったように言葉が続く。


「冗談なくこの国は――迅速かつ完全に崩壊いたします」


 ばっ、と振り返って玲那は杖をつく。

 蔵相松方は笑っていた。


「そうです姫宮。ゆえに枢密院への」

「「抵抗の灯火を消してはならない」」


 重なってしまって、奥歯を噛み締める。その言葉は、これ以上ない辛酸を嘗めさせられた北鎮軍人のものだ。我ながら幼稚な感情だとはわかっている。けれど。


(……玲那も所詮は12なのですね)


 ため息をついて、頭を冷やす。

 そんな玲那を傍目に、松方はすこし遠くへ目をやった。


「来たか」


 そんな一言。時間ですね、と彼は続けた。


「松方大蔵大臣、ここに居られましたか」


 向こうから、ひとつ人影が近づいてきた。

 その姿がはっきりすると同時に玲那は息を呑む。


(……っ!)


 その顔、知っている。直接会ったことはない。面識もないけれど、教科書の片面を貸し切って載っていた――その男は、松方へと向き直る。


「閣下。はじめまして、東郷平八郎と申します」


(あの、東郷平八郎!?)


 英雄の出現に唖然としていると、彼は松方へと会釈する。


「松方閣下御自ら、こちらへ来られていると聞き及び」

「うむ。こうして顔を合わせるのは初めてだな」

「あの『英雄機関』へと呼ばれたのは開戦直前でしたもので。すぐに戦争が始まって、長らく本土を不在にしており枢密院にも出れておらず、申し訳ございません」

「そうか、ご苦労」


 松方は手で制した。


「ひとつ、聞いておきたいことがある」

「……と言いますと?」

「君の、いまの覚悟だ」


 東郷は黙りこくる。


「枢密院に呼ばれて知ったのだろう? この国が辿る運命を」

「……『史実』とやらでありますか」


 思わず目をそらした。やはり枢密院は史実知識を共有する歴史改変機関だったか。


「しかし、ここでは周りの目もあります」

「否、ここでよい。忌憚なく述べよ」


 それを玲那の前で聞かせるということの意味は、たぶん。


「では閣下。ひとつ伺ってよろしいですか」

「うむ」

「枢密院へ私が呼ばれたのは、私が『史実』で英雄となるからでありますか?」

「あぁ。人選の理由はそうだろう」


 英雄機関。その名に相応しいというわけだ。東郷はどこか諦めたようにため息をついた。


「そうですか……なれば、私の意思は最初から一つです」


 玲那はゆっくりと顔を上げる。英雄の意思、か。それを玲那に聞かせて、この蔵相は何を期待するのだろう――玲那の決意は変わるまいと知っているだろうに。

 そう思いながら、東郷の口を見ていた。




「この『独裁機関』を終わらせること」




「!?」


 その口から出たのは、予想の斜め上を行く言葉だった。

 玲那の驚愕をよそに、松方はふんと鼻を鳴らす。


「独裁、か。枢密院はあくまで史実の踏襲を避けるために設立された機関なのだがな」

「ですが、ここでの決定は枢密院の出先機関である内務省、そして財閥を通じて実現される。独裁機関そのものでしょう?」

「ならば、どうだと?」

「聖上陛下は五箇条の御誓文にて、民に広く会議を開いて政治を決めると仰せになりました。枢密院はその存在自体がそれに背いている」


 ともすれば物憂げな視線を海へと送って、言葉を継いだ。


「それを放置するほど、私の皇國臣民としての覚悟は甘くありません」


 枢密院は、内部にとんでもない劇薬を孕んだのではあるまいか。


「――と。それだけは覚えておいてくだされば幸いです」


 では、と踵を返そうとして、彼はこちらへ一瞥をくれた。


「玲那姫……?」

「ふぇっ」


 その名前を、なぜ知っている?

 尋ねる隙も残さず、彼は足早に立ち去っていった。




「枢密院も、一枚岩ではないのです」


 松方の声に振り返る。果たして、彼は笑っていた。


東郷ヤツのような枢密院議員もいれば、私のような者もいる。殿下の抵抗すべき対象はその全てなのですか?」

「……」


 何も答えないでいると、ふむ、と彼は腕を組んだ。


「ではこれで、最後の試問と致しましょう」


 訝しめば、学修館の面接ですよ、と取り繕うように彼は付け足した。


「枢密院はまもなく大きな対外政策に打って出ます」

「っ」


 北方の記憶が頭をよぎる――顔をしかめた玲那を見て、謀ったように松方は口角を上げた。


「下関条約」


 びくり、と手が止まる。

 彼は構わず問うた。


「清朝との講和。殿下はどうすべきと思われますか」


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