第10話 四編 2
明治維新の時から、在官の人物が手を抜いているのではないし、その才能が拙劣なのでもないと言っても、事を行うにあたってどうにもできない原因があって、思うようにならないものが多い。その原因とは人民の無知文盲である。政府はすでにその原因が人民の無知にあるのを知り、何度も学術を勧め、法律を議し、商法の道を示すなどをしている。時には人民に話して諭し、時には自ら先例を示し、あらゆる術を尽くしているが、今日に至るまで実効があがった試しがない。政府は依然として専制政府、人民は依然として無気無力の愚民のままである。中には少しだけ進歩したものもあるが、このための労力と出費に比べれば、労が多くて功が少ない状態である。これはなぜか。思うに、一国の文明は政府一人の力だけで進歩するものではないからだろう。政府と人民の両方がやる気を出さなければ、文明は進歩するものではないのだ。
人は言う。「政府は長い間、この愚民を御するのに、その場その場で術策を用い、その知徳(知識と道徳)が進むのを待って、それから人民に自ら文明の域に入らせるのだ」と。この説は言葉には言うことができるが、行動には移すことができない。わが全国の人民は数百年の専制政治で、人々はその心に思ったことを表すこともできずにきた。騙して他人の生活を乱し、偽って罪を逃れ、欺詐術策は人生の必需品になっており、不誠実は日常の習慣になっている。それでも恥じる者もおかしいと思う者もおらず、一身の廉恥心は尽き果てている。これでどうして、国を想う暇があろうか。政府はこの悪癖を直そうと、ますます虚威を張り、脅して叱って、強引に人民を誠実にしようとしている。しかし、これは逆に政府不信が高まる。これでは、火で火を救うようなものだ。ついに上下(政府と人民)の関係は疎になり、互いに協力しあうことができなくなる。そして双方が無形の気風を作る。その気風とはスピリットというもので、性急にこれを動かすことはできない。最近になって政府の外形は大いに改められたけども、その専制抑圧の気風は今もなお存在している。人民もやや権利を得たように見えるけど、人民の卑屈不信の気風は依然として残っている。この気風は無形無体で、すぐに一個人の一場面を見て言い表すことができないが、その実際の影響力はとても強く、世間全体の事跡に現れる。それを見れば明確にその力が虚でないことを知るだろう。
試しに一例を挙げて話そう。今、在官に人物が少ないと思わず、私的にその言葉を聞き、その行動を見れば、おおむねみな闊達(かったつ)で度量の広い士君子である。わが輩はこれの欠点を非難できないばかりでなく、その言行には慕うべきものもある。また一方の人民について言えば、平民といえどもすべてが無気無力の愚民ばかりでなく、一万人に一人ぐらいは公明誠実の良民もいる。しかし今、この士君子を政府に入れ、政治にあたらせ、その為政の事跡を見れば、わが輩を不快にさせることがとても多いだろうと思う。あの誠実な良民も政府に入れば、たちまちその節を曲げ、偽詐術策をもって官を騙しても恥じる者はいない。この士君子でもこの政治をし、この民がこういった卑賤卑劣に陥るのはなぜか。あたかも、一人の人間に頭が二つあるかのようだ。私にあっては智で、官にあっては愚。これを分散させれば明、これを集めれば暗。政府は衆知者が集まるところであり、一愚人のことを考え、世話する術を考えるところであるはずだ。――これは怪しまざるを得ない。結局、そのようになる理由は、気風に問題があるのである。気風に制せられて、人々は自ら自分の想いで自由にふるまうことができないのは、そのような気風があるからである。維新以来、政府が学術、法律、商売などを興そうとして効果がないのも、その病の原因はここにあるのである。しかし今、一時の術を用いて下民を御し、その知徳を進むのを待つとは、威をもって人に文明を強制するものなのか。そうでなければ、騙して善に導く策なのか。政府が威を用いれば、人民は偽をもってこれに応じるだろう。政府が人民を騙そうとすれば、人民は面従腹背で応じるだろう。これは上策とは言えない。たとえ、その策が巧みであったとしても、文明においては益はない。だからあえて言おう。世の文明を進歩させるには政府の力だけに頼るべきではない。
右の意見をもって考えれば、現在、わが国の文明を進歩させるには、まず、あの人心に浸透した気風を一掃しなければならない。これを一掃する方法は、政府の命令をもっては難しく、私的な議論をもっても難しく、人の先頭に立って私的に事をなし、人民の当面の目標を示す者がいなければならない。今、このような人を捜してみると、その人は農民の中にはおらず、商人の中にもおらず、また、和漢学者の中にもおらず、その任務にあたる者はただ洋学者たちだけであろう。
しかしまた、これらの洋学者たちにも完全に頼ってはいけない事情がある。近来、このような人たちがようやく増え、横文字などを読んだり、訳書を読んだりして、とても努力しているようだけど、その学者の中には文字を読んで意味を理解していない者がいるからだ。または、意味を理解してもそれを実践する気力と誠意がないか、である。彼らの行いを見て、わが輩が疑問に思ってしまうことは少なくない。その疑問とは、これらの学者士君子は、みんな官があるのを知って、私があるのを知らないのである。政府の上に立つことを知って、政府の下にいるという道を知らないのである。結局、漢学者たちの悪習を免れることができない。あたかも、漢の身体に洋の衣をつけるようなものだ。
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