第3話 初編 3

 これを中国人などのように、自分の国の他には国はないと思い込み、外国の人を見れば、異人異人と唱え、四本足で歩く家畜のように、これを卑しめ、これを嫌い、自国の力を考えず、むやみに追い払おうとし、逆にその異人に苦しめられるなどの始末は、実に自分の身のほどを知らず、人ひとりのレベルで言えば、人の権利自由を知らない放蕩の者と言える。わが日本は幕末維新により、政風は大いに改まった。外には万国の公法(国際法)をもって外国と交わり、内には人民に自由独立の意向を示し、すでに平民を平等に扱い、その権利を守ることは、開闢(かいびゃく)以来の美事。士農工商の位を一様に統一した土台は、この自由独立から生まれたものと言える。

 では、今より後、日本国中の人民には、生まれながらその身についている位などというものはない。ただ、その人の才徳と住む場所とにより位があるものである。例えば、政府の官吏を粗略に扱わないのは当然であるが、これはその人の身が尊いのではない。その人の才徳を持ってその役を務め、国民のために尊い国法をとり扱っている仕事だから、尊いだけである。その人が尊いのではなく、国法が尊いのである。旧幕府の時代は、「御用」の二文字をつければ、石でも瓦でも恐ろしく尊いもののように見えていた。世の人も数千数百の昔からこれを嫌いながら、月日を経るにつれ自然にそのしきたりに慣れて、官も民も見苦しい風俗をなしていたが、結局、これはみんな法が尊いのではなく、品物が尊いのでもない。ただ無駄に政府が威光を張り、人を脅して人の自由を妨げようとする卑怯な方法であり、実のない虚威というものであった。今日に至って、もうこんなあさましい制度、風俗は絶えて無くなり、それによって人々は安心して暮らせるようになった。ちょっとしたことで政府に対して不平を抱くことがあれば、これを隠して暗に政府を恨むことなく、その筋から静かにこれを訴えて遠慮なく議論すればいい。天の理、人の情にさえかなうことならば一命をなげうって争うべきだ。これはそのまま一国人民たる者の身のほどというものである。

 前に言う通り、人の一身も一国も、天の道理に基づいて、何にも縛られず自由なものだから、もしこの一国の自由を妨げようとするものがいるなら、世界万国を敵に回しても恐れるに足りない。この一身の自由を妨げようとする者があれば、政府の官吏も遠慮することはない。それに最近は、四民同等の基本も明らかになったから、誰でも安心してただ天の理に従って思い切り事をなせ、とよく言われるが、人にはそれぞれの身分があり、またその身分に従った相応の才徳を有してない。身に才徳を備えようとするには、物事の理を知らなければならない。物事の理を知ろうと思えば、字を学ばなければならない。これはそのまま、学問を急いで奨励しなければならない理由になっている。

 昨今の有様を見てみると、農工商の三民の身分は以前の一〇〇倍になり、やがて士族と肩を並べる勢いになっている。今日、この三民に有能な人材があれば、政府の上に採用される道はすでに開かれている。よくその身分を顧み、自分の身分を重いものと思い、卑劣な行いをしてはいけない。一般の世の中に、無知文盲の民ほど憐れみ、かつ、嫌うべきものはない。知恵のない極みは、恥を知らないことである。自分の無知が原因で貧窮に陥り、飢寒に苦しむ時、自分の身に罪を問わず、無用に傍らの富んでいる人を恨む。ひどいものは徒党を組み、強訴、一揆などの乱暴に及ぶこともある。恥を知らない者の行いだと言えるだろう。法を恐れてないと言えるだろう。天下の法を頼りにしてその身の安全を保ち、その家のくらしを保つ。頼りにするだけ頼りにして、自分の欲のためにはこれを破る。頼りにしているもの(法)を破る、矛盾である。また、生まれがよくて生活するのにお金が困ることのない人も、金銭を貯えることは知っているが、息子や孫を教育することを知らない。教育されていない息子や孫ならば、その愚かさは言うまでもない。ついに遊惰放蕩に流れ、先祖の家督も財産も煙にしてしまう者が少なくない。

 こんな愚民を支配するには、とても道理をもって諭すことができない。だから、威をもって脅す。西洋のことわざにある「愚民の上に辛き政府あり」とは、このことである。これは政府が酷いのではない。愚民が自ら招く災いである。愚民の上に酷い政府があれば、良民の上には良き政府があるという道理である。この道理で言うと、今のわが日本においても、この人民だから、この政府なのである。仮に人民の道徳心が今より低くて、無学文盲に落ちることがあれば、政府の法も一段と厳しくなるだろう。もしまた、人民のすべてが学問をやる気になって、物事の理を知り、文明の波に乗ることができたなら、政府の法も寛大になるだろう。法が酷なのと寛大なのは、ただ人民が有徳か不徳かによって変わるものである。誰が酷政を好んで、寛政を嫌うだろうか。自国の富強を祈らない者がいるだろうか。外国の侮辱に甘んずる者がいるだろうか。これは人たる者が、常に思っていることである。今の世に生まれ、報国の心がある者なら、必ず身を苦しめ、思い焦がすほど心配することだろう。ただその大事なところは、この常に思っている人情に基づいて、まず一身の品行を正し、深く学問を志し、博く多くのことを知り、それぞれの身分にふさわしい智徳を身につけることである。そうすると、政府は政治をしやすくなり、諸民はその支配を受けても苦しまなくなるだろう。お互いに働く場所を得て、ともに全国の太平を護ろうとすることの一事のみに集中する。余輩の勧める「学問」は、一途にこの一事に集結し、帰結する。



はしがき


 このたび、余輩の故郷中津に学校を開くにあたり、学問の目的を記して、昔から交わっている同郷の友人に示そうと、この一冊の本を綴った。ある人はこれを見て言った。「この本をただ中津の人へのみに示すより、広く多くの人に見せた方が、その益もまた広がるだろう」と。その人の勧めにより慶応義塾の活字版でこれを刷り、同士のみんなに捧げるものである

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