サケにはご用心

宿木 柊花

第1話

「た……だいま」


 同棲中の家へ帰ると彼女が包丁を持って微笑んでいた。


「おかえり」


 ただならぬ雰囲気にオレは即座にドアノブに手を伸ばす、すると間髪入れずにフォークが飛んできた。

 鉄製のドアに弾かれたフォークの先は見事に潰れている。


「え……どうし、たの?」


 彼女のポケットから鋭く光るカトラリーが顔を覗かせる。どれも恐ろしく殺気をはらんでいる。


「心当たりあるよね? 」



 ━━━━

 心当たりはある。

 めちゃくちゃある。

 今日、オレは浮気した。

 彼女には仕事だと言って浮気相手の家でをした。

 相手は玄関でお香を焚いたりする丁寧な暮らしをする系の女性。地味だけど落ち着くそんな存在。

 デートの痕跡も残さず、誰にも見られていないはずだ。

 連絡のやり取りも証拠を残さないやり方でしたし、疑われるような事はやらかしていないはずだ。

 大丈夫だ。証拠はない。落ち着け。

 ━━━━



「サボってないサボってない。 今日もきっちりグラス作って作業が早いってに褒められたくらいだ」

 そう、サボってはいない。

 今日は職場であるガラス工房の溶解炉の点検日で休日だった。

 ただ彼女には言わなかった。


「ウソ」

 それだけ言って彼女はオレを居間へ誘導する。

 居間はミニマリストに転身したのかと思うほど物が無くなっている。

 唯一あるのは中央の不気味な座布団だけ。

 彼女は無言でそこに座れと言う。


「これ美味しかったよ」

 話を変えようと空の弁当箱を渡す。

 彼女は管理栄養士でバランスの取れた美味しいお弁当をいつも持たせてくれる。


 弁当箱を受け取った彼女は力が抜けたように座り込んだ。

「今日の鮭はって言ったよね?」

「確かに『鮭どう?』ってLINE来たからちょっと塩辛いって言ったけど……」

 何か気に触ることをしたか?

 もしかして味ではなく鮭の種類の話だったか?

 それでこんな凶行するだろうか?

 オレの頭の中はあらゆる疑問が浮かんでは消えを繰り返していた。


「どうしてウソ吐くの? なんでなんでなんでなんでなんでなんで。ねぇなんで」


 包丁がオレの足の間に突き刺さる。


 座布団が何の抵抗もなく包丁を受け入れたところを見ると、相当に研がれている。

 これは刺激したらオレがサクッとされる。

「何が言いたいの?」

 鞄が引ったくられ中身がぶちまけられる。

 抵抗はできない。頭の中でヤバイものはないか思考を巡らす。大丈夫だ。


「やっぱりハンカチも使ってない」

 どういう事かオレには理解できなかった。ハンカチがどうしたというのか。


 全て吐き出して萎れた鞄を彼女は執拗に調べると、ポケットティッシュが出てきた。

「それもらった」

 彼女は無言でそれを揉んでいた。人生で初めて出会った未知の物体を念入りに調べるかのように。

 その姿に久方ぶりの愛しさを感じた。


「みっけ」


 ゆらりと立ち上がる彼女にはもう表情がなかった。


「浮気したよね」

「してない」

「鮭塩辛かったね」

 目を逸らせずに頷く。

「仕事のお昼に食べたんだよね」

 首肯する。

「鮭、だったんだよ」

 オレは動けなかった。

 彼女の空虚を見つめる目が潤む。

「いつも仕事で汗掻くから塩分を少しだけ多めにしてるんだよ」

 知らなかった。

「ハンカチも少し薄荷はっかを効かせて清涼感を出してた」

 何も知らなかった。

「玄関が開いたとき、知らない香りがして怖かった。そしたらこのポケットティッシュからも同じ香りがする」

「浮気とは関係ない」

 彼女はゆっくりと玄関を指差した。

「靴、同じ香り」

 分かるよね?、と彼女が目で訴えてくる。

 もう終わりだ。


「どうしたら許してくれる?」

「どうしたらいい?」

 彼女はスマホに呟いた。

 SNSの有名相談アカウント、輝け社長。彼女はよくそこに相談していた。

「あ、返事きた『捨てちゃえ、そんなすぐ嘘吐く社員いたら僕も捨てちゃうかも』だって」

 突き出されたスマホには満面の笑みで見知ったが写っていた。




 ガラス工房で【鮭で浮気がバレた】と知られたらとんだ笑い者だ、とオレは他人事のように思ったのだった。

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