初恋よ

@Natural_37

初恋よ

紺のフード付きトレーナーとセミワイドパンツ、木製の壁面に体を預け、スマホを片手に持つ。待ち合わせに見えるのは彼のみであった。

「佐野さん…?」

 距離を詰めていくうちに、声を漏らした。紛れもなく、面影を残した彼は遠くの記憶に仕舞い込んだ、初恋の人だった。

 三月の冷たすぎる風に晒されてか、頬が紅潮しているのがひしひしと伝わる。人気のない平日の駅の改札前、待ち合わせに指定したのは彼だった。ハンドルネーム、 ナンバー。確かに年齢も一致していた。かといって、この大都会でまさか出くわすとは。メジャーなマッチングアプリを遊び半分で入れたのは、ごく最近のことであった。短大を出て、何処に就職するわけでもなくバイトで食い繋ぎ、気がつけば二十二になっていた。しばらく立ち止まっていた視線に気づき、彼が顔を上げた。

「…もしかして、白岡さん?」

 無精髭をうっすらと生やして、髪も無造作に伸びた。五年という月日は余りにも無情だったが、流し目と美しい鼻立ちは紛れもなく、彼であった。

「…うん。実は」

 何処かで確信していた。私が見えないネットの世界で会話していたのは、

「マミも私です」

 彼は驚いた様子を見せなかった。それから何分かは、都内の青い空の下に沈黙とともに包み込まれていた。

「何か食べようか?」

 全てを察して頷くまでに、時間はさほど掛からなかった。



 駅から出て五分ほど歩くと、大通りに出る。お昼時とはいえ、風当たりが強く車通りこそ多いものの、人通りはまばらだった。いつの間にか繋いだ手に引かれて、とあるファストフード店に入った。

「奢るよ」

 騒々しい店内を遮るように、彼が言った。

 私はサンドイッチのセットにアメリカンコーヒーを付けて、彼はナポリタンに無糖の炭酸を頼んだ。二階の席に螺旋階段で移動すると、外の雰囲気とは打って違い、デスクワークをする人、がっつり食事をする人とで店内は八割方、埋まっていた。お昼時を少し過ぎた時間帯の日差しが、丁度いい位に差し込んだ。

「本当、久しぶりですね」

 あの時と変わらず、敬語を使う。ずっと。届かない存在だから。

「そうだな」

 彼は常に何を考えているのか分からなかった。何故かお互いに察することは可能なのに、いつも何処かでボタンをかけ違えていた。

「なんで、ナンバーって名前に?」

 彼が炭酸を静かに喉に通す。

「なんとなく決めたから」

 忘れもしない、師走の夜。前日に出た予報が当たり、大雨警報が出るほど都会の空は唸っていた。無論、カフェはまばらな客入りで店員も数人。閉店を刻一刻と待つ合間のことだった。

 店の前に、現れた八十代位の老婆が買い物に行ってきたであろうレジ袋を提げて、店の前を通る瞬間に視界から消えた。私は見ないふりをしようとしていたのかもしれない。急いで駆け付けた彼が手助けする様子を、幼き日の私はどう受け止めたのか。今でも言葉に表すことが出来ない淡い記憶。

「あれからさ」

 今度は彼が口を開いた。

「何度も追われて」

 何がと言わなくても分かった。無遅刻無欠勤の彼が忽然と辞めてしまった原因。

「警察へは?」

「行ったさ。何度も何度も。だけど実害がなかった。電子の中だけのことだし」

「そうですか…」

 後は何も聞けなかった。

「でも、今は大丈夫。ごめん。アカウント、急に消えたでしょ?」

 どさっと心に重石を置かれた気がした。あなたは、私が連絡先という唯一の手段を失ってどれだけ悲しんだことか知ってるの、口をついて出そうになる言葉を食べ物と一緒に飲み込んだ。

「…これから、どうする?」

 気まづさを誤魔化すように、スマホの液晶から時間を確認した彼が言う。

「私は、もう少しお話したいです」

 私はあの時とは違う。何も言えないくせに何かに八つ当たりしたくなる程、イラついていたあの頃とは。

「じゃあ、ちょっと移動する?」


 不思議なもので、東京は何処の道を通っても繁華街に繋がっている。昔のように、たわいの無い出来事や趣味の話で盛り上がった。仕事中の雑談とは違って、何も焦る必要はなかった。

「ねぇ、こっち行こ」

 土地勘のある私は誘導するように、路地裏に入った。年齢不詳のカップルが顔を隠すように通る道だ。この時間帯は無理もなかった。

「なぁ、どこ行くんだ」

「決まってるでしょ」

 上目遣いに彼がたじろぐ。主導権を与えなかった。

 半ば強引に彼をホテルに連れ込んだ。一回りも違う年だって、成人した今は関係ない。何度も躊躇した腕をしっかりと組みながらロビーで適当に選択した部屋に駆け込むまで、何分と掛からなかった。

「どういうつもりだよ」

 部屋の鍵をさした瞬間、彼がそう呟いた。

「なにが?」

 ガチャっとドアが鈍い音をして開いた。薄暗い廊下に佇む訳にも行かず、彼を押し入れた。

「私たち、マッチングアプリで出会ったのよ?」

 十畳ほどの小さめな部屋で薄闇の中に紫がかったピンクの光、完全に外部からは遮断されていた。

 見たことのある澄んだ目が私を瞠る。

「…こうなったって、おかしくないわ」

「君は少し強引だよ」

 彼がそう言って、セミダブルのベッドに浅く腰掛ける。

「いつも、そうなんじゃないの」

「そういう言い方は、よくないな」

 しまったと思った。自分でも尖った言い方をしたとすぐに後悔した。

「じゃあ君は、誰でも出逢った人と寝てるのかい?」

 言葉に詰まった。はいともいいえとも言えない。そんな生活をしてること自体が嫌だった。

「まあいいよ。久々に出会えたことだし、僕は嬉しかった」

 嫌だ。嫌だ嫌だ。そんな優しさ要らない。高校生の自分と重複して、心が叫んだ。

「…ください」

「ん?」

「私のこと、抱いてください」

 言葉より先に感情が絡れあってしまい、考えるより先に声に出してしまった。

 それぞれに、体を洗い流して相手の出方を待った。何度目の長い沈黙だろうか。時間は止まってはくれないのに何も変化していなかった。強引でわがままなところ、空回りしてしまうところ、彼との時間を台無しにしてしまうところ…勝手に思い込んでいたけれど、何も成長できていなかったんだ、と。

 それでも彼は、私の目線を逃すことなく追い続けた。白いマスクと影に隠れた顔が、表情を読み取りづらくさせていた。

「いいよ。君がいいなら」

「え?」

「そのために来たんだろ?」

 彼が立ち上がって空調を抑える。熱く込み上げた感情の隅で、冷静さだけが彼のサディステックさを思い出させていた。

「こっち来て」

 ベッドと壁の薄いスペースに誘導されると、彼が首元から柔らかく唇を落とした。その範囲は顎下から鎖骨まで溢れて、息遣いと共に激しくなっていく。絡れあってシーツに倒れ込み、彼が馬乗りになる。上着を取り払うと、細く鍛えられた裸体が露わになった。

「後悔するぞ?」

 仰向けになった私に、彼は警告のように至近距離で囁く。

「いいの」

 彼が私のブラウスに手をかけた。

「ねぇ、教えて」

「なんだ?」

「あの頃でも、わたしの事抱いた?」

 ボタンを乱雑に外していた手が止まる。

「どういうことだ」

「いいから。教えて」

 彼は見てとれるように考え込んでいた。

「君はあの時、十七だぞ?」

 次の言葉を待った。どうしても、彼の口から聞きたかった。

「断ったよ。どんなことがあっても。もういいだろ」

 小さな谷間に顔を埋めながら、上から下へと剥がされていく。自然と彼の背中に手を回して、彼の身体を受け入れた。乳房を頬張っていた彼が不意に顔を上げいった。

「…でも、君だったら受け入れてたかもな」

 そう言うと、姿勢を低くして無造作に生やしたわたしの茂みへと顔を近づけた。

「いや…!」

 思わず体が反応して、声が漏れてしまう。足を閉じようとする。今日は何処かおかしい。

「どうしたんだ」

 自然と涙ぐんだ顔を手で覆い、必死に隠したつもりだった。

「なんでもないの」

「いや、やめようか」

 無駄に紳士的なところが何も変わっていなかった。再び腰掛けた彼に、

「やめないで。お願い」

 様子を伺っていた彼だったが、しばらくすると何処からか持ってきた、パッケージを開ける音がした。

「わたし、ずっと佐野さんのこと好きだったんです」

 怯えていた何かから解放された気分だった。舌が当たる感覚を、熱を帯びる下半身が未だに感じている。

「だから嬉しかったけど、怖かった」

 暗闇の中で凛とした瞳が光る。今までの情事は大したものではなかった。こんなに胸が高鳴って、好きになったのは紛れもなく、目の前の彼だけであった。

「知ってはいけない姿のようで」

「…」

「でも、話したらあの頃の佐野さんだったから」

 だから余計に、そんな言葉を言いそうになる。

「変わってないって?」

「ええ。いい意味でね」

 それから、二人は微笑みあって、抱き合った。彼がわたしの中にゆっくりと挿入すると、何往復もしないうちに私は絶頂を迎えた。しかし、彼は徐々にスピードを上げていった。休む暇もなく、二度目のオーガズムを彼と迎えた。

「白岡さんは」

 彼の腕の中でその心地のいい声をずっと聞いていたいと思った。

「まみって呼んで」

 甘えた声を出すのは慣れていたけれど、恥ずかしかった。明かりを上げたからか、セックスの最中には気づかなかった腹筋の美しさに思わず、手を添えていた。

「まみはさ」

「うん」

「何人の男と寝てきたんだ?」

 天井を見上げたまま問われる。

「あなた合わせて、三人」

「そうか」

 理想に叶った答えだっただろうか。それとも、処女であった方が良かっただろうか。マッチングアプリであった時点で幻滅されていただろうか。優しさで嘘をつく彼には、愚問であろう。

「もう一回、したいの」

 過去の経験では、大胆に自ら進むことはなかった。セックスなど早く終わらせたいものだと思っていた。高校生の頃、初めてのオナニーをした時、思い起こしたのは佐野さんだった。一人で何度も彼を探した夜、叶わぬ恋だと分かっていたからか、ずっと泣いていた若い日。

「いいよ」

 交わることを誇りに思った。そして、今まで汚してきた心と体を満遍なく、彼に流してもらいたかった。貪るように密着し始めた体が、芯から熱くなる。

 仰向けになった彼の上に、ゆっくりと体重を落としていく。ペニスが最初よりも鋭角に充実している。体の振動と感覚を共有して、頭の中の言葉が弾けて真っ白になりながら、声にならない声となった。彼が激しく求めて、それは何回戦にも及んだ。私たちは時間の余す限り、何色にも染まらない激しい快感の海に溺れていった。

 着替えを終えて部屋を出る時、彼が言った。

「もう、会わないようにしよう」

「…」

「まだ追われてるんだ。僕の金を狙ってね。携帯を買い替えて、引っ越しもした」

 どこからか漏れた個人情報から、得体の知れない誰かに脅された。それが辞職の原因だった。

「でも」

「君を危険に晒したくないんだ」

 相変わらずだった。優しさに見せかけて、嘘をつくのが上手かった。

「わかった」

 部屋を出て、エレベーターを乗る直前に足がすくんだ。

「ねぇ」

 気づかずに、前を歩く彼に言った。

「幸せになってね、絶対に」

「ああ。…なんだよ急に」

 長く連れ添った彼女みたいなセリフだった。エレベーターのドアが開いて、二人で乗り込む。

「僕も好きだったよ」

 小さな箱の中で急に呟いた。

「いいのよ。お世辞なんか」

「お世辞じゃないさ。また…」

 エレベーターが一階に着く。学生と思しきカップルとすれ違った。

「なに?」

 暗くなった街並みに出ると、騒々しく明るさがうるさいくらいだった。

「…なんでもないよ」

 彼は何か言いたげな目を必死で隠しているようだった。

「また」

 朝の気まづさに戻って呆気なく二人は別れた。消された連絡先を戻すこともなく、今までを埋められたわけでもなく。また明日はお互いに違う、いつもと同じ朝を迎えるだけだ。

「さようなら、初恋」

 誰にも気づかれない声で、私はそっと呟いた。

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