16.龍花の犯人

 



 久しぶりに、悪夢を見た。


 胸の奥で固まる冷たい恐怖がじわじわと体全体に広がり始め、手先が強張る。目の前で繰り広げられる過去の拒絶の光景は、今日橘と和解した筈の内容だ。これは夢だと俯瞰しているもう一人の自分が、もう怖くはないと叫んでいる。


 けれど夢の中の自分は絶望に震えている。心の痛みが鮮烈に蘇ってきて、知らないうちに汗が滲んだ。そのとき響いた低い声に、桜は目を覚ました。


「ああ、やっぱりまだ残っていたか」


 月が翳っているのだろう、御簾越しとはいえ暗すぎる部屋の中、声の主の顔は見えない。しかし桜の部屋の前には昼夜問わず護衛がいる。こんな深夜にたった一人で部屋に入れる男性は、彼しかいない。


 悪夢に強張る体と目覚めてぼんやりした頭で、名前を呼ぼうかと思ったが声は出なかった。もしかしてこれも夢の中なのかもしれないな、と思う。帝が、こんな夜中に桜の部屋にくるわけがないのだ。


「龍花の毒はね、恋焦がれるほど苦しむんだ」


 そう言いながら桜の髪をそっと掬う。優しい手つきに、咲いている花を手折る姿を連想した。


「かわいそうに。でもお前はまだいいよ。間違えないまま治せるんだ」


 その時雲が流れたのか、御簾越しに月明かりが部屋を照らす。


 恐ろしいほど美しく、冷えた笑顔が見えた。


 瞳の昏さは夜のせいだろうか。息を呑んだ桜を見て帝がおや、と眉を上げ、ひやりとした冷たい手で桜の目をそっと塞いだ。

 殺されるかもしれない。一瞬本気でそう思い、悲鳴をあげようとしたが、悲鳴は喉に張り付いたまま音になることはなかった。


「起きてしまったか。ゆっくりお休み。今夜は、良い夢は見れないだろうけど」


 そう言いながら、目を塞いだ桜の口に丸く小さいものを入れる。口に入れた瞬間さらりとした液体に変わったそれを、桜は思わず飲み込んだ。甘い味が広がった。

 これは何なのか、帝が何を考えているのか、いやそもそもこれは現実なのだろうかと考えているうちに、桜は引きずられるように眠りの中へと落ちていった。




 ◇



「まだ眠気が取れないお顔をなさってますね」

「よくわかりま……わかるわね」


 桜の唇に紅を乗せながら言う芙蓉に驚いて敬語を使いかけ、慌てて言い直した。彼女は桜が敬語を使うと厳しく「女官に敬語を使ってはいけません」と叱る。そんな厳しい彼女は、桜の些細な変化によく気がつく。顔色だったり、雰囲気だったり。

 今も鏡に映る自分の顔は、いつもと変わりがないように見えるのに。


「寝つきが悪うございましたか」

「ぐっすり眠ったのだけど、不思議な夢を見たから眠りが浅かったのかもしれないわ」


 悪夢を見たり、帝が来た夢を見たり。たくさん寝たのに疲れてしまった。体が多少だるい。蝋梅の治癒を受けた後の状態によく似ている。


 桜の言葉に芙蓉は何も答えず微笑んで、最後の仕上げとばかりに目尻をほのかに赤く染めた。身につけた桜鼠色の衣装とよく似合う。芙蓉は化粧を終えた桜を真剣に眺め、満足そうに頷いた。


「お綺麗です」

「ありがとう」


 今日は、白萩と桔梗がお見舞いに来ると言う。あまり話したことのないーーそれも桔梗とは少しやり合った過去があるから多少気が重いが、帝の乳母である芙蓉がいる以上嫌なことを言われたりはしないだろう。


 白萩は花が綻ぶように笑う、感じの良い女性だ。理知的な顔つきに聡明さが滲み出ているが、話す内容は少女のように可愛らしかった。生まれ変わりや前世など、それまで考えたこともなかった。


(そういえば帝も信じていると仰ってたな)


 白萩と帝のその会話を、聞いてみたい気がした。



 ◇




「まあ、花桜様。お元気そうでほっとしました」

「ご心配をおかけ致しました。帝と蝋梅さまのお力で回復致しました」


 今日の白萩は希少な竜胆色りんどういろに宝珠が描かれた格調高い小袿を身につけ、桔梗は優しげな淡黄色に薄墨の小花を散らした愛らしい小袿を身につけていた。


「今日は久しぶりにお喋りができて、嬉しいですわ」


 白萩がにこりと笑う。

 桜が毒を盛られたことで、桔梗と白萩も多少取り調べがあり、また安全のため外出も制限されているらしい。


「今日こちらに伺うのも大変でしたわ。許可がなかなか降りなくて」

「本当に。まあこんな大事件ですから仕方がないことなのですけれど。早く犯人が捕まってほしいですわ」


 白萩がため息を吐き、桔梗も同意した。自分が悪いわけではないけれど、むしろ被害者なのだけれど、桜は何となく申し訳なくて眉を下げる。


 思ったよりも話は和やかに弾んだ。話し上手な白萩に、聞き上手な桔梗の組み合わせは聞いていてとても楽しい。

 二人は仲が良いようだ。桜と桔梗よりも四歳年上の白萩は、桔梗にとって姉のような存在らしい。


「幼い頃から、東一条家の一の姫と三人でよく遊んでましたの」


 そう言う白萩は懐かしそうに目を細めた。


「懐かしいわ。初めて二人に会った時、帝とお会いしたのよね。光り輝くような美しい方で」

「白萩さまは、ずっと帝に見惚れておられましたね。じっと目を離さず」

「恥ずかしいわ。でも、そうなの。初めて会った時から、ずっとお慕いしていたの」


 蝋梅も、幼い頃から帝が好きだったと言っていた。橘も小さい頃から帝と何度か遊んだことがあると言っていたし、帝の遊び相手には大公家の子供たちが選ばれるのだろう。


「帝はよく白萩さまと兄とでお話をされていたことを思い出します。わたくしは羨ましくて」

「ふふ。あなたは橘さまが大好きだったものね」

「ええ。といっても兄は花桜さまに夢中で、わたくしはあまり相手にされておりませんでしたが」


 急に名前を出されて桜は驚いた。あの頃桜と会っていたことを知るのは、異母兄たちだけだと思っていたから。


「大事な大事な子がいるのだと、言っていましたわ。どこのどなたかわかりませんでしたが、この花の儀でようやく花桜さまだと知りました」

「それは……」

「桔梗さま、花桜さまは万全の体調ではないのですよ」


 射抜くように桜を見る桔梗の眼差しに、白萩が嗜めるように言う。


「それにしても純愛ね。自分の好きな方を、尊い方に嫁がせるために心を砕くだなんて。帝もその健気な男心に心を撃たれたのでしょうね」

「橘は武士としてわたくしに尽くしてくれているだけですが、帝に気にかけて頂いているのは橘のおかげだとわたくしも思います」


 桜は苦笑して答えた。

 桜が橘を好きなことは、間違いなく橘に伝わっていた。側にいてほしいと、口でも態度でもあんなに伝えていたのだから。

 彼がもし桜を好きで、桜も彼が好きだとわかっているなら、何があってもきっと妻にしてくれたと思う。彼はそういう性格だ。だからこれは、彼なりの罪滅ぼしなのだと桜は理解していた。

 そんな話をしていると、部屋の外で何やら騒がしい声が聞こえてきた。



「失礼いたします」


 焦るような女官の声だ。芙蓉に駆け寄り、何事か報告する声が切迫している。聞き取れないが、重要な内容なのだろう。


「なんと」


 珍しく動揺する芙蓉に驚いて見つめると、芙蓉は桜を見て痛ましげな顔をした。

 意を決したように口を開き、信じられないことを口にした。


「花桜さま。橘さまが、捕縛されました」


 言っている意味が理解できなかった。

 ひ、と息を呑む桔梗の声が聞こえる。



「花桜さまを毒殺する容疑で捕まったと。部屋から毒物が押収されたと、今、連絡が」





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