07.初恋(side橘)
東一条家の屋敷には、密やかな狂気が息づいている。
隠されるように暮らしていた少女に出遭った時橘は、微かにその狂気を嗅ぎ取って、ほんの一瞬、ほんの僅かに、恐れを感じた。
青空が気持ちの良い初夏の日だった。
その日東一条家の庭で蹴鞠をして遊んでいた橘が、誤って鞠を遠くへ飛ばしてしまった。小さな小さな離れの方だ。友人の顔が強張り、取りに行こうとする橘を、強い口調で引き留めた。
「もう鞠はいい。部屋で遊ぼう」
「何でだよ。取ってくるよ」
「そっちに行ってはだめだ。母上にきつく止められている」
困った顔の友人に、バレなきゃいいだろ、と走り出した。背中に「俺は部屋に戻るから」と声が聞こえる。何に怯えているのだろう。もしかしたら何か、面白い生き物がいるのかもしれない。
鞠を取った橘が、あたりをきょろきょろしていると、恐ろしいほど綺麗な女の子が離れの小さい建物から覗いていた。
「わっ」
ーー女神なのかもしれない。一瞬そう思うほど、少女の美しさは人間離れしていた。
驚いて尻餅をつく橘に、少女は首を傾げて「大丈夫?」と言った。
◇
「絶対に見つかるなよ」
渋い顔で言う友人ーー桜の兄に橘は「おう」と手を挙げる。彼は今日も橘が桜と会うのを協力してくれる。時には友人の妹ーー桜の姉も、一緒になって。
桜の兄姉が、嫌がりつつも協力してくれるのは異母妹である妹を不憫に思い、罪悪感に駆られているからのようだった、
「俺たちは別に、桜を嫌っているわけじゃないけど、関わるとひどく叱られる」
母上もおかしくなる。そう言って彼らは苦々しく、少し悲しそうな顔をした。
桜は見た目が異常に綺麗なだけで、中身は普通の心優しい女の子だった。
橘が顔を出すとパッと顔を輝かせ、用意していたのであろう一人分の菓子をいそいそと用意する。
「これどうしたの?」
「取っておいたの!」
使用人が朝にこっそりくれたおやつを、橘が来るかもしれないと思い取っていたのだと言う。人と関わることを禁止されているらしい桜のいじらしさに、一瞬胸が詰まった。
(俺が来なかったら、この子はどんな気持ちでこれを食べたのだろう)
半分に割り二人で食べたその菓子を、「誰かと一緒に食べると美味しい」と、桜は嬉しそうに食べていた。何とも言えない気持ちで、橘はその菓子を飲み込んだ。
(いつか俺の嫁になればいいのに)
俺は桜が桜である限り、平民だろうが母親が妾だろうが、何も気にしない。俺がいたら守ってやれる。その時は、そんな風に憐憫の気持ちが大きかった。
だからまさか、こんなこになると思っていなかった。その時は。
次に顔を出した時は、特に何も考えず自分の好きだった果物をお礼代わりに持っていった。桜は大喜びで、美味しい美味しいと食べていた。無垢な笑顔だ。ぽかんと口を開けたまま、見惚れてしまった。
橘は、その時恋に落ちた。
頰がどんどん熱くなって、全身がどくどくと脈を打つ。頭を殴られたみたいな衝撃だった。
こんなに純粋な顔で、笑う人間が他にいるだろうか。底抜けに綺麗な、青空みたいな顔だった。
嬉しそうな彼女に、上擦る声で「よかったな」と告げた。今自分はどんな表情をしているのだろう。
(この子を守ろう。幸せにしよう。何があっても)
その時生まれた幼い恋は、後に彼の心を傷つけ縛る呪いとなった。
◇
桜と過ごしたあの短い日々は、橘のそれまでの人生でーーいや、十八となったこの年齢でも、一番幸せな日々だった。
ずっと一緒にいられると思っていた。顔を見るたびに苦しくて、自分を慕ってくれるのが可愛くて、何度も何度も「かわいい」と、「大切だ」と、何度も言った。「好き」の一言は言えないままに。
代わりに、「ずっと一緒にいよう」と誓うことを約束した。
橘なりに精一杯の、「愛してる、結婚しよう」の意味だった。
好きの代わりに、色々なものを贈った。女の子が好きそうな、色とりどりの蛙、簪にしたら綺麗だろう橙色の花。どれも全部、散々な結果に終わってしまった。
埋め合わせるように、勉強を頑張った。武術も、習い始めた。彼女の側にいても恥ずかしくない、そんな自分であるために。彼女に相応しい自分であるために。
(いつか彼女が喜ぶものを、彼女の指に)
ある程度、賢くなったと自負できた頃、父に結婚したい女性がいることを話した。
それが東一条家の三の姫だと話した時、父はやや戸惑ったようだった。
「噂の、人を狂わす美貌の姫か」
「噂?」
「面白がって話している連中がいるだけだ。東一条家の当主が、昔狂ったように愛した女性の忘れ形見でな。だが、東一条家に縁談の申し込みは数多くやってくるが、三の姫だけは嫁にやる気はないと言っている。打診はするが、期待はするなよ」
衝撃だった。本当に桜の話だろうか。
あの離れに追いやられた、忘れられたも同然の姫。
ぞっとする。あのまま一生、飼い殺しにする気なのだろうか。
「打診を断られてもおかしくなるなよ。あの女性が亡くなった時、彼は本当にひどい状態だったんだ」
冗談めかして笑う父に、橘は笑顔を返せなかった。
◇
案の定断られたが、別に諦めるつもりもなかった。むしろ桜の両親をより一層嫌いになり、どんなに苦労してでも桜を妻にしたかった。
ただ、橘が打診したことによって桜の元へ遊びに行っていたのがバレてしまったようだった。
その日もいつものように、東一条家の友人に会いに行くとそこには困った顔の友人と、何の感情も見えない彼の父親が待っていた。
「西園寺橘殿。単刀直入に言うが、桜と関わるのはやめて貰いたい」
抑揚のない声に、背筋が寒くなる。
「あの子は皇后候補に選ばれた。君の妻になることはない」
冷水を浴びせかけられたかのような衝撃に、目を見開いた。「皇后候補は」と呟く声が震える。
「一の姫だと……」
「帝のご命令だ。この国で帝に逆らえる者はいない。権力には逆らえん」
桜の父の瞳に、一瞬仄暗いものが映り、しかし振り切るように首を振る。
「桜は喜んでいる。候補に選ばれた桜の幸せを、君には祈っていてもらいたい。大公家とはいえ次男、秀才と名高いようだが先々の官位はたかが知れている。桜の幸せを考えたら、身の程知らずな願いは口にもできないと思うがね」
失礼する、と言って、桜の父親はそのまま出て行ってしまった。
橘に恐る恐る近づく友人が、何かを言いかけようとして口を噤んだ。彼の思いを一番近くで見ている友人が、桜を見捨てている人間が、彼に言えることなど何もなかった。
それから毎晩、考えた。
今代の帝の命令で候補になったとはいえ、皇后を決めるのは次期帝である若宮だ。多少の親交はある。感情ではなく、有益かどうかで全てを決める男だから、美しさだけで皇后を選ぶことはないだろう。
だからもしも桜が俺を望むなら、どうにでもできるのだ。聡明さを出さなければ良い。そして橘はこれまで通り、高官になるべく努力していけばいい。
しかし、桜の父に言われたことが脳裏によぎる。桜の幸せや望みとは、何なのだろうか。
桜は本当に知っていたのか。嘘ではないのか。本当に喜んでいるのだろうか。
(もし喜んでいたら、俺はどうするのだろうか)
胸が灼けつくように痛かった。衝動に身を任せて、武術に打ち込んだ。何も考えたくなかった。
それでもやはり、十日後には我慢できずに東一条家に足を運ぶ。まず友人に聞いてみよう。
そうして心の準備ができないまま桜と会い、思わず言った「住む世界が違うだろう」という言葉に桜は同意した。
心底そう思っていることがわかる悲しい顔に、衝撃を受けた。
逃げるように走り去って、それから後は覚えていない。
(いや、俺は言葉足らずだった。もう少し、話さなきゃいけないかもしれない)
愚かな希望に縋りつき、けれども確かめる勇気が出ないまま、桜からの文を受け取った。
希望を断たれた橘は、その文を握りしめて、慟哭した。
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