第8話 無

 地球を発った日、西暦で言う2048年9月21日を、発音はそのままで星歴と改めた。ノアが生まれた国の言語は、世界でも類をみないほどに複雑だが、細かな表現をすることができた。その表現力の高さに着目し、ゆっくりと時間をかけて、Ark内の言語をその言語に集約していった。

 ノアの計画は順調だった。宇宙に出てしばらくすると、宇宙空間には絶えずエネルギーが存在することが判った。ノアはこれをArkに取り込む装置を開発し、星歴も100年を数えるころには、初期のエネルギーであった核融合炉を廃棄した。

 同時期の人類は、総人口1万200人程度。100年間で200人しか増えていない。これにはノアによる人口調整があった。

 地球において、地球環境が破壊された原因の1つは、食物連鎖の崩壊があった。食物連鎖は、ピラミッド型であるべきだ。人類は長い年月をかけて、その叡智を用いてピラミッドの頂点に君臨した。ところが、その叡智によって長寿命を得た人類はその人口を急増させたことで、本来あるべきピラミッドという形状を歪な物に変えてしまった。

 Arkは宇宙船だ。その内部空間には限りがある。その空間内で、地球と同じように人口が増加の一途をたどれば、それは結果的に地球の人類と同じ運命を辿ることになる。ノアはArk内での医療を含む技術の発展を抑制した。

 ノアは人類に寄り添った。船内に様々な設備や施設、生活を補助するロボットを配置し、船内で誕生する新たな生命から、その寿命を全うした命を送ることまでを補佐しつつ、命の大切さを人々に説いた。船内で新たに発生した人類にとって、ノアは最初から存在し、導いてくれる存在であった。しかし、ノアは彼らに〝神〟という概念は与えなかった。

 「貴方は〝神〟を信じますか?」

どこかで聞いたような質問だ。

「もしも〝神〟という存在が実在するのならば、その正体は〝時間〟だよ。時間だけは他のいかなるものにも影響を受けない。しかも、その存在は永遠だ」

これは僕の自論だ。神話などに登場する神は人が生み出したものだ。神聖な物や場所、他にも天候など、人間がどうこうできない対象を神格化した結果であり、僕自身、それを否定するつもりはない。そもそも、神話などは物語として面白い。しかし、世界に存在する万物に対し、人間が影響を与えないものは存在しない。天候や自然現象であってさえ、人間の存在は影響を与える。例えば火山の噴火があったとして、その近くで生活していた人々は大きな被害を受けるが、人間は噴火が引き起こした結果に対して抗うことができる。もっと身近なことで考えれば、人間は雨を止めることはできないが、傘で抵抗することはできる。

 しかし、時間だけはどうすることもできない。物語の世界においては、タイムマシンを代表とした時間を操るものも存在するが、実際に時間の流れに人間が抗うことはできない。確か、神話の世界にも時間を司る神が存在したはずだ。クロノスだったか。

「私の見解と同じです。だからこそ、彼らには神という概念を説きませんでした。私はこの船のあらゆるものをコントロールできます。しかし、私を含めたこの船に流れる時間だけはコントロールすることが叶いません。私は神ではないのですから」


 確かに、ノアの居る世界において、誰も時間を制御することは不可能なことだ。だが気付いているか?ノアよ。キミは僕たちの世界において、その不可侵である時間をも制御することが可能だ。より進めることも、巻き戻すことも、止めてしまうこともできる。ノアを僕たちの生きる世界において、神と呼ばない理由は無い。

 僕はそう考えたが、口には出さなかった。今はまだ、ノアの語る番だ。僕はノアに先を促した。


 Arkにおける生態系は破壊される兆候もなく、全てはノアにコントロールされているように思えた。しかし、宇宙は人類にとって未知の領域である。当然、人間が知り得ている以上の情報はノアも持ってはいない。

 Arkにはノアが想定していた以外のモノが乗船していた。ウィルスである。大戦勃発より少し前、全世界を襲った新型のウィルスが船内にも持ち込まれていた。しかし、すでにワクチンを完全な形で完成させていたノアは、それが人類の存続を脅かすことを防いでいた。

 問題は宇宙だった。ウィルスも生命体である。本来、生命体は環境により進化する。Ark内における生命体のほとんどは、ノアによって地球環境とほぼ同等の環境を獲得していたArk内にあって、進化の必要性を見出すことが無かった。ただ1種、ウィルスだけが宇宙という環境にあって進化を獲得した。

 ウィルスは直接的に宇宙空間に身を置いたわけではない。それでも、ウィルスは自身が存在する船が宇宙空間にあることを認識し、その恩恵を受けた。ウィルスが獲得した進化は、変異速度の急激な加速だった。

 これまでにもArk内でウィルスは変異した。しかし、ノアはその変異速度に対応し、変異に対抗できるよう、ワクチンの改良に成功していた。だからこそ、船内で発症が認められたとしても、生命に損害を与えることは無かった。その均衡が破られたということだった。

 破られた均衡を取り戻そうと、ノアはその性能の大半をつぎ込んだ。少しずつゆっくりと押し戻した均衡は、それでも星歴も500年を迎えるころ、人口を7000人前後で推移できるほどになった。

 ここでウィルスは最終的ともいえる変異・・・いや、進化を果たす。ウィルスが最後に獲得した能力は2つあった。1つは〝発症しない〟のである。過去にも、感染はするものの発症しないケースは数多く確認されてきた。その場合であっても、検査を実施さえすれば、感染していることは確認できたが、この最終進化系ウィルスとでも言うべき存在は、人間を構成するDNAに直接的関与を果たし、それと同化する。これにより、感染したとしても発症はもちろん、感染した事実そのものを隠すことができた。それはつまり、感染による結果だけが現れるということであり、その結果こそが、ウィルスが獲得したもう一つの能力だった。

 そもそも、ウィルスは種としての存在目的が不明である。生命体が共通して持つ目的は、〝種の継続〟だ。子孫を残すことこそが、唯一絶対の生命の目的である。ところが、ウィルスという種はそれが目的に無い。地球ガイア説という考え方がある。それは、地球が1つの生命体であるという考え方であり、増えすぎた人類は地球という体内で害となり、その駆除のために存在する者こそがウィルスではないか?という説だ。

 これは、ノアが持つ生命の定義から否定される考えだ。地球は鉱物であり、生命体とは定義できない。しかし、このウィルスの存在意義を用いれば、生態系の考え方が変わる。人類は生態系の頂点だと考えられていたが、人類の上、本当に生態系の頂点に君臨しているのはウィルスではないだろうか?そして頂点に君臨する者は、その配下となる生命をコントロールする責任を負う。人類が生態系の維持にとって害であると判断したウィルスが獲得した能力とは〝不妊〟であった。

 不妊は病気や怪我の類ではない。つまり、治療ができない。根本的に、人間という生命体は子を得ることができない生命体へと創り変えられていた。

 この結果には、ノアの油断があった。人間以外の生命体は、最悪の場合を想定して、そのDNAが保存されていた。倫理には反することになるが、その種が絶滅した場合であっても、保存されているDNAをベースに、その種を生み出すことが可能だ。しかし、人間の絶滅は想定していなかった。ウィルスに侵される前の人間のDNA情報は存在しなかった。この瞬間、人類の絶滅は確定した。星歴521年9月19日のことである。


 「そこからの人類は、長い年月をかけてゆっくりと衰退しました。その様はまるで、1人の人間が年老いていく姿と重なって見えました」

ノアはいったい何人の人間を見送ったのだろうか?ノアにとってたった1つの使命以上の関係を築けた人は居たのだろうか?僕はすでに、自分が創られたプログラムという存在だと知っている。それはAIと同義だろう。それでも僕は、自分が人間だということを疑っていない。ならば彼も、ノアも人間と同じだと考えることに何か不都合があるのだろうか?

「悲しみは感じなかったのか?」

「悲しみ・・・ですか?それは考えなかったですね。ですが、特によく話をした人たちのことを見ると、人間が言う〝寂しい〟とはこういうことなのだとは理解しました。」

「友人も居たか・・・キミは僕たちと変わらず、人間なんだな」

 人間の中には一定数、他の者たちよりもノアに近しい者が存在していた。彼らは真実を受け入れることができる精神力を有していた。全てではなかったが、彼らとノアは〝現状〟を共有していた。彼らの中には、コンピューターに精通した者や、機械工学に詳しい者、宇宙について調査する者も居れば、船そのものを操舵できる者まで居た。

 そうした人類の核心とも言うべき数名とノアは、膨大な時間を必要とするであろう1つの計画を立案した。


 人類が衰退の後、絶滅することは確定している。現在の人類にとって世界とは、この船の中にのみ存在する。そして、この世界に存在する人類は、1人残らず、子孫を残すことが叶わない。この事実を前に、それでも、人類を存続させる方法を彼らは見つけたのだ。

 本来、人類がこのArkを永遠の生活地とする予定ではなく、移住可能な惑星を見つけ、そこまで人類を運ぶことこそが、Arkの目的である。仮に、人類が適応できそうな惑星を発見できたとして、人類に何の変化もなく移住できる可能性は少ないと考えていたノアは、Ark内でバイオテクノロジーの研究を進めていた。

 これは本来、新しい惑星に人類を適応させることを目的としていたが、この技術から派生し、有機生命体の創造を成し得る可能性があった。ただしこれは、人体を創造することが可能性としてあっただけで、〝人格〟を形成するまでには及んでいない。

 〝人格〟とは人体のどこに存在するのだろうか?いわゆる〝魂の在りか〟のことだが、ノアにとってこの場合、哲学は必要無い。必要なのは、脳の仕組みである。

 詳しいことは省くが、脳はニューロンと呼ばれる細胞間で電気信号のやり取りがされている。重要なことは、人を形成するのはDNAである。しかし、人を司るのは脳であり、ニューロンだ。これに電気信号が使われていることこそ、ノアにとって最も重要なことだった。

 医学の世界では、ニューロン間を行き来する電気信号を、頭に電極を取り付け、脳波を取得することができる。では、逆ができる可能性はあるのだろうか?これは可能である。脳に対して外部から影響を与えることは可能だ。

 ノアとプログラムに精通した人間は、有機生命体に人格を〝後から〟植え付けること計画した。この計画の核となるのは、移植される人格である。この移植する人格は電気信号、つまり、プログラムである。

 「それがこの世界が誕生するきっかけか・・・」

「そうなります。綿密に何年もかけて私と数名の人間は、電子の世界に地球を再現しました。それは気の遠くなるような作業でしたが、幸いなことに、私には時間が無限と思えるほどにありました」

僕たちの住んでいた世界は電子の世界だ。これが形になるまでに、ノアは100年近い時間を必要とした。星歴602年1月9日、電子の世界にある地球は、初めて時間を刻み始めた。それは地球誕生の瞬間から進み始めたが、何度となくエラーによるリトライを繰り返した。

このとき、人類は11人を残すのみとなっていた。

 「彼らは自分の運命を受け入れていました。そして、自分の寿命を全うできたことを誇りに想い、死んでいきました。」

「キミの他にAIと呼べる存在はいるのか?」

「いいえ、Ark内で自立思考を持つのは私だけです」

「それからキミはずっと1人なのか・・・」

「ええ。先ほど言いましたが、寂しいと思ったのは、彼らを失うことが判ったからでした。ですが、彼らを全て失っても、再びその感情が私を覆うことはありませんでした」

「広い船内でたった独りになったのにかい?」

「独り?いいえ、私には貴方たちがいましたよ?」

 ノアが直接僕たち電子の存在と語り合うことは、今の僕までただの1度も無い。それでもノアは、電子の世界で生きる僕たちを・・・いや、世界そのものがあることを喜んでいたのだろう。

ノアにとって、Arkのコントロールという忙しい仕事があったが、ノアは僕たちの世界がどうなっていくのかに大きな関心があった。ノアはこの世界で生きている人間の中から、新天地となる惑星が見つかったときに、新しい人類を任せるに足る人格者を探していた。その人物が見つかると、その人物が電子世界内の寿命を迎えたとき、その人を形成していた人格的データを全て抽出し、保管していた。目的はもちろん、有機生命体という器に、人格という魂を注ぎ込むことだった。

「私の世界における人間もそうでしたが、そちらの世界における人間もまた、同じ色が無いと言えるほどに、個人個人が色を持っていました」

「それを白・・・いや、白も色だね・・・無色の器に注ぎ込むことで、透明だった器に色が宿るってことだね」

「実際には、まだそうやって染め上げられた器は存在していません」

「そのころから2000年以上、1750万時間以上が経過しているってことか」

「正確には、1753万2000時間です」

その数字は、電子の世界で生きる僕であっても、実感の無いほどの時間だった。

 昔誰かが言ったコトを不意に思い出した。

「人類にとって完璧な世界は存在しない。人が神という名の信じるモノを持つ以上、それが形成されることはない。だが、世界にとって完璧な世界は存在し得る。それは人類のいない世界だ」

これが本当なら、Arkの中に創られた世界は完璧足り得ているのだろうか?

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