生けるバーチャルの死

黒猫のプルゥ

第1話

 魔理衣まりいメリー事件。


 僕、亀口辰巳かめぐちたつみにとって、それは常識を根底から揺るがすほどの事件だった。


 現実とは何か。仮想とは何か。その境界はどこにあるのか。


 生とは何か。死とは何か。殺すとはどういうことなのか。


 二十年生きてきた間に不安定ながらも築き上げた価値判断の基準が、脆くも崩れ去った。


 もしあの日、新垣護あらがきまもるから依頼を受けていなかったら、探偵気取りで事件に首を突っ込んでいなかったら、僕は今頃まっとうな人生を歩んでいただろう。大学を四年で卒業し、化粧品会社にでも就職していたかもしれない。あるいは大学院に進学し、有機金属錯体の触媒効果を研究していたかもしれない。


 あくまで仮定の話だ。実際はというと……。


 いや、ものごとには順序というものがある。僕がどんな体験をしたのか、まずはそれを知らなくては何も理解できまい。


 あれはS大学理学部化学科の学生としての二度目の夏休みが明けた頃、残暑を引きずる十月の学食から始まったのだった。





 二コマ目の基礎量子化学の初回講義が概要の説明だけであっという間に終わり、時間を持て余した僕は、二人掛けテーブルの窓側の席に座って、自販機で買ったブラックコーヒーを片手に読書していた。窓を開け放っているにも関わらず風通しが悪く、食堂内にはむっとした熱気がこもっている。じんわりと滲んだ手汗が、本のページを僅かに歪めた。


 読んでいたのはエラリー・クイーンの『中途の家』。国名シリーズは全て読了したのだが、これはまだだった。「その男は、どちらの人格として殺されたのでしょうか?」とは、なんとも魅力的な謎だ。が、〈読者への挑戦〉にたどり着くより随分前に、僕は集中を欠いてしまった。


 十一時半を過ぎた頃から急に人が増えはじめ、気づけば腹をすかせた学生たちが長蛇の列を成すまでになっていた。ちょっとくらいの雑音に思考を乱されるほどやわなメンタルではないつもりだが、夏休みの間に会わなかった友人とのおしゃべりに花を咲かせているのか、猿山に餌を投げ込んだかのような喧騒にはさすがに閉口した。


 僕は文庫本にしおりを挟んで閉じると、その群れを観察した。


 あえて地味な服装をし、おそらく高価なものであろうと推察される毒々しい色のスニーカーを見せびらかす男。


 K-POPの影響を受けたらしいメイクをして、ブリーチした髪をピンクブラウンに染めた女。


 二次元のキャラクターが描かれたグッズを目立つように身につけ、「オタク」をファッションとして着ている連中。


 それらのうちのどれもが、この学食のいたるところにいた。同じような人間が何人もここにはいた。みな着脱可能な個性を身に纏っているのだ。面白みのないすかすかの中身を隠すために、精一杯着飾っているのだ。


 へそ曲がりで幼稚なものの見方だというのは十分理解している。そもそも、自分とて彼らとそう大差はない。なめられないようにそれなりのブランドの服を着て、学科内の人間とは適当に仲良くし、飲みに誘われれば付き合い、講義を欠席したやつにはノートを貸した。まったくもってつまらない人間だ。


 思うに、僕が今どきの大学生にしては珍しく常に文庫本を携帯しているのは、そのあたりと関係があるようだ。小説の登場人物たちはみな明確な個性が与えられ、それぞれの信条にしたがって行動する。誰かから借りてきた属性で自らを装う必要はない。ミステリにおいては、しばしば人物が記号的で底が浅いなどと揶揄されるが、それでも犯人は動機があって殺人を計画し、被害者には殺されるに足るだけの理由がちゃんとある。


 どちらの人格として殺されたにせよ、だ。


 人間観察をしていたはずが、いつのまにか観察対象が自分自身にすり替わってしまっていた。改めて目を内側から外側に向けなおすと、待機列に並んでいる女子の一人がこちらを見つめているのに気がついた。いや、彼女だけではない。食堂内のいたるところから視線を向けられていた。深淵を覗くとき深淵もまた……ではない。どうやら注目を集めているのは僕ではなく、こちらに向かって歩いてきた男の方だった。


「すまん、待ったか?」


 ギターのハードケースを背負ったその男は、僕の座った椅子の真横に立った。


「待ってないよ」


 僕は感じの良い笑みを顔に張り付けて答えた。


 新垣護は目立つ男だった。いつもギターを持ち歩いていたし、黒スキニーにオーバーサイズのシャツというわかりやすいバンドマンスタイルの出立ちをしていたし、そして何より目立つのはその髪色だった。鮮やか過ぎるほどの強烈な赤。根元から毛先まで、余すところなく人工的な赤に染められていた。三十秒も彼を見つめ続ければ、白い壁に青緑のシルエットを見ることができるだろう。


「悪いんだけどさ」新垣は腰を折って目線の高さを合わせた。「ちょっと居心地悪いから、場所移さないか?」


 僕は何も言わず頷いて立ち上がった。居心地悪いのは僕も同じだ。


 学食から出てキャンパス内をそぞろ歩いた。歩きながら、鞄からプリントの束を取り出して新垣に手渡した。彼が新学期始まって早々に自主休講した講義の分だ。


「サンキュー、助かるよ。お前がいなかったらとっくに留年確定してたわ」


「いいんだよべつに。——ところでさ、使ってるルーズリーフがそろそろ切れそうなんだよね」


「わかったわかった。ルーズリーフでもブリーフでもなんでも買ってやるから」


「サンキュー、助かるよ」


 現金なやつだな、などと新垣はぶつくさ文句をこぼした。


 僕らは建物の裏に人気のないベンチを見つけて座った。これでようやく人の視線を気にせず落ち着いて話せる。


「あの事件のこと、ずいぶん噂になってるみたいだね」


 新垣がみなの関心を集めているのは、その奇抜な見た目のためではなかった。


 先月の十三日、うちの学生の一人が不審死するという事件があった。詳しい事情は知らないが、新垣はその現場に居合わせていたらしい。


「まったく勘弁してくれって感じだよな。俺が殺したわけじゃねぇっての」


「自殺ってことで処理されたんだっけ」


「ああ、うん……。そうみたいだな」


 何か含みがあるような言い方だ。


「自殺じゃないと?」


「いや、そういうわけじゃないんだが……」新垣は眉根を寄せた。「なんかしっくりこないんだよな。原因と結果が噛み合わないというか」


「はあ」


「『はあ』じゃねぇから。——まあ聞いてくれよ。頭の悪い俺にはわからなくても、亀口ならわかることがあるかもしんないだろ。ほら、探偵小説とかよく読んでんじゃん」


「ミステリばかり読んでるわけじゃないし……」


 正直言って面倒だった。確かに推理は好きだが、それは小説の中に限った話だ。現実と虚構の区別くらいはできる。


 他人の厄介ごとに首を突っ込むのは好きじゃない。巻き込まないでくれ。と、はっきり態度で主張してみせたのだが、そんなものを汲みとってくれる相手ではなかった。


愛理あいりが死んだ日は、日向ひゅうがさんと一緒にオーソンの家に行って、魔理衣メリーの——」


「待て待て。わかった、聞いてあげるから。頼むからまず登場人物の解説から始めてよ」


 僕が慌てて言うと、新垣は口角を横に引っ張るようにしていやらしい笑みを浮かべた。どうやら上手いこと乗せられてしまったらしい。


「亀口はどれくらい事件のこと知ってるんだ?」


「噂されてる程度のことしか知らないんだけど、その、愛理さん? が動画の配信者をやっていて、新垣はそれをプロデュースするチームの一人だったとか」


「まあ、間違っちゃいないんだけど」新垣はポケットからスマホを出すと、動画アプリを起動した。「ちょっと待ってな……これだ、『魔理衣メリープロジェクト』」


 そう言って新垣がよこしたスマホにはチャンネルのホーム画面が表示されていた。アイコンや動画のサムネイルなど、いたるところに同じ女性の姿がある。が、それは僕が想像していたような女子大生の姿ではない。金髪の巻毛で、ドレスを身にまとった、お嬢様風のキャラクターのイラストだった。


「愛理はリアルな人間としてじゃなくて、バーチャルアイドル、魔理衣メリーの中の人として活動してたんだ」


「バーチャル、か……」


 僕は試しに再生数の多い動画を適当に選んで再生してみた。ゲームの実況動画で、プレイ画面の右下に、魔理衣メリーの腰から上が写っている。中の人、つまり愛理さんが話すのに合わせて、二次元のイラストの口や表情がアニメのように動いていた。


 バーチャルな動画投稿者。そういう文化が存在することは把握していた。しかしこれは、僕が知っているのとは少し違うようだ。


「バーチャルって、こう、立体的なCGみたいなのが動くやつじゃないの?」


「そうだな、確かに初期の頃はそういう3Dモデルばかりだったらしい。けど、今はむしろこういう2Dモデルのほうが主流なんだよ。3Dでやるのは金銭的にも技術的にもハードルが高いから。俺もあんまり詳しくないんだけどな」


「プロジェクトのメンバーだったのに?」


「俺は音楽担当だから。——それよりその動画、やたらプレイが上手いと思わないか?」


 音楽担当とはどういうことなのかと気になったが、新垣なりにわかりやすく説明しようとしている様子なので、ここは大人しく従うことにして、また魔理衣メリーの実況動画に目を向けた。FPSをやっているようで、僕はルールすら知らないが、それでも活躍しているらしいことだけは分かった。


「うん、上手だね」


「メリーはな、良家の御令嬢で才色兼備、何をやらせても完璧にこなすバーチャルアイドルなんだよ。ゲームをやらせても、絵を描かせても上手。自分が歌うオリジナル曲も、作詞作曲からこなす」


「愛理さんはそれほど才能のある人だった?」


「いや、愛理はごく普通だった。ゲームも上手くない」


「それはどういう……ああ、そうか。だから『担当』が必要なんだね」


 合点がいった。つまり、魔理衣メリーの多彩な才能を、複数のメンバーで分担しているということなのだろう。新垣はそのうちの音楽担当というわけだ。この実況動画も、他の誰かがプレイした動画に後付けで実況をしていると、あらかたそんなところに違いない。バーチャルであるがゆえ、見えない部分が多いのをいいことに視聴者を欺こうという、まるで映像化できない叙述トリックのようなやり口だ。


「察しがいいな、さすが亀口。そんな名探偵様にはお見通しかもしれないけど、実は俺、音楽が好きなんだよな」


「何が『実は』だよ。見りゃわかるって」


「好きなだけじゃなくて作曲もできるから。魔理衣メリープロジェクトで使ってる音楽は全部俺が書いてんだよ。作曲から始めて、編曲、レコーディング、ミキシング、マスタリングまでな」


「へぇ、それってすごいの?」


「いや、自分で俺すごいとは言わんけども。でも、いつか音楽で食ってけるようになったらいいとは思ってるからな。夢、とか言うとちょっとアホっぽいけど」


 新垣は照れ臭そうに言った。理学部に入っておいてミュージシャンが夢とは、現実が見えているのかと少し心配になる。

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